
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第107話
筆者にとって、「アカデミア」の活動は『釣りキチ三平』そのもの!? 今回は、研究活動のために世界を飛び回る、「新型コロナウイルス学者」の旅好きの原点に自ら迫る。
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■「アカデミア(大学業界)」の醍醐味
「アカデミア(大学業界)」で働く醍醐味のひとつはやはり、「いろいろなところに出張できる」ことにあると思っている。
旅をすることが昔から好きだったこともある(高校時代の無目的な旅については13話で、大学時代の破天荒な旅については14話で紹介したことがある)。興味のある研究者を見つけたら、拙い英語とボディランゲージで突撃し、知り合いになり、その研究者のところに押しかけてセミナーをさせてもらう、という戦法を編み出すことで、いろいろな国を訪れてきた。
「新型コロナウイルス学者」としての研究を始めてからは、自分のラボや、G2P-Japanの研究を推進するためだけではなく、「次のパンデミック」に備えるために、世界中にネットワークを広げることを目的のひとつとして、国内外のいろいろな国々に出張をしている。気がつけば南極大陸以外、すべての大陸に足を踏み入れた。
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いろいろなところを旅すること、あるいはそれを嗜好することの原点はどこにあったのか? ウィーンからアブダビに向かう旅すがら、飛行機の機内で、軽く酔った頭で振り返ってみた。
■私が旅を好むようになった理由
思い当たる理由はふたつあった。
まずひとつ目は、父親の存在である。私の父は、地元である山形の旅行会社でツアーコンダクターをしていた。自分で海外観光ツアーを組み、参加者を募り、ツアーコンダクターとして参加者を案内する、というような職業である。
しかし少なくとも、そのような職業に興味を持った記憶も、海外の土産話を根掘り葉掘り訊いて、外国の風景を思い描いたりしたような記憶もない。ただ、居間に置かれていた大きなスーツケースや、そこに貼られていたたくさんのステッカー、そして、たまにお土産に買ってきてくれた外国のお菓子のことなどは断片的に覚えている。当時は気にも留めていなかったが、そこに私の憧憬の破片が潜んでいたのかもしれない。
そしてふたつ目が、『釣りキチ三平』という漫画の存在である。矢口高雄作の、「三平三平(みひら・さんぺい)」という天才釣り少年(小学生)が主人公の漫画である。
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秋田の山奥で、地元の渓流で釣りにいそしんでいた三平少年はある時、「魚紳さん」という兄貴分に出会う。それをきっかけに、魚紳さんに連れられて、いろいろなところに釣りに出かけるようになる。
地元の秋田から、山形、北海道、九州など、いろいろなところを訪れては、各地の「伝説の魚」を釣るために奮闘する。やがて、日本国内だけでは飽き足らず、カナダやハワイにまで出かけて釣りにいそしむ。
私も、小学生から中学生くらいの頃まで、地元・山形を流れる川に出かけて釣りをするのを趣味にしていた。馬見ヶ崎川でウグイやオイカワを釣ったり、朝早くに起き、友人と連れ立って、馬見ヶ崎川上流の渓流まで自転車を走らせては、ニジマスやイワナを釣りに出かけたりしていた。
あるいは父の車で、山形県大江町の山奥を流れる月布川の渓流まで、父と一緒にヤマメを釣りに出かけたこともあった。そして、『釣りキチ三平』を読み始め、国内外のいろいろなところに釣りに出かける三平少年に、憧れに近い感情を覚えるようになった。
思い返してみれば、「アカデミア」の活動は、三平少年のそれと似たようなものであることに気づいた。実験・研究をする。その成果を発表するために、日本国内の学術集会(大学院生当時の私にとっては、日本ウイルス学会や日本エイズ学会)で発表する。
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たいていの学術集会の開催地は毎年変わるので、札幌や東京、名古屋や福岡など、いろいろなところを訪れることができる。研究が進めば、共同研究の打ち合わせのために、日本各地の大学を訪れるようにもなる。さらに研究が発展すると、海外の学術集会で発表する機会を得て、外国にも訪れることができるようになる。
このように考えてみると、「アカデミア」の活動、少なくとも私のそれは、『釣りキチ三平』のそれそのものである。「釣り」か「研究」か、やっていることが違うだけで、要は「好きなことをするために(あるいは、好きなことをして)、いろいろなところに旅をしている」わけだ。
■旅と音楽
出張のときには、そこで聴く音楽を厳選する(その出張の記憶と強く紐づけられるから)ということは、この連載コラムでも何度か話題にしたことがあると思う。
旅と音楽、と言われて最初に思い浮かぶのは、やはり奥田民生である。
さすらおう この世界中を
転がり続けて歌うよ 旅路の歌を
これは、奥田民生の「さすらい」という歌の冒頭の歌詞であるが、男の子なら誰でも一度くらいは、彼の「イージュー★ライダー」や「さすらい」を聴いたことがあるのではないかと思う。そして思春期には、これらの曲から想起されるイメージに、憧れを抱いたことがあるのではないかと思う。すくなくとも、私の世代の男子のほとんどはそうだったのではないだろうか。
身なりにはさほど気を配らず、無精髭を生やし、サングラスをかけ、バイクや車、キャンピングカーで、自分の思うままにいろいろなところに旅をする。たまに休んでは旅路でタバコを吸う、というような、そんなちょっとだけハードボイルドなイメージ。私も例に漏れず、そのような「オトナ」な姿に憧れを抱いていた。
――と。齢は43を数え、身なりにはさほど気を配らず、無精髭を生やし、眩しければサングラスをかけ(あるいは文字がよく読めないときには老眼鏡をかけ)、研究活動のために世界中のいろいろな国々に旅をする(タバコはやめた)。
このように考えてみると、43歳の私は、思春期に抱いていた憧れのイメージにかなり近いオトナ(おっさん)になれているのではないか? ということにはたと気がついた。
子どもの頃の憧憬に近い姿を体現できるというだけでも、「アカデミア」はやはり捨てたものではないな、などと、中東の空の上で、軽く酔った頭でぼんやりと思ったりしたのであった。
文/佐藤 佳 写真/PIXTA