「生まれ育った地で生きていく」 能登、かつての暮らしへひとつずつ

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2025年05月01日 12:01  毎日新聞

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毎日新聞

豪雨災害でがれきに埋もれた大沢漁港の復旧作業を見守ってきた区長の大箱洋介さん=石川県輪島市大沢町で、2025年4月6日午後5時半ごろ、中尾卓英撮影

 2024年元日の能登半島地震から1年4カ月。人口流出が加速する能登地方で、かつてのまちや暮らしはどこまで取り戻せるのか。被災地で模索する人々や課題の現場を訪れた。


地震からの復興、豪雨が飲み込み


 遅咲きのヤマザクラを散らせた春の雨が上がった4月27日早朝。石川県輪島市大沢町では、5人の男たちが昨秋の豪雨で寸断された沢水を引き込む導水管の修復作業に励んでいた。管の内部にたまった泥をひと継ぎずつ確認しながら洗い流していく。午後、水が出たことを知らせる住民の西出武義さん(68)の声は弾んでいた。「仮設住宅から毎週通ってきたかいがあった。生まれ育った大沢で生きていきたいんよ」。かつての暮らしを取り戻そうとする日々だ。


 日本海からの風雪を防ぐ「間垣の里」として知られる大沢町。昨年元日の能登半島地震で、市中心部と門前地区を結ぶ県道38号が至る所で崩落して孤立した。記者は翌2月、区長の大箱洋介さん(76)らの許しを得て、市外へ2次避難した住民の一時帰宅に同行。その後も7月まで毎月、当時住んでいた神戸市から足を運んだ。集落に入るのはそれ以来。豪雨で大量の土砂にのみ込まれた集落を初めて見て、その惨状に言葉を失った。


 導水管の修復には元大工の橋下進さん(68)や元県職員の角正明さん(72)の姿もあった。橋下さんは、持病がある弟の「生まれ故郷に帰りたい」という願いを受け、昨春に集落に戻った。仮設住宅には入らなかった谷内口喜美さん(71)も、約4メートル隆起した漁港の海底の掘削作業を手伝い、昨夏ようやく漁業を再開した。豪雨はこうした人々の努力を灰じんに帰した。


自宅がなくなっても


 4月中旬。解体工事が始まる角さんの自宅を見せてもらった。地震で半壊した家は、豪雨でも被害を受けた。「毎年夏にバーベキューをした前庭があったのよ」「実家のある秋田県から家族がマイクロバスで訪ねてきてくれてね」と妻アツ子さん(70)が教えてくれた。2人はこの日、3人の子どもや孫らと写した家族写真など「宝物」を取り出した。


 27日。解体工事が終わり、再び集落を訪れた2人は「苦労して建てた家がなくなるのはさみしくて、つらくて……」と更地になった自宅跡を見つめた。「形はなくなったけれど、思い出は心に生き続けるのよね」。この日も、角さんは導水管の修復、アツ子さんは畑にイモを植えるお年寄りの手伝いに精を出した。自宅はなくなったが、「ここで生きていく」という強い思いを感じた。


1年4カ月、何度も選択を迫られ


 市によると、大沢町では57世帯のうち約25世帯(2月時点)が帰還を望んでいる。4月に2度開かれた住宅再建に関する説明会には延べ約40人が集まった。「いつ道路が復旧するのか。電気や水道は通るのか。時期がはっきりしないことには次に進めない」。角さんは疑問をぶつけた。


 仮設住宅に入るのか。それとも金沢市周辺のみなし仮設に入居するのか。仕事や通院、介護などの事情で、親子別々に避難した世帯もある。住民はこの1年4カ月で何度も選択を迫られた。


 「この年齢になると、家の再建に踏み切れるのか悩ましい。大沢に災害公営住宅は必要だ。同じ思いの人が大半じゃないか」と角さんは訴える。大箱区長も「一度は復旧した道路や電気が再び寸断され、心が折れた住民もいる。このままでは大沢に戻るという決心が変わる人も出てくるだろう」と話した。


「創造的復興」とは何なのか


 国や県、市が掲げる「創造的復興」とは何なのか。都市機能を集約するコンパクトシティーだけでも、街を元通りにすることだけでもないはずだ。人々が古里に戻る決断をするためには、住まいやインフラだけでなく、医療や福祉、教育など幅広い生活基盤の整備が必要だ。これからも大沢町の人たちの話に耳を傾け、集落再生の縁(よすが)を考えていきたい。【中尾卓英】



このニュースに関するつぶやき

  • 地方の高齢化まんまじゃん。この頑張ってる方々がいなくなってしまうとどうなるの?って話にしないと地方創生なんてないのよ。石バカはわかってないみたいだけどね。
    • イイネ!19
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