
【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.2
有森裕子さん(前編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は1992年バルセロナ五輪で銀、1996年アトランタ五輪で銅と、2大会連続でメダルを獲得した有森裕子さん。全3回のインタビュー前編は、無名だった学生時代、恩師である小出義雄監督との意外な形での初対面、そして、自らが当事者となり苦しんだ日本代表「選考問題」を振り返ってもらった。
【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶
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【大学時代は教員志望だった】
日本体育大学に在学中、有森裕子は教員になろうと思っていた。
気持ちが変わるきっかけになったのは教育実習をしている時のこと。学校の陸上部の監督に「ナイターの記録会があるから出なさい」と言われた。教育実習中でまったく練習をしていなかったので断ったが、「そんなことは言い訳」と返され、仕方なく3000mに出場すると、セカンドベストのタイムで優勝した。
「練習が全然できていないし、気持ちも乗っていないのに、このタイムで走れたのでびっくりしました」
この時、もしかしたらという気持ちが芽生えた。
「大学時代は指導者不在で、自分たちで練習を考えながら、できる範囲でしか練習してこなかったんです。もし、よりよい環境で、陸上専門の指導者に教えてもらったら自分はどれだけ走れるのだろうか。一度、究めてみたいと思ったんです。教員はいつもでチャレンジできるけど、走るのは今しかない。親にも『今しかできないことをしっかりやれ』と言われてきたので、『よし、実業団に行こう』と決めました」
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すぐに実業団を探し始めたが、学生時代は主要なレースで結果を残したことがなく、実績はゼロに等しかった。また、すでに夏前で各社とも来春入社の選手がほぼ決まっている状態だった。
「そんなことはどうでもよかったんです。自分のやる気さえあれば、なんとかなると生きてきました。この時もなんとかなると思っていました」
【「有森さん? 誰だろう?」】
有森がそう思えたのは高校時代の経験があったからだ。
「中学の時、校内800m競走で3年連続優勝しました。運動会レベルだったんですけど、私はこれならできると勝手に思いこみ、高校では陸上をやろうと思いました。でも、(就実)高校の陸上部は全国大会に行くようなレベル。それを知らずに普通に部活に入れると思ったら(入部条件があって)入れない。それでもあきらめず、『陸上をやりに来たんです』と言い続け、やる気をアピールして粘り倒しました。そうしたら3カ月後、監督がダメだと判断したらすぐにやめるという条件で入れてもらえたんです」
高校3年間、国体、インターハイ(全国高校総体)への出場はなし。全国都道府県対抗女子駅伝では岡山県の代表メンバーに入ったが補欠だった。それでもしぶとく3年間、走り続けた。「あきらめないがんばり」を認めてもらえていたのか、監督からは一度も退部勧告を受けなかった。
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「高校入学時同様に実績がなく、都道府県女子駅伝にも出ていない。当たってくだけろみたいな気持ちでいたんです。そんなある日、日体大の同期に『実業団を探している』と話したら、『神戸でインターハイをやっていて、各大学が(高校生の)勧誘で行っているし、実業団も(スカウトに)来ているから、そこでアピールしてみれば』と言われたんです」
有森は神戸に行き、そこで出会ったのがリクルートのコーチだった。当時のリクルートは「リクルート事件」で会社が揺れ、入社を希望する選手も少なかった。有森はコーチに自分の住所と電話番号を書いて渡した。すると、10日後に小出義雄監督から連絡があり、「有森さん? 誰だろう? 会えば思い出すかもしれないので、千葉に来れますか?」と言われた。
「それで(実家のある)岡山から千葉の寮に行ったんですけど、『誰?』って話ですよね(苦笑)。国体もインターハイも出ていない。都道府県女子駅伝も大学3年間補欠でしたと伝えました。普通はそこで断られるはずですけど、監督は『あっ、そうなんだ』と少し困った表情をしていました。最後に『自分は実績も何もないですけど、どうしても今、走りたいんです。指導者や環境があれば走れると思っています。ダメなら自分からやめます。それを伝えたくてここまで来ました』と伝えたんです」
リクルートの陸上部には、のちにトラック種目で五輪に出場する五十嵐美紀、鈴木博美、志水見千子ら有望な選手がいた。その時、小出監督は有森にこう伝えたという。
「ウチには強い選手がいる。ただ、どんなにすばらしい生まれ持った素質、実績、肩書きがあったとしても、一番大事なものはやる気だ。あなたにはそのやる気がある。何の実績もなく、根拠のないやる気にすごく興味があるので、会社にはそのやる気を買ってほしいと言ってみる。会社なので、どういう返事が来るかわからないけど、待っていてくれるか」
有森は99.99パーセント、ダメだと思っていたが、あきらめずに千葉に来て話をしてよかったと思った。そして2日後、リクルートから電話がかかってきて、入社が決定した。
【速くはないけど、バテない】
だが、実業団で走れることになったものの、手放しで喜んでいられる状況ではなかった。中学生よりも遅く、実績がない有森は当初、選手として認められていなかった。
「入社して1年目、国体があるので出たいと思い、マネージャーに予選会のエントリーをお願いしたんです。ところが、会場に行くとエントリーされていない。仕方なく、自分で『1』と書いたゼッケンをつくって出場して優勝しましたが、結果は無効になりました。
その後、マネージャーに連絡したら『エントリーされていなかったのは、もともとのタイムが遅いからじゃない?』と言われ、監督にも『実績のなさが問題だ』と同じようことを言われたんです。これはさすがに腹が立ちましたね」
寮に戻ると、抑えていた悔しさが爆発し、自分の部屋の壁を思いきり叩いた。会社という組織が評価するのは結局、やる気じゃなく実績なのだと理解した。また、のちに、同期が高卒選手ばかりだったこともあり、小出監督は大学で寮長をしていた有森をマネージャーにしようと考えていたと聞いた。ほかの選手と同じスタートラインに立たせてもらえない理不尽さを噛みしめ、有森は自分のマインドを変えた。
「絶対に結果を出してやるって思いましたね。それまではチームメイトのことを気にかけたりしていましたけど、結果を出すためにも、敵だと思うようにしました。それって人としてどうなのかと思いますし、そんな人間になりたくなかったけど、今の自分が結果を出すためには仕方ないと割りきりました」
練習はどれだけ時間がかかろうともすべてこなし、合宿での練習消化率も100パーセント。その成果が出て、5000m、10000mの自己ベストを更新したが、もともとスピードがあるわけではない。
「長い距離を練習していると、小出監督に『速くはないけど、バテないのでマラソンが向いてるかも』と言われて、マラソンに切り替えたんです。それが自分にうまくハマって都道府県女子駅伝で9区5位になり、また、マラソンの第一人者だった小島(和恵)さん、宮原(美佐子)さんが相次いで引退されました。これからは私の時代だって思いましたね(笑)」
マラソン自体は、最初からやりたいと思っていたわけではない。
1984年ロサンゼルス五輪、マラソンには増田明美が出場して途中棄権。その姿には悲壮感が漂っていた。あんなに苦しそうにしながら走るマラソンは自分には難しいと思った。そんな考えを一変させたのが、4年後のソウル五輪だった。
「(金メダルの)ロサ・モタ(ポルトガル)が満面の笑みでゴールした姿を見た時、感動して、マラソンって本当はどういう競技なんだろうって思ったんです。あれだけ走ってきたあとに、喜びと輝きを見せる競技は今まで見たことがない。私もいつかマラソンをやってみたい。人を感動させる場に立ちたいと思いました」
【「私と松野さんがどれだけ大変だったかわかりますか?」】
マラソンデビューとなった1990年の大阪国際女子マラソンは、足が痛かったものの粘って走りきり、初マラソンの日本記録(2時間32分51秒)を出した。翌1991年の大阪国際女子マラソンでは2時間28分01秒と当時の日本最高記録で2位になり、五輪は夢ではなく目標になった。
「夢は夢だから消えてしまうんです。でも、目標は現実に描いているものだから消えないんですよ。その目標に向けて計画を立て、ひとつひとつクリアした先に(1991年)東京世界陸上のマラソン代表があり(4位入賞)、バルセロナにもつながった。ただ、五輪をつかめそうなところに行くと、逆に追いかけられる立場になり、苦しい思いもしました」
バルセロナ五輪のマラソン女子代表は、東京世界陸上で2位になった山下佐知子(京セラ)、有森の日本記録を更新した小鴨由水(ダイハツ)がすでに決まっていた。ラストの1枠を有森と松野明美(ニコニコドー)が争い、世間を大きく揺るがした。
「この時、マラソンの『選考問題』という言葉がつくられました。選考基準があやふやなのが一番の問題なのに、矛先が向くのは選手なんです。私にはどうすることもできないし、自分で決めたことではないので、なんとも言いようがない。だから、あえて何も言いませんでした。あとで『選ばれたんだからいいじゃない』と言われましたけど、『私と松野さんがどれだけ大変だったかわかりますか?』って感じでしたね」
正式にバルセロナ五輪のマラソン女子代表に選出されてからは、自分の練習に集中した。1992年、有森はバルセロナの地を踏み、勝負の時を迎えようとしていた。
(つづく。文中敬称略)
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有森裕子(ありもり・ゆうこ)/1966年生まれ、岡山県岡山市出身。就実高校、日本体育大学を経て、リクルートに入社。1990年に大阪国際女子マラソンで初マラソン日本最高記録(当時)を樹立し、さらに翌1991年の同レースで日本記録(当時)を更新。同年の東京世界陸上で4位入賞。1992年バルセロナ五輪で銀メダルを獲得。その後は故障に悩まされるも、1996年アトランタ五輪で銅メダルを獲得。2007年にプロランナーを引退後は、国内外のマラソン大会等への参加や、『NPO法人ハート・オブ・ゴールド』代表理事として「スポーツを通じて希望と勇気をわかち合う」を目的とした活動を行なっている。また、国際的な社会活動にも取り組んでいる。マラソンの自己最高記録は2時間26分39秒(1999年ボストン)。