大学ラグビーブームを盛り上げた「小さな巨人」 永友洋司は北島忠治監督のひと言でスクラムハーフの才能を開花させた

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2025年05月07日 07:20  webスポルティーバ

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語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第9回】永友洋司
(都城高→明治大→サントリー)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載・第9回は、明治大学やサントリー(現・東京サントリーサンゴリアス)で活躍したSH永友洋司を紹介する。積極的な仕掛けと正確無比なプレースキックを武器に、ビッグゲームで何度もチームを勝利に導いた。1990年代の日本ラグビーを振り返る時に、必ずファンから名前を挙げられる「9番」だ。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

   ※   ※   ※   ※   ※

 永友洋司の存在が全国のラグビーファンに知られるようになったのは、1990年代に切り替わる頃。国立競技場で行なわれた「早明戦」に6万人ほどの観客が集まり、最も大学ラグビーが盛り上がっていた時代だ。

 身長は165cm。しかし、明治大を率いる北島忠治監督から「ちび」という愛称で呼ばれたSHは、紫紺のジャージーを着ると、ひと際大きく見えた。

 明治大の誇る屈強なFW陣の中にいても、けっして見失うことはなかった。俊敏な動きで常に存在感を示し、時には相手の隙を突いてトライを奪い、冷静にプレースキックを決める──。その姿が、とにかく格好よかった。

 かつて本人に、「一番覚えている試合は?」と聞いたことがある。

 彼が挙げたのは、初めて出場した大学2年時の「早明戦」。ラストプレーで同点トライを挙げた早稲田大FB今泉清(当時4年生)をタックルで止めることができなかった──。あのドローゲームでの悔しさは今でも覚えているという。

 その悔しさを胸に、早稲田大と再び激突した大学選手権・決勝。明治大は16-13で最大のライバルを下し、永友は自身初の日本一に輝いた。

【1年生ながら北島監督に直談判】

 さらに3年時の早明戦でも、永友は輝きを放つ。逆転トライを含む2トライ、2PG(ペナルティゴール)、1ゴールと大暴れ。チームが記録した16点すべてを挙げて勝利の立役者となり、続く大学選手権の決勝でも大東文化大を下して連覇を達成した。

 永友がキャプテンとなった4年時は、大学選手権・準決勝で法政大に敗れて3連覇を逃した。それでも、自身最後の早明戦では「黄金の右足」が冴えわたり、当時の日本記録である1試合8PGを挙げて勝利をたぐり寄せた。

 1990年代前半の明治大を象徴するゲームコントローラーだった永友は、宮崎県児湯郡の都農町で生まれる。小・中学校時代はサッカーに興じていたが、10歳離れた兄・伸二が宮崎の名門・高鍋高校でラグビーをしていたため、小さい頃から楕円球にも触れていた。

 その頃、テレビで見た早明戦で、自分と同じように小柄ながら活躍していた早稲田大のSO本城和彦に目が止まる。グラウンドで輝きを放つ本城の姿に憧れて、永友は「ラグビーを始めたい」と思ったという。

 都城高時代はSOやFBとしてプレーし、高校2年時は花園でベスト4に進出。高校日本代表にも選ばれ、キャプテンにも指名された。しかし、明治大に入ると選手層は想像以上に厚く、4年生の先輩SH中田雄一の後塵を拝していた。

 試合に出たいけど、出られない......。高校代表だったプライドもあって、1年生の永友は北島監督に「どうして僕は出られないのですか?」と直談判した。

 すると、北島監督は杖を使って地面の土にピッチの図を書いて「どうしたら一番、トライに近い?」と聞かれる。永友は「まっすぐです!」と答えた。その返答に対し、名伯楽はこう言った。

「お前は横に行っている。チャレンジしていない」

 その言葉によって、永友の意識はガラッと変わった。どんなに劣勢でも積極的に仕掛けるように心がけるようになり、「プレーの幅が広がった」と振り返る。

 また、キックに関しても北島監督から「練習で毎日、蹴るように」と言われたことを真摯に受け止め、愚直にそのアドバイスを実行した。その日々の積み重ねによって、大学2年時から「9番」を背負うようになった永友は、そこから一気にスターダムの階段を駆け上がっていった。

【ウェールズ代表を翻弄して撃破】

 大学を卒業した永友は、攻撃ラグビーを掲げるサントリーに入部する。当時ワインレッドを基調としていたジャージーをまとった姿も、また格好よかった。

 社会人になった永友にとってひとつ目のターニングポイントは、やはり1995年度だろう。土田雅人監督(現・日本ラグビー協会会長)の下、永友は入部3年目の若さでキャプテンを任された。

 全国社会人大会の準々決勝。永友率いるサントリーは、7連覇中だった神戸製鋼(現・コベルコ神戸スティーラーズ)と対戦する。17-20の3点ビハインドで迎えた後半40分、PGのチャンスを得ると、永友が冷静にプレースキックを決めて同点に追いつき、試合はそのままノーサイド。トライ数の多かったサントリーが準決勝進出を果たし、神戸製鋼のV8を阻止した。

 準決勝では東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)を倒し、決勝は三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)と27-27で引き分けて両チーム優勝。トライ数差で勝ったサントリーが日本選手権に進出することになり、最後は永友の母校・明治大を49-24で下して創部16年目にして初の日本一に輝いた。

 2001年6月にも、永友にとって社会人時代の集大成となった試合があった。東京・秩父宮ラグビー場でサントリーがウェールズ代表と激突したジャパンツアーの記念マッチだ。

「田中澄憲に替わって出場したのですが、すごく記憶に残っています」

 後半途中から出場した永友は、ロングパスによってテンポを変えることで相手に主導権を握らせず、45-41でウェールズ代表から勝利。2013年に初めてウェールズ代表に勝利した日本代表より10年以上も早く、サントリーは世界的強豪から白星を挙げたのだ。

 永友の日本代表キャップは8。明治大やサントリーでの存在感に対して、日本代表での活躍は多いほうではない。当時のSHには堀越正己や村田亙といった能力の高い選手が揃っていたため、キャップを積み重ねることはできなかった。

【エディージャパンに欠かせぬ存在】

 スクラムハーフというポジションについて、本人に質問したことがある。その時、永友は「ゲームの流れを、よくも悪くも変えることができる。小さくてもできるポジションですが、FWのがんばりが必要なので、ひとりではできないところも魅力でした」と笑顔で話してくれた。

 1990年代に大きな輝きを放った「小さな巨人」は2002年、静かにブーツを脱いだ。

 引退後の永友は指導者の道を歩み、サントリーやキヤノン(現・横浜キヤノンイーグルス)のヘッドコーチを歴任。現在は日本代表のチームディレクターとして、かつてサントリーで薫陶を受けた名将エディー・ジョーンズHCを支えている。

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