「防潮堤があるから大丈夫」と逃げない人がいた「油断と過信が犠牲につながる」被災地の教訓

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2025年04月27日 19:10  まいどなニュース

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かつて「万里の長城」と呼ばれた防潮堤の上で津波被害について語る元田さん(右から2人目)=岩手県宮古市田老

 東日本大震災から14年が経過した。大津波に襲われた岩手県沿岸部では、被災者たちが語り部となり、被害と教訓を次世代に伝える活動を続ける。

【写真】震災遺構「たろう観光ホテル」は上層部が震災前の姿を保ち、6階では津波襲来の映像を見ることができる

 県庁のある盛岡市からバスに揺られ約2時間。津波で181人の死者・行方不明者が出た宮古市田老地区で、宮古観光文化交流協会が実施する「学ぶ防災」に参加した。

 「『この防潮堤があっから大丈夫だべ』と逃げない人もいた。どんなにハード面がしっかりしていても、油断と過信が犠牲につながる」。かつて「万里の長城」と呼ばれた、町を囲う高さ10メートルの防潮堤の上で、ガイドの元田久美子さん(67)が語りかけた。

 震災で田老は高さ15メートル超の津波に襲われ、総延長2・4キロの「長城」は約500メートルにわたって崩れ去った。

 町に残る震災遺構「たろう観光ホテル」は、津波の威力で2階以下が鉄骨だけになったまま保存されている。「学ぶ防災」では最上階の6階で、当時撮影された津波の映像を上映する。映像は「この場所で見ることに価値がある」と位置づけ、他の場所では公開していない。

 映像には、津波がホテルから200メートルほど先の防潮堤にぶつかり白いしぶきが舞い上がった直後、あっという間に家々を飲み込んで町を覆い尽くしていくさまを克明に記す。がれきを巻き込んで黒い塊のようになった津波が、金属音を立てながら目の前に迫ってくる様子は、これまで目にしたどの記録映像よりも恐ろしかった。

 住民の中には「防潮堤で海が見えなくて逃げ遅れた」と言う人もいるというが、元田さんは「津波が防潮堤を越えてからホテルまで10秒。見てから逃げても遅いんです」。窓の外に広がる更地の景色を背に語る言葉には説得力があった。

 震災までは同市の遊覧船乗り場で働いていたという元田さん。津波で義母が行方不明のままで、市から語り部の依頼が来た当初は断っていた。しかし、当時90歳の義父が1933年の昭和三陸地震や戦争について話していたことを思い返した。「酒が入る度にそういう話をして、正直うるさいと思っていた。でも、経験した人の話をちゃんと聞くべきだった。次は自分が『うるさいおばさん』にならないと」。

 14年が過ぎ、地元の人からは「いつまでやんの?」と冷たい言葉を投げかけられることもある。それでも、「これからの世代を考えると、伝えていく意味がある。生きていてよかったと思えるのはこの仕事のおかげ」と力を込める。

 これまでに修学旅行生や企業研修など、のべ20万人以上を案内してきた。「子どもはディズニーランドがいいと言うけれど」と苦笑しつつ、都会からのアクセスが悪いからこそ、修学旅行で来てもらうことに意義があると考えている。

 震災後、海岸には高さ14・7メートルの新たな防潮堤が建設されたが、「逃げる時間を稼ぐためのもの。5分で逃げられる町を作っても、逃げなければ意味が無い」と元田さん。

 明治、昭和の三陸地震やチリ地震など、何度も津波に襲われてきた東北沿岸。その度に集落の高台移転や防潮堤建設など、備えは強化されてきたが、時がたてば教訓は薄れ、便利さを求めて再び海の近くに家が建ち、被害は繰り返された。

 「災害は忘れたころにやってくるのではなく、人が忘れるから災害になるんです」。元田さんの言葉から、田老の犠牲を絶対に無駄にしないという、強い決意を感じた。

(まいどなニュース/京都新聞)

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  • 能登では5mほど隆起した場所もあるそうだ。その逆もしかり。10m沈下したら…。歴史と地理的状況を加味すると、日本の沿岸では100mクラスの津波が起こり得ると海無し県人は常々思っている。
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