ヤクルト山田哲人も愛用の「ドナイヤ」がメジャーへ! 村田社長が語る「無名グラブが世界に届くまで」

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2025年04月14日 10:10  webスポルティーバ

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偶然の出会いが導いた夢〜村田裕信とドナイヤの軌跡(前編)

『ドナイヤ』は、社長の村田裕信(ひろのぶ)がひとりで切り盛りする野球用グラブメーカーで、ヤクルト・山田哲人が愛用していると聞けばピンとくる人も多いはずだ。だがそのグラブが海を渡り、メジャーリーガーが試合で使っていたことを知る人は少ないのではないか。村田が言う。

「僕もスポーツ店の方から『メジャーの選手がドナイヤのグラブを使っていますよ』と写真を見せてもらって、初めて知ったくらいですから(笑)」

【海を渡った無名グラブ】

 事の始まりは昨年、上沢直之(現・ソフトバンク)がウースター・レッドソックス(3A)に所属していた時期に、チームメイトのエディ・アルバレスから「日本にはマニアックな内野手用のグラブがあるじゃないか」と質問されたことだった。

 アルバレスのメジャー通算成績は、4年で63試合に出場して1本塁打だが、経歴は異色だ。2014年のソチ冬季五輪で、ショートトラックスピードスケートで銀メダルを獲得すると、2021年の東京夏季五輪では、野球のアメリカ代表として銀メダルを手にしている。

 アルバレスから質問された上沢は、日本ハムのコーチである谷内亮太にLINEで連絡。谷内がその経緯について説明してくれた。

「ドナイヤのグラブはプロ野球選手も市販品を使うので、最初に注文が入った時に、僕がスポーツ店で購入してアメリカに送りました。好評だったらしく、追加でもう1個送った感じですね」

 谷内も現役時代に「7年くらい使いました」とドナイヤのグラブを愛用していた。

「耐久性があるし、信頼感もあったので、使ってよかったと思っています。アルバレス選手が気に入ってくれたのは、革質が好みだったんじゃないかと。外国人選手のグラブって、革が強いというかしっかりしているので、そこにマッチしたんじゃないかな」

 アルバレスは昨年9月、メッツ移籍と同時にメジャー昇格。ドナイヤのグラブもメジャーでお目見えとなったのだった。

「大々的な宣伝もしていないなかで、こうして人と人のつながりで世界に広がれば、僕個人はすごくいいグラブだと思っているのでうれしいですね。社長は大変でしょうけど(笑)」

【きっかけはワーキングホリデー】

 人から人、また人から人へのつながり──村田のこれまで歩んできた道のりの結晶のような今回の出来事は、遡れば野球とはまったく関係のない場所からの始まりだった。

 村田は大阪産業大学(二部)を卒業すると、関電興業という関西電力の子会社に就職。

「発電所のなかで、タービンの定期点検の現場監督をしていました。作業着にヘルメット、安全靴を履いて......仕事には満足していたのですが、『このままでいいのだろうか』と。考えた結果、ワーキングホリデーを経験して、それを生かした仕事を探そうと退職を決めました」

 当時25歳、村田はオーストラリアのケアンズから入って、ダーウィンに移動。フラッと入ったクラブの雰囲気が好きになり、通うようになった。

「そのうちにそこで働きたくなって、英語はまったく話せませんでしたが、飛び込みで『アイ・ウォント・ワーク・ヒア』と、何度断られても繰り返して採用が決まったんです(笑)」

 働きながらお金を貯めて、パースへ移動。大学の英語コースに通った。

「オーストラリアで他国の人たちと働いて話をしていると、みんな『僕は帰国したらこんな仕事をするんだ』『私はこういうことをしたい』と、自分の意思で仕事を選んでいると感じたんです。それだったら僕も、本来好きな野球に携われる仕事をしようと」

 帰国してすぐに常連だったバッティングセンター兼スポーツ用品店を訪れた。

「せっかく覚えた英語を生かしたいと思う。(アメリカの老舗野球用品メーカーの)ルイスビル・スラッガーの会社の連絡先を教えてくれとお願いしたところ、バットのカタログ冊子を持ってきてくれたんです」

 村田はスラッガーと取引している会社の電話番号を見つけると、「働きたいんですけど」と、すぐに電話をかけた。

「担当の方が『職安の募集を見てきたのか?』と聞くので、『いえ、飛び込みです』と答えたら、『キミ、面白いな。職安募集での内定者も出ているけど、面接だけでも受けてみるか?』となったんです」

 面接に行くと、その日に「試用期間という形になるけど来ないか」と電話があった。

「ただ、帰国してすぐに就職は決まらないと思っていて、冷蔵倉庫で作業するバイトを始めていたんですよ。『バイト先にすぐ辞めるのは申し訳ないので......』と相談したら、『せっかく就職できるのに、義理堅いというか、やっぱりキミは変わってるな。だったら、きちんと辞めてから2週間後においで』と」

【池山隆寛との出会い】

 タービン点検の現場監督からスタートして、飛び込みで実現させた野球に携わる仕事。とんとん拍子の展開に思えた......。

「でも、その会社はルイスビル・スラッガーのバットを扱う問屋だったんです。僕自身は、アメリカ本社と英語で輸入とかのやりとりをするイメージだったのですが、そうじゃなかった(笑)。とはいえ大学は工学部出身で、ストレートには入れない道でしたので、野球に携われるんだから、ここで頑張っていこうという思いでした」

 大阪の会社からバットを車に積んで、フェリーで九州に渡る。九州を一周しながら、スポーツ店への営業の日々。そうした生活が3年目に入ったある日のこと。立ち寄った長崎の店で、ドラマチックな縁に恵まれるのだった。

「お店の方が外国人のお客さんとの会話に困っていたので、通訳みたいなことをしたんです。それが済むと、僕はそのまま佐賀のスポーツ店に行きました。するとそのあと、そのお店に某メーカー(以下A社)の方が営業に来た際、『英語ができて、開発もできる人材を探している』という話があったそうなんです。するとお店の方が『さっきこういうことがあった』と僕のことを伝えてくれたところ、A社の方が佐賀まで追いかけてきてくれたんです」

 A社の人といろいろ話すなかで、「ウチに来ませんか」と誘いがあったという。

「最初はお断りしました。でも、そこに行けば英語も生かせる。大阪にいたら営業だけで終わるものが、東京へ行けば開発もできるし、プロ野球選手の担当もできる。仕事の幅も広がるということで、A社にお世話になることを決めました」

 村田がA社で最初に担当したプロ野球選手が、のちに『ドナイヤ』の名づけ親となるヤクルトの池山隆寛(現・二軍監督)だった。

「池山さんは1年後に現役を引退するのですが、この出会いがなければ、今の僕はなかったかもしれないです」

 その後、選手とのつながりを広げていくなかで、村田は徐々にグラブの奥深さに惹かれていくのだった。

(文中敬称略)

つづく>>

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