
2024年度をもって現役引退を表明したGMOインターネットグループの森田歩希。実業団では故障も重なり、青学大の黄金期を支えたような活躍はならなかったが、その軽快な足さばきは、新たな人生においても変わらない様子だ。
すでにGMOの社業で奮闘する森田にあらためて大学から実業団へのトランジションについて、また、第2の人生に向かう過程について、語ってもらった。
後編:森田歩希インタビュー(全2回の2回目)
前編「森田歩希が振り返る青学大黄金期の強さの理由」
【コロナ禍、故障と熱量が下がって......】
GMOインターネットグループ株式会社に入社した森田歩希の競技生活の滑り出しは順調だった。
「監督の花田さん(勝彦・現・早稲田大学監督)とも相談して、1年目はトラックに力を入れつつ、ハーフマラソンもしっかり走って、ゆくゆくはマラソンに挑戦していくイメージを持っていました」
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2019年の初年度は好調、7月6日に行なわれたホクレンディスタンスチャレンジでは5000mで13分43秒10の自己ベストをマークする。
「最初はビジョンどおりでした。ただ、1年目の後半から故障があって、そこから流れがうまくハマらなくなってきました」
もともと、森田はアキレス腱の故障に再三悩まされていた。練習の継続が困難になったところにコロナ禍が直撃した。
「2020年の前半はチームとしての活動が止まってしまい、自分ひとりで練習する状態が続きました。マッサージを受けることもできなかったので、疲労感が抜けない感じでしたね。夏以降も練習と試合の結果がマッチしない状態が続いてしまいました」
それでも3年目の終わり、2022年2月の全日本実業団ハーフでは、1時間01分28秒の自己ベストを出し、「戻ってくる兆しがあったんですが」、その後も故障に苦しんだ。そんな 森田が引退を決めたのは5年目、2023年の後半だった。
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「来年で終わろう、と思いました。ケガもあって自分のなかの熱量が下がってきてましたし、このままずっと続けるのも......と感じてました。それにお金をいただいて走っているので、結果を出す責任もありますから」
結果的に引退レースとなったのは、2024年6月30日に行なわれた函館ハーフマラソンだった。タイムは1時間09分54秒。決して夢に描いていたようなキャリアにはならなかったが、この経験は森田の人生を豊かにする可能性を秘めている。
【「社会人へのトランジションは長距離選手にとってはチャレンジ」】
「振り返ってみると、マラソンで代表になるだとか、オリンピックに出るんだという明確なビジョンを描けていなかったと思います。社会人に入ってからのトランジションがコロナの影響もあってうまくいかなかった面もありますが、大学から社会人へのトランジションは長距離選手にとってはチャレンジだと思います。
高校から大学へのトランジションは、どんな色にも染まれます。高校時代は時間も限られていて、指導する先生方の作るメニューをこなすことに注力する。大学ではそのベースに色づけがされます。僕としては、青学のスタイルには溶け込めて、スムーズに移行できたと思います。
ここからは一般論になりますが、大学から社会人のほうが適応しなければいけない要素が増えると思います。そこでうまくハマれば競技成績が伸びるし、苦戦する場合もあるのかなと」
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森田の見立てでは、実業団で競技を続けられるのは大学時代に一定の競技結果を残したうえで、自分のスタイルをある程度、確立している選手である。実業団で競技を続ける場合、生活面を含め、新しい方法へ適応するのによりパワーが必要になり、社会人への移行は、想像以上に難しいという。
そしてもうひとつ、適応しなければならなかったのが「厚底シューズ」だった。
ナイキが厚底シューズを発表したのが2017年。設楽悠太(Honda、現・西鉄)が東京マラソンで日本記録を更新したのが2018年2月。そして箱根駅伝にその波が押し寄せたのが2019年、ちょうど森田が4年生の時で、この大会でナイキの占めるシェアは41.3%に跳ね上がった(前年は27.6%)。
「大学4年の箱根では薄底で走っていました。社会人1年目にガーッと広まって、2020年のニューイヤー駅伝を走った時には、かなりの手応えだったのに、3区で区間7位止まりだったんです。ああ、これは厚底の影響もあるなと思ったんですが、僕自身はその後、うまく適応できませんでした。やっぱり、子どもの頃の接地のタイミング、感触が記憶されているんですよ」
2020年代に入って、大学時代から厚底に慣れ親しんだ選手たちが社会人となり、森田たちの世代は突き上げを食らうことになる。
「その意味では、厚底の狭間の世代でしたね」
【「キツいところに行きたいです」と答えました】
2024年6月の函館ハーフを終えて、森田は走ることから距離を置いた。GMOインターネットグループの陸上部を支えつつ、セカンドキャリアの準備に入った。
「もともと、陸上どっぷりの生活も嫌だなと思っていたので、GMOの中でどんな仕事ができるか、考え始めました。それに、原さん(晋・青学大監督)と話した時に、『もしも将来指導者になるとしても、一度、陸上の外の世界を経験したほうがいい』と言われていたので、会社員としてどれくらい成功できるのか、そこにチャレンジしようと考えました」
GMOインターネットの伊藤正社長と面談した時には、こんな話もした。
「成り上がって、お金持ちになりたいと話しました(笑)。社長からは『どんな仕事をしたい?』と質問されて、ビジネスにおいては同世代に後れを取っているため、早く追いつきたかったので、『キツいところに行きたいです』と答えました」
現在、森田が勤務している部署は昨年立ち上がったばかりの部署で、森田自身は生成AIの開発や、機械学習に最適化されたGPUクラウドのマーケティング、営業を担当している(https://gpucloud.gmo/)。
「できたばかりの部署に行くのは、自分の希望とマッチしていました。引退してから仕事に就くにしても、出来上がった部署に行くと流れに乗るだけで、自分の成長が少ないのかなと思ったので」
自分の人生はここから−−そんな森田の意気込みが伝わってくる。そして自分の可能性を切り拓くために資格試験にもチャレンジしている。
「2022年に結婚しまして、妻からの勧めもあって、中小企業診断士の資格の勉強を進めています」
中小企業診断士は国家資格。一次試験では「経済学・経済政策」、「財務・会計」、「企業経営理論」、「運営管理(オペレーション・マネジメント)」、「経営法務」、「経営情報システム」、「中小企業経営・中小企業政策」の7教科が課され、森田は昨年一次試験に合格し、今年は二次試験を受ける予定だ。
「いまはまだ、社会人としての準備を進めているところです」
タッ、タッ、タッ、タッと軽快に前に進んでいた森田。競技生活から引退し、ジャケットを着る生活になっても軽快なリズムは変わらない様子だ。
「本当にこれからだと思います。走るほうですか? 今は健康維持のために走ってますけど、そのうちハーフマラソンや、フルマラソンに出たくなるかもしれませんね」
●Profile
もりた・ほまれ/1996年6月29日生まれ、茨城県出身。御所ケ丘中(茨城)―竜ヶ崎一高(茨城)―青山学院大―GMOインターネットグループ。中学3年時に5000mで当時の日本中学最高記録(14分38秒99)をマークし、高校時代はケガに悩まされる期間も多かったが、青山学院大に入学すると2年次から主力として台頭。三大駅伝のデビュー戦となった全日本大学駅伝では6区区間賞を獲得しチームの優勝に貢献すると、箱根駅伝では4区区間2位、3年時に2区区間賞とチームの3、4連覇に貢献。4年次には主将を務め、出雲駅伝、全日本の二冠、総合2位となった箱根では3区を区間新記録で区間賞を獲得した。卒業後にGMOインターネットグループ株式会社に入社し、トラックを中心に競技を継続。2024年度を持って現役引退を表明。現在は社業に専念し、GPUクラウドのマーケティングと営業を担当する。(GMO GPUクラウド商材サイトはコチラ https://gpucloud.gmo/)。