渡辺久信が感謝する広岡達朗との出会い 「厳しい監督のもとで1、2年目に真剣に野球と向き合えた」

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2025年04月28日 08:01  webスポルティーバ

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渡辺久信インタビュー(後編)

 西武黄金期を支え、指導者としても手腕を発揮してきた渡辺久信氏。広岡達朗、森祇晶、東尾修、伊東勤といった名将たちのもとで培った経験や、台湾での"第二の青春"とも呼べる挑戦の日々、さらには自らの指導哲学に至るまで──。「渡辺野球」の原点と未来への思いを語った。

【西武1位指名の舞台裏】

── 西武時代の現役時代は、広岡達朗監督(1984〜1985年)、森祇晶監督(1986〜1994年)、東尾修監督(1995〜1997年)の下でプレーされました。コーチ時代には伊東勤監督(2004〜2007年)にも仕えています。それぞれ、どのような野球をされていたのでしょうか。

渡辺 広岡監督といえば、皆さんご存知の「管理野球」です。野球だけでなく、食事まで徹底的に管理されていました。私は高校時代から管理されるのが苦手で、「久信は西武に行かないほうがいい」と周囲からも言われていたほどです(笑)。

── そうなると、西武に行かないという選択肢もあったのでしょうか?

渡辺 いえ、ドラフト1位だったので、すぐに入団を決めました(笑)。いま振り返ると、あの厳しい広岡監督のもとで1、2年目に真剣に野球と向き合えたのはよかったと思っています。そうでなければ、私は遊びほうけていたかもしれません(笑)。そもそも、広岡監督が私に目を留めていなければ、西武に入団することもなかったかもしれません。

── それはどういう意味ですか?

渡辺 西武は1983年に日本一になっていたので、ドラフトの指名順は12球団中最後でした。1位では4球団が競合した東海大の高野光投手(のちにヤクルト)が外れ、次をどうするかとドラフト会場で根本陸夫管理部長らと相談していたそうなんです。

── 指名リストを見ながら話していたんですね。

渡辺 その時、広岡監督が「最上位にリストアップされている前橋工の渡辺を指名しなくていいのか?」と尋ねたそうです。「えっ、渡辺久信ってまだ残ってたっけ? なら、渡辺でいこう!」といったやり取りがあったと聞きました。

── 一軍に引き上げてくれたのも広岡監督だったとか。

渡辺 はい。広岡監督はよく二軍の試合を視察に来られていました。私は二軍では打たれることが多くて、当時の二軍監督には「カーブもまともに投げられない渡辺を一軍に上げるわけにはいかない」と言われていました。

 それでも広岡監督はさまざまな理由をつけて、私を無理やり一軍に上げてくれたんです。当然、二軍の先輩投手たちは面白くなかったようで、ふてくされていたとか(笑)。私は6月に一軍初登板を果たし、8月には初先発初勝利、それも完投で勝ちました。もともと目立ちたがり屋だったので、観客の多い一軍ではより頑張れたのかもしれませんね(笑)。

【台湾プロ野球は第二の青春】

── 森監督は先程(中編で)「戦力をうまく使いこなしてリードを守り切る手堅い野球」だとお伺いしました。では、東尾監督の野球はいかがでしたか?

渡辺 東尾監督は現役時代から一緒に投げていた方です。勝負どころでの「ここ一番」の勝負強さ、いわば"勝負師"としての姿勢に学ぶところが多くありました。

── 伊東監督についてはどうでしょうか?

渡辺 伊東監督とは、現役時代にバッテリーを組ませていただきました。監督時代には、私は二軍投手コーチや二軍監督を務めています。伊東監督はデータをしっかり頭に入れ、常に「打者の弱点を突く」リードを意識していました。現役時代の配球もまさにそのスタイルでしたね。一方で、ヤクルト時代にバッテリーを組んだ古田敦也捕手は、「投手の長所を引き出す」リードが持ち味で、その点で伊東監督とは対照的な印象を受けました。

── ほかに影響された監督はいらっしゃいますか?

渡辺 野村克也監督です。選手時代、野村監督の「ID野球(データ重視の戦術)」に基づくミーティングに参加し、監督がホワイトボードに書いた内容を自分でノートに書き写していました。私が西武の二軍監督だった頃、野村監督を真似てホワイトボードに要点を書きながらミーティングを行ないました。一軍監督を務めていた時も、「野村ノート」を何度も見返していました。

── 台湾プロ野球で投手兼任コーチをされた経緯について教えてください。

渡辺 1998年にヤクルトを退団し、いくつかのメディアから野球解説者としてのオファーをいただいていて、そちらの道に進む予定でした。ところがある日、東尾監督と食事をしていた際に、「ナベ、台湾プロ野球の郭泰源から連絡があって、投手コーチを探しているらしい。将来、指導者を目指すなら現場で学んでみたらどうだ」と勧められたんです。

── 当時の台湾プロ野球は、日本と比べると発展途上だったと思いますが、実際に体験されていかがでしたか?

渡辺 あの3年間は、まさに"第2の青春"のような時間でした。実際にやってみて、本当に行ってよかったと感じています。練習メニューの作成、先発ローテーションの組み立て、投手交代の判断など、投手陣に関するすべてを、コーチ1年目、当時34歳の私に任せてもらえました。とても大きな学びの場になり、その経験が後に指導者としての原点となりました。

【指導者のあるべき姿とは】

── 渡辺さんは『寛容力〜怒らないから選手は伸びる』という書籍を出されていますね。

渡辺 プロとしての自覚を欠いていれば、もちろん指導は必要です。ただし、昔のように頭ごなしに理不尽に怒鳴るようなやり方は、今の時代には合いません。感情で「怒る」のではなく、愛情を持って「叱る」ということだと思っています。

── 指導者とはどうあるべきでしょうか?

渡辺 大切なのは、選手に気づきを与えることです。指導者が自分の答えを押しつけるのではなく、選手自身が自分なりの答えに気づくよう導いてあげる。それが理想です。なぜなら、選手は十人十色で、指導者の考えが必ずしも正解とは限らないからです。そのためには、指導者自身も常に学び続けなければなりません。野球の知識、体のメカニズムなど、自らを磨き続けることが必要です。

── では、「渡辺野球」とはどのような野球ですか?

渡辺 「コミュニケーション野球」ですね。対話を重ねる野球とも言えます。選手としっかり向き合って、信頼関係を築きながらチームをつくっていく。それが自分のスタイルです。  台湾時代には家庭教師をつけて中国語を学び、言葉の壁を越えてでも意思疎通を図ろうとしました。それくらい選手との対話を大切にしています。

── 西武監督の1年目、チームは5位からスタートし、巨人を4勝3敗で破って日本一に。監督6年間でBクラスは一度だけでした。どのような野球を目指していたのですか?

渡辺 就任当初は、森監督のように「1点を取って、1点を守る野球」を目指していました。でも、当時の主軸であるアレックス・カブレラや和田一浩が抜けてしまい、若手を育てざるを得なくなりました。そんななか、片岡易之、栗山巧、中島宏之、中村剛也といった選手たちが台頭してくれたんです。投手陣も、涌井秀章が10勝、岸孝之が11勝、帆足和幸が11勝、アレックス・グラマンが31セーブと、それぞれが力を発揮してくれました。

── 監督退任後はGMなど編成部で11年間。GMの難しさとは?

渡辺 選手を現場に送り出し、中長期的に現場がやりやすい環境を整えるのがGMの役割です。そのうえで、FAなどの制度も加味しながら組織づくりをしなければなりません。しかし同時に、目の前のシーズンも大事です。毎年応援してくださるファンの皆さんの期待に応えるためにも、即戦力の補強も必要になります。そこがGMの難しいところです。

── 1980年代から90年代前半の西武が強かった理由とは?

渡辺 スカウティングが非常によく、育成も機能していました。FA制度が導入される1994年までは、獲得した選手をしっかり育て、移籍も少なく、長期間にわたって安定して戦うことができました。近年は、涌井、岸をはじめ、浅村栄斗、森友哉、山川穂高といった主力がFAで退団してしまいました。

 ただ、それは選手の権利ですから受け止めるしかありません。それでも西武は1982年以降、Bクラスはわずか8回だけ。43年間でこれだけ安定して強かったチームは、なかなかありません。ここ数年は苦しい時期もありましたが、また必ず強くなると信じています。ファンの皆さん、これからも応援よろしくお願いします。

渡辺久信(わたなべ・ひさのぶ)/1965年8月2日、群馬県出身。前橋工高から83年のドラフトで西武から1位指名を受け入団。2年目に8勝11セーブを挙げ、リーグ優勝に貢献。86年には最多勝、最高勝率、最多奪三振のタイトルを獲得するなど、西武黄金時代の中心投手として活躍。98年、ヤクルトへ移籍。99年から2001年は台湾・勇士隊で選手兼コーチとしてプレー。引退後は解説者を務め、04年から西武二軍コーチ、05年は二軍監督を兼任し、07年は二軍監督専任。08年に一軍監督に昇格し、就任1年目で日本一に導く。13年限りで退任し、シニアディレクターに。19年からGMとなり、昨年は5月28日から監督代行を兼任し、チームの指揮を執ったが、シーズン終了後に退団

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