
空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第17回
(連載16:「剛腕」ベルナルドのパンチ力を振り返る K-1初のドーム興行でのジャパングランプリは「正直、楽だな」>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第17回は、"極真の怪物"との激闘、テーマソング誕生秘話について振り返る。
【「極真」の二文字を見てスイッチオン】
1997年夏、K-1に空手の極真会館(松井派)が参戦した。佐竹が中学の時から憧れ続けた大山倍達が1964年に創始した極真会館は、打撃を相手に直接当てる実戦的な空手。大山をモデルにした梶原一騎の漫画『空手バカ一代』などの人気もあり、全世界に道場ができるなど、空手界では最大の勢力となった。
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1994年4月に大山が71歳で亡くなると、松井章圭の「松井派」と、大山の妻・智弥子を館長に据える「大山派」に分裂した。そんななかで松井派の松井章圭館長は、1997年4月の「第一回全世界ウエイト制選手権」で優勝したブラジル支部のフランシスコ・フィリォを、K-1に参戦させることを決断。初陣でアンディ・フグを1ラウンドKOで倒す衝撃的なデビューを飾った。
さらに翌98年には、同じブラジル支部で"極真の怪物"の異名をとったグラウベ・フェイトーザもK-1に参戦させた。ブラジリアンキックと呼ばれる"縦に落とす"ハイキックが武器のグラウベのデビュー戦は、同年7月18日にナゴヤドームで行なわれたマイク・ベルナルド戦。その試合は1ラウンドTKOで敗れた。
再起を期し、9月27日に大阪ドームで開催された「K-1グランプリ98」に出場。その相手が佐竹だった。
佐竹は1996年10月に長期休養から復帰したが、モチベーションを挙げる材料に乏しく燃えられずにいた。年齢は当時、33歳。そんな時に訪れた、空手を志したきっかけとなった極真勢との対決に、久々に闘志が高まったという。
「やはり僕にとって『極真』は特別。あの二文字を見てスイッチが入りました。ウィリー・ウイリアムスとの対戦もそうでしたが、巨大な看板に挑むことにすさまじいプレッシャーを感じる闘いでした」
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【他流試合になると、佐竹雅昭は強い】
3分5ラウンドの試合は激しい内容になった。グラウベは序盤から、積極的にローキックやハイキックを繰り出す。一方の佐竹は、蹴りで顔面のガードが甘くなったところにパンチを合わせていったが、ムチのようにしなるグラウベの蹴りに阻まれてなかなか中に入ることができなかった。
「グラウベは当時、フィリォと並んで極真の外国人選手の両巨頭でしたから、キックも速かったし、キックボクシングにも順応していると感じました。ただ、武器に例えると、あの蹴りはムチ。スピードがあって、もちろん痛いですよ。ただ、致命傷にはならなかった。
だから"肉を切らせて骨を断つ"戦法でいきました。あの試合は、気力が上回ってダメージを感じなかったんです。ブラジリアンキックは軌道が複雑ですが、空手とは違って顔面ありのK-1ルールですから、こっちは蹴ってきた時に顔面へパンチを入れていった。そこが空手とは違いますし、僕もキックボクシングを初めて8年経っていましたから、顔面ありの打撃への技術は向上していましたからね」
アクシデントが起こったのは3ラウンド。グラウベの頭が佐竹の左目尻に直撃し、流血した。レフェリーは偶然のバッティングを取ったが、同じラウンドに再びバッティングがあり、佐竹の出血がひどくなった。それでも佐竹は驚異的な粘りを見せ、2−0の判定で勝利した。
「グラウベには松井館長と、ブラジル支部の磯部清次師範がついているわけです。そういう極真の幹部を見ると、余計に『これは負けられない』と燃えましたね。こういう他流試合になると、佐竹雅昭は強いんです。あれだけ流血しながら、よく頑張ったと我ながら思いますよ。
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僕の試合って、気持ちがすごく出るんです。燃えている時は、自然といい試合になる。自分で言うのもなんですが、この試合はもっと評価されてもいいと思うんですよね(笑)。後世に残しておいてほしい一戦です」
【名作曲家が作り直したテーマソング】
"極真の怪物"を突破し、12月13日に東京ドームで行なわれたグランプリ準々決勝で、ピーター・アーツと対戦した。東京ドームでの試合は、1997年のグランプリに続いて2回目だった。
「東京ドームで思い出すのは、リングインするまでの花道ですね。アーツとの試合では、センターのバックスクリーンからリングに向かって花道が用意されたんですが、一歩踏み出して巨大なスタンドを見た瞬間に、『宇宙みたいだ』と感動しました。まさに異空間でしたね」
佐竹は、試合はもちろん、花道も重要視していたという。
「プロの世界では、『常にお客さんを引きつけないといけない』と思っていました。花道を歩く時も、かなりそれを意識していましたよ」
最大のこだわりが入場テーマソングだった。映画『ゴジラ』などの映画音楽で知られる作曲家の伊福部昭(いふくべ・あきら)に依頼したのだ。
「僕のテーマソングは『怪獣大戦争マーチ』って言われることが多いんですけど、違うんですよ。僕は伊福部先生のご自宅まで伺って作曲をお願いしたんです。ちょうど文化放送のラジオでレギュラー番組を持っていた時期で、局の方に伊福部先生を紹介いただいて。そうしたら、お孫さんが僕のファンとのことで会うことを快諾いただいたんです」
佐竹は当初、『怪獣大戦争マーチ』をテーマソングで使うことをお願いするために自宅を訪問したという。しかし伊福部は、「これは入場曲のテンポじゃない。入場曲のテンポで作り直しましょう」と逆に提案した。
「スタジオにオーケストラを用意して、伊福部先生が自ら指揮棒を振った。新たに作り直していただいたんですから、僕のテーマソングは『怪獣大戦争マーチ』ではなくて『闘志天翔〜覇王佐竹雅昭のテーマ』なんです。1994年にCDも出てますよ。これは、伊福部ファンのみなさんからしたら、異例の作品だと思います」
ゴジラを筆頭に、日本の映画史に残る音楽を作り続けた伊福部は、2006年2月8日に91歳で亡くなった。佐竹は偉大な作曲家への敬意を今も忘れておらず、自身のYouTubeチャンネルのテーマソングとしても使用している。
「子どもの頃から『怪獣が好き』と言い続けて、伊福部先生にお会いできて曲も作っていただいた。好きこそものの上手なれ、じゃないですけど、本気で思い続ければ夢は叶うんだなと思いましたよ」
1998年のK-1グランプリでは、アーツに1ラウンドKOで敗れた。復帰から2年連続で、グランプリは準々決勝で敗退。翌年、佐竹が「またプレッシャーを感じた」と振り返る試合が待っていた。
(つづく)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。