ベトナムを船で出発後、漂流中に沖縄の漁船に助けられた元ボートピープルの橋本孝さん=3月4日、東京都港区 半世紀前に終結したベトナム戦争では、船で同国を脱出するボートピープルが続出した。10代で国を離れ、漂流中に沖縄の漁船に救助された後、日本国籍を取得した橋本孝さん(63)もその一人だ。橋本さんは「日本に感謝。恩返しとして何か貢献できたら」と話している。
敗戦した南ベトナム出身の橋本さんは「父は政治犯として刑務所に入っていた。学校にはまともに行けず、人権も自由もなかった」と振り返る。17歳だった1980年3月、「これで何とかやっていきなさい」と母から全財産の半分という30米ドル(約4300円)を渡され、ベトナム中部にあるダナンのビーチを出発した。
子どもを含め24人が乗った小さな竹製のボートには水も食糧もなく、鳥を捕まえては食べ、飢えをしのいだ。「大きな波にぶつかると竹の隙間から水が入り、いつ転覆してもおかしくなかった」。
一週間後、橋本さんらは漁をしていた沖縄の漁船に助けられた。「この船に乗らないと『死ぬ』と思った。船長らは沖縄に戻るまでご飯を炊いてくれたり、魚を煮てくれたりした。私の命の恩人だ」と懐かしむ。
漁船は4月、那覇に入港。沖縄県本部町の難民キャンプで3年間過ごした。日本政府の支援もあり生活は快適で、町民からはサトウキビの収穫やウナギの養殖方法を教えてもらったという。
当初は祖国の家族を思い出し、寂しく感じていたが、徐々に町での生活に慣れた。橋本さんは「本部町は心のふるさと」と話し、同町への寄付活動を今も続ける。
83年6月、橋本さんは就労準備のため上京した。「これからは自分の力でやっていかないといけない」。その思いを胸に、ガラス加工会社や印刷会社に勤め生計を立てた。
生活は徐々に安定し、95年には「日本人として誇りを持って住みたい」との思いから日本国籍を取得。2000年以降は日本とベトナムの通訳として東京で活動する。
来日から45年。「差別がなく、平和な日本が好き」という橋本さん。「ベトナムを思う気持ちはもちろんあるけれど、日本で骨をうずめるつもり」と話している。

漂流中に沖縄の漁船に助けられ、那覇港に上陸するボートピープル。右から12番目が橋本孝さん=1980年4月(本人提供)