K-1復帰戦で「青い目のサムライ」アンディ・フグと闘った佐竹雅昭「あの内容が僕の限界だった」

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2025年04月17日 18:31  webスポルティーバ

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空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第15回

(第14回:K-1休養中、ビートたけしの番組などで活躍 「空手家=食えない」という構図を打破した>>)

 現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。

 59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第15回は、長期休養からの復帰戦となったアンディ・フグとの試合について語った。

【フグとの闘いに「燃えなかった」理由】

 1995年5月4日のK-1グランプリでジェロム・レ・バンナにKOで敗れたあと、蓄積した脳のダメージの影響で長期休養に入った佐竹。復帰を決断したのは、それから1年5カ月後の1996年10月18日。舞台は横浜アリーナだった。

「『そろそろやらないか』とオファーが来て、ドクターからも許可が出たんで、『もう1回チャレンジしようかな』と思ったんです」

 対戦相手は、同年5月に開催されたK-1グランプリで初めて優勝したスイス人の空手家、アンディ・フグだった。10歳で極真空手スイス道場に入門したフグは、23歳で出場した1987年の世界大会で決勝まで進み、当時"最強"とうたわれた松井章圭と激闘を演じた。そこでは敗れたものの、極真の"外国人最強の空手家"として注目を集めた。

 その後、佐竹が所属する正道会館に移籍してプロ転向。グローブマッチに挑み、1994年からK-1に参戦した。同年と1995年のグランプリは、ともに1回戦で1ラウンドKO敗け。しかし、リベンジを期した1996年に空手家として初の優勝を成し遂げ、絶大な人気を獲得した。

 佐竹とフグは、1993年10月3日に大阪府立体育会館で行なわれた「カラテワールドカップ」で、空手ルールで対戦している。延長戦でも決着がつかず、試し割り判定で佐竹が勝利した。

「ワールドカップでは試し割りまでいって僕が勝ったんですが、彼は極真での実績があって、ものすごく強い選手でした。ただ、正直に言いますと、この時は心の底から燃えられる対戦相手ではなかったことは事実です。何かピンとこなかったんですよ。

 彼は極真をやめて正道会館に入ってきたので、同門になってしまったわけです。しかも当初は、大阪の本部道場でスパーリングや練習をして、彼がグローブに慣れようと必死に頑張っているところも見ていました。だから身内みたいな感覚になって、燃えなかったというか......。(ドン・中矢・)ニールセンとやった時のような、『何が何でも倒さなきゃいけない』という感覚にはなれなかったですね」

【フグのかかと落としはどんな技だった?】

 しかし、周囲は一騎打ちを盛り上げた。中でも大会を中継するフジテレビは、1993年にK-1を放送を開始してから4年目にして、初のゴールデンタイムでの中継を決定。格闘技に興味がない視聴者を惹きつけるため、多くのバラエティ番組で活躍し、抜群の知名度を誇っていた佐竹の出場が不可欠だったのだ。

 K-1グランプリを優勝したばかりのフグとの対戦は、ゴールデンタイムに"うってつけ"のマッチメイクだった。佐竹にとっても自身の試合がゴールデンタイムで中継されることは初めてだったが、それも燃える材料にはならなかった。

「ゴールデンタイムだから特別だとは思っていなかったし、『アピールしなきゃ』といった意識もありませんでした。ただただ、『ゴールデンでやるんだ』という感じ。振り返れば、復帰することは決めましたが、自分が求める闘いとK-1がやりたいことの間にズレが生じてきていたんでしょう。

 K-1にいながら、K-1にいない感じというか......。あの頃は、プロ野球やJリーグのように誰からも認められるスポーツ、格闘技にするために、もっとやらなきゃいけないことがあったと思うんですよ。例えば、ランキング制を導入するとか、コミッションを設立するとか。だけど、現実では"ショー"のようになっていった。やってることすべてがビジネスだったから、『いつか限界が来るだろう』と思っていましたし、地に足をつけようとしないスタンスや考え方が苦手でした」

 初のゴールデンタイム進出で盛り上がる周囲とは対照的に、佐竹は冷静だった。

 迎えた試合では、フグが再三、必殺の「かかと落とし」を繰り出した。フグの代名詞とも言えるが、どんな技だったのか。

「かかと落としは直線的で射程距離もわかりますし、効くものじゃないんです。あれでKOされることはないので、そんなに怖さはありませんでした。ただ、派手で見栄えがいい技ですから、プロとして観客を盛り上げ、ムードを自分優位にさせることに効果的であることは事実ですね」

 両者とも決め手を欠いたまま5ラウンドが終了。判定で佐竹は敗れた。

「僕の中では、ブランクもありましたし、よく頑張った試合だったと思います。いろんな複雑な感情がありながらも、あの時にできる精一杯の熱い試合ができたかな、と思っています。逆に、あの内容が僕の限界だったかもしれません」

【35歳での急逝に「ショックでした」】

 初のゴールデンタイム中継は、視聴率15.6パーセント(ビデオリサーチ社調べ)と高い数字を記録した。その後のフグはK-1に集中するため、家族をスイスに残して日本に住み、リング上だけでなくテレビ番組やCMなど数多くに出演。"青い目のサムライ"や"鉄人"とも呼ばれ、K-1の人気を牽引した。

 しかし2000年8月24日、急性骨髄性白血病により、東京都内の病院で急逝した。35歳とあまりにも若すぎる死に、ファンだけでなく佐竹も衝撃を受けたという。

「あまりにも若かったので......。何度か闘いましたし、同門でもありましたからショックでした。あらためて彼のことを思い出すと、いい意味でものすごくプライド高い選手でしたね。プロになってから強くなって、金銭面でもドリームを手にしたでしょう。ただ、印象に残っているのは、正道会館に入門してきたあと、身長180cmくらいのヘビー級としては小さい体で、グローブに適応しようと必死だった姿ですね」

 フグとの復帰戦のあと、佐竹は再び定期的にK-1へ参戦することになった。翌年の初戦の相手は、"剛腕"マイク・ベルナルド。当時のK-1は、ピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、フグ、ベルナルドが"K-1四天王"と言われ、人気も高かった。そんな四天王の最後のひとり、ベルナルドとの試合は激闘になった。

(つづく)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

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