
西部謙司が考察 サッカースターのセオリー
第46回 ペドリ
日々進化する現代サッカーの厳しさのなかで、トップクラスの選手たちはどのように生き抜いているのか。サッカー戦術、プレー分析の第一人者、ライターの西部謙司氏が考察します。
今回は、バルセロナでますます輝きを放つ22歳、ペドリを取り上げます。現代サッカーのなかで明らかに異質な選手に見える、そのプレーの神髄に迫ります。
【見ていてストレスのない選手】
世界最高クラスのMFがまだ22歳だという事実に驚かされる。すでに円熟の境地にあるというより、それ以上だ。現代サッカーで明らかに異質のプレーヤーであるペドリは、ある意味古典的でもある。
今のバルセロナで最もバルセロナらしい選手であるペドリは、カナリア諸島で生まれた。バルセロナの下部組織にいたことはない。ラス・パルマスのカンテラで育ち、16歳にして4年契約を勝ち取った。わずか1シーズン後にはバルセロナに移籍している。そしてカンプ・ノウにやって来た時点で、誰よりもバルセロナらしい選手だった。
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174センチ、68キロの華奢な肉体。屈強な相手選手のコンタクトをひらりとかわしていく。テクニックはフィジカルに優るというクラブの信条をそのまま体現する。バルセロナらしいと言っても、バルセロナにペドリのような選手が山ほどいたわけではなく、アンドレス・イニエスタ、シャビ・エルナンデス、チアゴ・アルカンタラ、デコといった数人の名が挙がる程度だろう。
ずっと見ていたくなる選手だ。
俯瞰やテレビ画面で見ている側には、フィールド上より多くのものが見えるので、あそこにフリーの味方がいるとか、こちらへ運べばいいのに、こういうプレー選択をすればいいのに、と思うことがよくある。
しかし、ペドリに関してはそういうストレスが全くない。それどころか、見ている側が思いもよらないプレーもしばしば飛び出す。今度は何をしてくれるのかと期待は膨らみ、それをも上回ってくれるのだから目が離せない。常に正解を出し、正解以上のものも見せてくれる。
足に吸いつくような、というより実際に吸いついているボールコントロール。相手の足がどこに動くのか読みきっているドリブル。するするとゲートを抜け、相手守備陣をコントロールしてチャンスを作る。
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ヒールキック、スプーンパス、クロケッタ(ダブルタッチ)といったクラブのレジェンドであるミカエル・ラウドルップの遺産もしっかり継承している。バルセロナで育ったわけではないが、幼いころから大ファンだったせいかもしれない。
【どうプレーすべきか知っている】
「どうプレーすべきか知っている選手と共にあることが重要だ」
ブラジル代表監督として最多勝利記録を持つマリオ・ザガロの言葉である。
ザガロはフィジカルが優先される現代サッカーの風潮を憂いていた。
「筋肉がスキルに勝つ。このトレンドによって欧州の伝統的な強豪が多くの問題を抱えるようになった。小さな国が大きな国の才能ある個の表現を妨げている。しかしブラジルではまだかつてと同じ種類のプレーが愛されていて、私のアプローチはプランを廃して選手たちを完全に自由にすることだ」
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この言葉に続くのが前記の「どうプレーすべきか知っている選手と共にあることが重要だ」なのだが、監督なのに「プランを廃して」と言っているのがすごいところだ。「監督にどうプレーすべきか言われる必要のない選手と共にあることができるかどうか」が重要という監督だから、プランなど要らないというわけだ。
実のところザガロはけっこうな戦略家なのだが、基本的なスタンスは選手に自由を与えることだったようである。
ペドリは「どうプレーすべきか知っている選手」だ。
ザガロの言う「どうプレーすべきか知っている選手」がひとりでは、おそらくどうにもならない。複数いることでチームとして威力が出てくる。ただ、そういう選手を複数揃えるのはセレソンと言えども簡単ではなく、例えば1970年メキシコW杯のペレ、トスタン、リベリーノ、ジェルソンや1982年スペインW杯のジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾというケースのほうがむしろ例外的だった。それでも何度かは実現しているのは、サッカー王国たる所以だろう。
バルセロナは「どうプレーすべきか」の「どう」が論理として継承されていて、ペドリほどの天才でなくても、ある程度はアイデアを共有できる環境と言える。
それでもアイデアの完全な一致という点で、ペドリとリオネル・メッシ以上の関係性は今のところない。時と場所を完全に一致させていた関係は、シャビとイニエスタを失った後のメッシに久々に現れた最良のパートナーだったのではないか。それほどペドリは現代サッカーで稀有な存在なのだが、かつてはそこまで珍しくはなかったのだ。
【フィジカル重視の時代に異質】
サッカーからファンタジーがなくなったという意見をたまに聞く。プレーメーカーがいなくなったとも。
「1960年代は技術だった。我々の時代(1970年代)も基本的にはまだ技術だった。しかし、今はただ選手は走るだけになってしまった」
ヨハン・クライフがこう言った時の「今」は1980年代だ。最近ではフランチェスコ・トッティが「今のサッカーはつまらない」という発言をしている。この手の体力重視、技術軽視へ警鐘を鳴らす発言は、実はずっと以前から続いている。
では、本当にサッカーはつまらなくなり、技術は低下しているかと言えば、とてもそうは思えない。試しに1970年代の試合を見てみればいい。どの試合を見るかにもよるが、現在の技術は格段に向上していることがわかるはずだ。
技術が低下しているという類の発言で気をつけなければならないのは、発言の主の多くがかつての名手というところだろう。
技術的に最高レベルに到達した選手に時代性はあまり関係がない。彼らにとって、現代のスピーディでフィジカルに傾いたサッカーは拙速に見えるのだろう。「どうしてそのプレーになる?」と感じるようなことが多々あって、たぶん見ていてストレスを感じてしまうのではないか。
プレーメーカーが絶滅したわけではなく、ペドリがいてヴィティーニャもいるが、確かに数は減った。少なくとも1970年代までは技巧とアイデアに優れ、ブラジル代表クラスとは言えないまでも、ザガロの言う「どうプレーすべきか知っている」タイプがチームにひとりくらいはいたものだったのだ。
しかし、かつての名プレーメーカーも現代ではプレーできない。ペドリと似ていて1960年代に「超頭脳」と呼ばれたジャンニ・リベラでも到底無理だろう。いくらうまくても、フィジカル面で条件を満たしていなければプレー機会は与えられないからだ。そこをクリアしたうえでのペドリなのだ。逆に昔はフィジカル面では全然及ばないながら、ペドリと似たタイプの選手はいろいろなチームで見られた。
極論すれば現代サッカーはファンタジーを求めていない。それよりも優先すべきことがあり、「どうプレーすべきか」を知っているかどうかもほぼ問われない。平均的な技術水準は上がっているが、それ以上にフィジカル能力が上がっているのでそうは見えない。そうやってサッカーは進化してきた。
ただ、ペドリを見ていると本当にこの進化の仕方でよかったのだろうかと、考えさせられる時もある。
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