「PCRで儲けた金で…」にしたんクリニック社長がSNSの非難に負けないワケと“成し遂げたいコト”

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2025年05月03日 16:00  週刊女性PRIME

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西村誠司 撮影/廣瀬靖士

 渋谷の一等地に、ひときわ目立つ大豪邸がある。総工費は驚愕の30億円超え。4階の屋上に上がると、「金運が上がる滑り台」と自らが呼ぶ、4000万円をかけて設置した“黄金の滑り台”がそびえ立つ。「……やりすぎでは」。誰もが目を丸くする。

西村社長の成し遂げたいこと

「いかにも成金だと思いますよね?」

『イモトのWiFi』『にしたんクリニック』などを運営するエクスコムグローバル代表取締役社長・西村誠司は、そう言ってニヤリと笑う。25歳で起業し、今では個人純資産300億円といわれる豪邸の主は、「してやったり」の表情を浮かべ、訪れる者のリアクションを楽しんでいる雰囲気さえある。

世間から見れば、僕は成金社長でしょう。でも、世間の評判は成金社長のままでいいんです。そのほうが僕にとっては都合がいい」(西村氏、以下同)

 世に知られるきっかけが悪評であったとしても、世に知られていない状態よりはずっと良いことを意味する「悪名は無名に勝る」という言葉がある。西村は、あえて自分が悪目立ちしてでも、成し遂げたいことがあると話す。

社会のために何ができるか。お金があると便利だし、あるに越したことはありません。ですが、本当の幸せの源泉って何だろうと考えると、50歳を超えたくらいから考え方に変化が生じたんですね

 現在、西村は不妊・生殖医療を扱う『にしたんARTクリニック』の運営を行い、少子化対策の旗振り役として、新たなページを刻もうとしている。その半生は、まるで経済小説を読んでいるかのようだ。

 生活保護を受けるほどの極貧家庭で育ち、ゼロから起業を目指すも、借金7000万円を抱える。海外用レンタル携帯電話事業で息を吹き返すと、『にしたんクリニック』という異分野に進出し、PCR検査事業で誰もが知る存在となる。

 型破りだからこそ、単なる成金なワケがない。令和の名物社長・西村誠司は、いかにして常識をひっくり返してきたのか─。

13歳から働き、稼ぐ感覚を身につけた

 愛知県名古屋市に、男3人兄弟の次男として西村は生まれた。実家は、焼き鳥店を営んでいたが、西村少年が小学校に入学するころ、父は肝硬変を患い、医師から「余命はあと数年」と告げられてしまう。

 働くことができず、店は他者へ譲渡。一家の大黒柱を失った西村家は、生活保護を受けるほど困窮していく。

父が死ぬと宣告された母は、そのショックでお酒に溺れるようになり、アルコール依存症になりました

 家庭訪問で先生が自宅を訪れた際も母は酩酊(めいてい)していたという。酒を米びつの中に隠したり、専門機関へ入院させたりしたが、改善することはなかった。だが、

悲愴(ひそう)感が漂うようなものではなかったです。父は、その後、68歳まで生きましたが、両親が僕たち兄弟に対して、『生活を支えてほしい』といったプレッシャーをかけることもなかった。ただ、頼れるのは自分しかいないと思うようになりましたよね

 その言葉どおり、西村少年は中学に入るとすぐに新聞配達を始めた。朝刊と夕刊、雨の日も雪の日も自転車をこいだ。

13歳から今まで、僕はずっと働いている(笑)。ですが、稼ぐという意識が早い段階から身についたことは、結果的に良かったことだと思っています

 当時の将来の夢は、「医者だった」と打ち明ける。自ら進んで勉強にも取り組み、高校は県内トップクラスの学校に進学した。たとえ貧しくても、両親は「自分で稼いだお金は自分で使いなさい」と、西村を尊重し続けたという。

 奨学金で地元・名古屋の大学に入学した後も、家庭教師、日雇い労働など時間を埋めるように働き、21歳になると貯金額は200万円を超えていた。数あるアルバイトの中でも、西村が忘れられないと振り返るのが、葬儀社で働き続けた4年間だ。

およそ800人の方のお別れの場に立ち会い、人はいつ死ぬかわからないと痛感しました。一瞬一瞬を大切にして、一生懸命生きなくてはいけないと思うようになりました

 同時期に、友人から何げなく一冊の本──イギリスの作家、ジェフリー・アーチャーが著した小説『ケインとアベル』をすすめられた。裕福な家庭で育ったケインと、ポーランドから移民としてアメリカにやってきて才覚ひとつでのし上がっていくアベル。

 生い立ちの異なる2人の主人公の運命が交錯するベストセラーだが、若き日の西村青年はことさらアベルに共鳴した。

恵まれない環境でも、反骨心を持って自分の才覚で道を切り開くアベルがとても眩(まぶ)しく見えた。起業して、自分も事業家になろうと決意しました

 この読書体験が、西村をケイン、アベルにも負けないビジネスストーリーへと誘(いざな)うことになる。

起業し2年で抱えた7000万円の借金

「ふーん」

 対面していた信用金庫の融資担当者は、手渡した事業計画書を読みもせず、居丈高に放り返した。

 世界トップレベルのコンサルティング会社「アクセンチュア」の前身である「アンダーセンコンサルティング」に勤務したのち、25歳で起業を果たした西村を待ち受けていたのは、門前払いの日々だった。

今でも忘れられません。いつか見返してやりたい。その一心でした

 1995年、インターコミュニケーションズ(現エクスコムグローバル)を設立した西村は、音声メッセージを送ることができるシステム「ボイスメール」を主力サービスに起業する。

「早くカタチにしないと他の人にやられてしまう」と焦るほど自信のあるアイデアだったが、時代を先取りしすぎたのか、金融機関も営業先も相手にしてくれなかった。なんとかして契約にこぎつけるために、やれることはすべてやったと苦笑する。

企業情報を扱う『帝国データバンク』などのデータを購入すると、社長の生年月日が記載されていることがあります。僕はその日に電話をかけ、社長につないでくれないかと交渉していた

 ゲートキーパーである電話受付を突破することは非常に難しい。そこで、「社長にお誕生日のお祝いを伝えたくて電話しました」と伝えると、担当者ですら社長の誕生日を把握していないことが多いため、「確認します」となる。

 実際に誕生日だとわかるとつないでくれ、「実は社長とどうしてもお話ししたかったので、この誕生日が訪れるのを待っていました」と、西村は切り出したという。

先方の社長も、『面白いヤツだ』と興味を持つ可能性が高まり、通常の営業電話では極めて難しい社長との直接対話ができた。当時はお金こそありませんが、知恵を絞り出すのはタダです。どうすれば興味を持ってもらえるかばかり考えていた

 しかし、業績は伸び悩んだ。起業して2年、すでに借金は7000万円にまで膨れ上がっていた。

うち3000万円は、うちの妻……当時は結婚する前でしたが、彼女の両親が貸してくれました。絶対に忘れてはいけない恩だと思いました

 何かネタはないか?藁(わら)にもすがる思いで、ラスベガスで行われていた展示会へ行くと、海外用レンタル携帯電話事業を思い立つ。当時は、今のように海外で携帯での通話をすることは難しかった。企業を相手にしたら……一筋の光明が差し込んだ。

25歳から30歳までの5年間は本当に苦しかったです。後のコロナ禍で、『イモトのWiFi』は大ダメージを受けますが、信用や実績もあれば、仲間もいた。しかし、このときは下支えするものがない。毎日が必死だった

崖っぷちの時代

 社長である西村を含め社員はたった3人。事務所は、渋谷の南平台にある雑居ビル。給料が支払えず、後ろ倒しすることも珍しくなかった。崖っぷちの時代、共に働いていた中島毅雄さんは、「大変でしたが、自分を成長させてくれる1年間でもあった」と振り返る。

 中島さんは慶應義塾大学卒業後、自らも起業を決意し、ベンチャー企業だったインターコミュニケーションズに1年間限定で在籍する。

「当時は、ビジネスを立ち上げる人自体が珍しい時代」と語るように、三木谷浩史氏がエム・ディー・エム(現楽天グループ)を設立したのが'97年。藤田晋氏がサイバーエージェントを設立したのが'98年だった。

「起業をした人と一緒に働きたくても、ほぼいません。この時代に起業をしている人は異端児で、西村社長も例に漏れない(笑)。起業を目指す自分にとって学べる機会だと思ったんですね」(中島さん)

 だからこそ、当時、希少種ともいえるベンチャー企業に対して金融機関も営業先もいぶかしげに扱ったわけだが、こうした状況を打開するために、中島さんは右腕となって奔走した。西村が懐かしそうに回想する。

慶應大卒なのに、業績も良くない僕の会社で働いてくれたことに感謝しかない。彼が開拓してくれたおかげで、数珠つなぎで大企業の契約を取ることができ、海外用レンタル携帯電話事業は軌道に乗り始めます。彼は、『社長からはったりのかまし方を学ばせてもらった』なんて言いますが、彼がいたからはったりが言えたんです(笑)

 中島さんは約1年で会社を去ると、宣言どおり起業する。メールマガジンの広告事業を柱とした中島さんの会社は、その後、あのホリエモン率いるライブドアに売却することで、億単位の資金を手にするまでになる。目を細めながら、西村が続ける。

うれしかったですよ。同級生から、『なんであんな会社に入ったんだ』とバカにされた中島が、若くして大きなお金を手にして見返したことが

 中島さんもまた、異端児の一人だった。

 現在、中島さんは、「チアチームプロデュース事業」などを手がける会社を運営し、京王線・中央線・西武線沿線を中心にダンススタジオを構える。同じく社長である中島さんに、「これほどまでに西村社長が有名人になると思いましたか?」と尋ねてみた。

 若干の間があって、「思わなかったですよ」と笑う。

「ただ、時代を読む力、先見の明の持ち主であることは間違いないです。だからこそ、携帯電話と通信技術が進化する中で事業を拡大することができたのでしょう」(中島さん)

 借金は30歳のときに完済した。名もない自分に3000万円を貸してくれた義理の父母とは、一緒に暮らしているという。

「この恩は一生忘れない」。約30年前の約束は、できすぎなくらい実を結んだ。

メディア戦略が成功し、一躍有名社長に

 誰もがスマホを持ち始め、SNSが台頭する中で、西村は機を見るに敏、海外用レンタル携帯電話事業からモバイルインターネットへと進出する。2012年にスタートした、海外用Wi-Fiレンタルサービスの先駆けとなる『イモトのWiFi』は、自社の代名詞となるほどヒットを記録する。

 それにしても、『イモトのWiFi』とは思い切ったネーミングである。

役員の全員が反対しました(笑)。ですが、僕は『これだ!』と思った。それまでわれわれは海外へ出張するビジネスパーソンと企業を主な取引先とするBtoBの市場で競争していましたが、海外用Wi-Fiレンタルとなると、海外旅行に行く方々、つまりBtoCの市場で戦うことになる。そのためには、わかりやすさとインパクトが必要だと考えた

 この知名度先行ともいえるビジネス戦略が、後に『にしたんクリニック』のCM、さらには西村自身のメディア露出にもつながることとなる。

 だが、どこか晴れない気持ちを抱えていたと西村は吐露する。

ボイスメールのほうが100倍自信がありました。海外用レンタル携帯電話事業は、それしかアイデアがなかったから始めたこと。その延長線上に、『イモトのWiFi』もあります。自信があったことが失敗して、何の期待もしていなかったことが当たったにすぎない。実際、たまたま当たった社長として見られることも少なくなかった

 畑違いの分野にもかかわらず、'19年に美容クリニック『にしたんクリニック』を運営するに至った背景は、「まぐれではない」ことを示したい思いがあったからだった。あえて、「規制事業にこそチャンスがある」と決断するあたりが、反骨心を原動力に道を開いたアベルに憧れた西村らしさかもしれない。

 ところがその矢先、想定外の逆境が訪れる。新型コロナウイルスの世界的流行である。海外渡航ができないため、Wi-Fiレンタル事業はかつてないほどの苦境に陥る。実に、売り上げの98%が減少する異常事態だった。

とはいえ、何もないあのころとは違い、銀行も融資をしてくれたことで、立て直す猶予はありました。コロナ禍によってWi-Fiレンタルは向かい風になった。ということは、逆にコロナ禍が追い風になる事業もあるはず。それがPCRの検査事業だった

 当時、検査をしたくても、その場所がなく、新型コロナに起因する二次障害が続出していた。反面、未知のウイルスを相手に事業を始めることは、並み大抵のことではない。だが、ここで踏み出さなければ、会社は倒産するかもしれない。

例えば、オリンピックの柔道などで、最後の5秒に咄嗟(とっさ)に繰り出した技で逆転することがありますよね。自分でも、どうしてそういった動きができたかわからない……けれど、おそらくそれは日々の鍛錬のたまものだと思うんです。

 僕のケースで言えば、中学生からアルバイトを始め、起業してからもアイデアを練り続けた。その経験値がマグマのように爆発して、PCR検査という決断に行き着いたのだと思う。『どうして思いついたのですか?』と聞かれても、そうとしか言いようがないんです(笑)

土壇場を切り抜けられる人との差

 逆境に陥ったとき、がむしゃらでも無意識に技が出るか否か。それこそが、土壇場を切り抜けられる人とそうではない人の差ではないかと西村は語る。

 コロナ流行初期、PCR検査は臨床検査技師がするものと思われていた。しかし、調べてみるとそうした法律はなく、「手がけるのが好ましい」という業界の慣例に倣って、検査は行われていた。この常識を疑い、ひっくり返したのが西村だった。

 臨床検査技師を講師に、率先して手を挙げた自社の社員に研修を施し、独自の検査体制を構築した。前年に、『にしたんクリニック』を開業し、医療分野に理解があったことも大きかった。体制を整えると、信用度と認知度を上げるための戦略に出る。

当社は、いち早くPCR検査のCMを打ちました。『CMを打てるくらい、われわれはしっかりしています』といったことを示せたことで、日本航空(JAL)さんとの提携を実現させます。そして、JALさんと提携したことで、信用はさらに高まり、最大手ドラッグストアのウエルシア薬局さんとの契約が決まりました

 ビジネスの話になると、西村の目は、がらっと経営者のそれに変わる。

オセロの角を取らなければいけません。角を取れば、オセロがひっくり返しやすくなる

 ドラッグストアとの契約が続々決まると、イオンモール全店でもPCR検査キットの展開が決まった。イトーヨーカドー、ヤマダデンキ、ドン・キホーテ……その後も、次々とオセロがひっくり返るように大手流通チェーンへの導入が続いた。

 需要の急増とともに売り上げも爆発的に伸び、'20年12月に入ると、1日の売り上げは1億円を超えた。その状況は、なんと60日間も続いたという。

自身の経験から最先端の不妊治療を導入

《コロナで儲けたお金で大豪邸を買いやがって》

 昨年8月、『オドオド×ハラハラ』(フジテレビ系)で30億円の豪邸がテレビ初公開されると、SNS上にはそうしたコメントが飛び交った。

一つだけ言いたいのは、われわれは国の税金を使った無料のPCR検査ではなく、民間企業のお金で検査を続けていたので、1円も税金はもらっていないということ。そこをきちんと理解したうえで、僕の悪口を言ってください(笑)

「悪口はいいんですか?」と追質問すると、「自分に自信があるので気にならないです。それに、知られているから言われるわけで、言われること自体は悪いことじゃない」と、どこ吹く風だ。

直接会った方からは、『会って話すとまともな人なんですね』とよく言われます。成金社長というイメージがあるからギャップが生まれるし、話題にもなりやすい

 不良が子猫を助けると、普通の人が助けるよりも“良い人”に見えてしまうように、西村もあえて成金感を演出しているという。

「実際は金色なんて好きじゃないです」。そう笑い飛ばすと、「本当の自分の姿をわかってくれというのはエゴであって、実際に会った人だけが理解してくれればいい。僕は誰よりも国や社会のことを考えているつもり。自信があるから、誤解を解きたいとも思わないんです」と優しく微笑む。

 事実、今、西村が最も注力しているのが、少子化対策に直結する不妊治療だ。'22年に運営を開始した『にしたんARTクリニック』は、生殖補助医療(ART)を専門に提供し、今年3月には、全国で12院目となる「東京丸の内本院」を大手センタービルに開院した。

'15年に3人目の子どもである娘が生まれました。彼女は、僕がアメリカにいたときに生まれたのですが、僕も妻も若くないということで着床前検査(PGT-A)を経て授かった子でした

 高齢出産は、染色体異常と強く関係しているといわれる。そのため、着床前検査をすることで、染色体異常による流産のリスクを減少させることや、染色体異常に関連する疾患のリスクを低減させることが可能となる。

 反面、“命の選別行為”だとする倫理的な問題もあり、

'22年から国内でも生殖補助医療を提供する医療機関で着床前検査を行うことが可能となるも、保険適用外という位置づけになっている。

僕がアメリカにいた当時、日本では着床前検査ができなかった。実は、弟も不妊治療を続けていて、『アメリカで受けてみたら』と話したことがありました。ですが、仕事を休めず、渡米を諦め、今も子どもはいません。弟のような人たちがたくさんいると思った。日本に帰国したら、そうした課題を解決したいと強く思ったんです

 西村は、ビジネスと社会貢献を考えるとき、3つの「不」を解決することが大事だと話す。「不安」「不便」「不満」──。晩婚化が進み、働きながら妊活をする人々にとって、現状の生殖補助医療では3つの「不」を十分に払拭できない。それを西村は「変える」と言うのだ。

「ギャップを埋める存在になってほしい」

 そう話すのは、妊活情報サイト「妊活の歩み方」をプロデュースするプロゴルファーの東尾理子さんだ。自身の妊活経験を基に、正しい情報を伝える活動を行う中で、西村と対談した経緯がある。

「技術は進んでいるのに、社会に受け入れられないという閉塞感があります。着床前検査や卵子凍結しかり、議論になることはたくさんの方に知られる機会につながります。そのうえで、『自分たちはどうするか』という話になることが大切。選択肢を増やすためにも、トピックにならないといけない」(東尾さん)

 知名度と発信力のある西村だからこそ、生殖補助医療に関する認知の間口を広げられるのではないかと東尾さんは期待する。『にしたんARTクリニック』は、同業では異例ともいえる夜10時までの診療。全国対応の無料相談窓口まで設ける。ビジネスパーソンの「不」を解決するためだ。

「私との対談後、西村社長は夫(俳優の石田純一さん)が経営する焼き肉店をサプライズ訪問してくださったんですね。その場にいたお客さんの会計をすべて払って、『また石田さんの焼き肉店に来てください』って。みんながどうすればハッピーになるかを考えている方。

 型破りだけど誰かのために動ける人だからこそ、変えてくれるのではないかって思います」(東尾さん)

 全国に不妊・生殖医療を提供するクリニックは、600施設以上あるといわれる中、『にしたんARTクリニック』は、開院から2年半ほどで来院者数ナンバーワンにまで躍進している。

未来のために地方に活気を持たせたい

 北海道のほぼ中央に位置する、東川町という人口約8400人の小さな町がある。今年2月、西村氏はこの町の「地方創生アドバイザー」に就任した。無限に広がる雪原で遊ぶ愛娘(まなむすめ)の姿を見て、感じたことがあったという。

お金じゃないんですよね。子どもたちを高いレストランに連れていっても、結局、『マクドナルドに行きたい』ってなる(笑)。自分の子ども時代を振り返ったとき、大変だったかもしれないけど無邪気に喜ぶ物事もあったわけですよね。

 お金をかけなくても楽しめることってたくさんあります。そういう考え方になればなるほど、いい仲間が集まるようになりました。お金に縛られなくなったら、むしろお金が入ってきた

 西村が親しみを込めて「師匠」と呼び、CMで共演した『高須クリニック』の高須克弥院長は、笑いながらこう話す。

「お金ってね、誰かのために使ったほうが入ってくるの。人のために使うのは、あの世への積立金みたいなものだから」

 そして、「西村社長は仲間ですよ」と語る。

「同業種の人からCMオファーがあったのは初めて。社員からは、『同業他社なんだからやめてくれ』って言われたけど、面白いアイデアだから僕は引き受けた。面白いことは何でもやってみようという人とは馬が合う。僕もそうでしょ?(笑) 違う角度から見られる人じゃないとダメなんだよ」(高須院長)

 違う角度から考えることができるから、西村は型を破ってきた。

少子化対策や地方創生を真剣に考えていきたい。国力というのは、やはり人口の増加が欠かせない。僕は本気で、『にしたんARTクリニック』だけで年間5万人の出生を目指す。生まれた子どもが大人になったとき、日本が魅力的な国であり続けてほしい。そのためには地方に活気がなければいけない。理解を促すために何ができるか、あらゆることを考え、実行していく

 1月から3月にかけて、ミュージカル『ケイン&アベル』が東京と大阪で上演された。観劇した西村は、改めて思いを噛み締めることができたと頷(うなず)く。

「生かせなければ何が財産だろう」

 劇中に登場する歌詞である。ケインとアベルは、経済的な成長を追うがあまり、後悔を招くことになる。だが、「お金に縛られなくなった」と話す西村誠司の“これから”は、きっと二人が果たせなかったハッピーエンドを飾るはずだ。

取材・文/我妻弘崇

あづま・ひろたか フリーライター。大学在学中に東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクションを経て独立。ジャンルを限定せず幅広い媒体で執筆中。著書に、『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー』(ともに星海社新書)がある。

このニュースに関するつぶやき

  • 「ケインとアベル」はアメリカの小説が原作。アメリカの富豪の家に生まれたケイン(みょうじ)とロシアの大富豪の子だけど母が女中で極貧で育ったアベルの物語
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