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2025年に4月に発売された『物語のある中世ヨーロッパ解剖図鑑』(エクスナレッジ)はヨーロッパ中世史を専門とする歴史学者の河原温氏がイラストのビジュアル付きで分かりやすく中世の文化、慣習、生活を簡潔にまとめてくれている。『物語のある中世ヨーロッパ解剖図鑑』は中世ヨーロッパに存在した3つに大別できる身分ごとにセクションを分けて構成。これまで同書の3つのセクションである「祈る人」「戦う人」について書いたが、最後に「働く人」について取り上げていきたい。
『物語のある中世ヨーロッパ解剖図鑑』は王侯貴族、聖職者、封建社会、騎士など一般的なイメージだけでなく教科書では習わず、ファンタジーでも脇役扱いの庶民の日常生活にも目くばせしている。民衆の日常生活はあまり取り上げられることがないので、ありそうで無いなかなか貴重な記述である。
権力者、支配層であった聖職者、王族、諸侯、貴族に対し中世ヨーロッパで大多数を占めていたのが一般市民(労働者)である。その中でも人口の9割を占めていたと推計されているのが農民である。農民たちは夜明けから日没まで農耕、牧畜に従事し領主や教会に税を収めた。
その仕事は過酷で中世ヨーロッパにおける農民の平均寿命は25歳だったという。
それでも自分の土地を持つ自営農民はまだよかった。『チ。-地球の運動について-』最終章の主人公、アルベルトは自由農民の出身との設定だったが家庭教師をつけてもらう程度の余裕があったことから多少は生活に余裕があったことがうかがい知れる。(※アルベルトは実在の天文学者、アルベルト・ブルゼフスキであることが最後に明らかになる。アルベルト・ブルゼフスキは23歳でクラクフ大学に入学する以前のことがよくわかっていないため、劇中における司祭とのやり取りも少年時代のエピソードも作者の創作であろう)。農民でも下層の農奴は自分の土地を持たず土地から離れることができなかった。『ヴィンランド・サガ』の第二部で奴隷に身分を落としたトルフィンは、同じく農奴であるエイナルと過酷な労働に従事していたが度々悪辣な嫌がらせを受けていた。農奴の身分が中世ヨーロッパにおいていかに過酷であったかを物語る描写である。
農民は領主に納める地代に加え、結婚税、相続税、死亡税、保有地移転料を必要に応じて納めねばならず、領主が保有するワイン圧搾機やパン焼き釜などの生活に密着した設備を利用したときに徴収される「バナリテ」も負担しなければならなかった。さらに中世ヨーロッパには生産物の十分の一を教会に納める「十分の一税」も存在した。ただでさえ生活は厳しいのに、聖職者は豪華な教会を建てて裕福な生活をしている。これでは『チ。』の異端解放戦線が怒るのも無理はあるまい。
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農村部では農民が生活し、都市部では商人、職人が都市生活を支えた。「小説家になろう」発祥のファンタジーによく見られる中世ヨーロッパ的な世界観を「ナーロッパ」と表現するネットスラングがあるが、「ナーロッパ」に限らずファンタジー作品に頻繁に登場するのが「ギルド」である。「ギルド」は同業者の自治団体であり、互いの競合を避けるための相互規制を行う組織として機能していた。テンプレ的なファンタジーでは冒険者や魔法使いなどの架空の「戦う人」のギルドが登場し、仕事を紹介してもらったり仲間を募集したりといった描写が頻出するが実際のギルドにも相互扶助的な役割があった。ナーロッパ的な世界観のギルドはこの相互扶助の役割を切り取ったものと言えるだろう。ギルドは各職業ごとにあり、驚いたことに物乞いのギルドもあったそうだ。この辺りに興味をお持ちの方はは中世ヨーロッパの伝説「ハーメルンの笛吹き男」を題材にした阿部謹也 (著)の歴史本『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』(筑摩書房)をご参照いただきたい。
また、ギルドには階級社会のヨーロッパらしく職業ごとの地位の高低があった。大工、靴屋など安価な日用品を扱う職人のギルドは地位が低く、金銀細工師、石工、絹織物匠などの高価な嗜好品を扱う職人のギルドは地位が高かった。石材は教会や城の建造物として欠かせないため、石工は貴重な人材として保護されていた。秘密結社として有名なフリーメイソンは石工(メイソン)のギルドがルーツであるとの説が有力だが、「フリー(免除)」と付くのは当時の石工が免税や移動の自由の保障など特権を有していたことに由来すると言われている。フリーメイソンの成り立ちについて詳しく知りたい方は澁澤龍彦 (著)『秘密結社の手帖』(河出書房新社)をご参照いただきたい。
中世の生活において重要な事件として黒死病(ペスト)のパンデミックも語らずに済ませることはできない。『チ。』第二部に登場した傭兵のグラスは家族を病気で失ったと描写されていたが恐らくはペストだったのだろう。『チ。』第三部には「疫病で廃村になった村」が登場したが、中世のペストによるパンデミックの死者数は2500万人と推計されている。14世紀当時のヨーロッパの総人口の実に3分の1に相当する。村が一つ消えるなど珍しくもないことだったのだろう。当時の医療はオカルトと大差の無いレベルであり、間違った治療が平然と行われていた。
ペストの症状を引き起こすのはペスト菌だが、当時の人類が細菌の存在など知るはずもなく、病気の原因は汚れた空気「瘴気」であるとされていた。中世ヨーロッパの人類はペストへの有効な対抗策を持っておらず、為す術がなかった。ペスト流行以前である1300年ごろの水準にまでヨーロッパの人口が回復したのは1500年ごろの事であり、『チ。』の舞台である15世紀前半から半ば頃はまだ回復途上だった時期である。農村の人口激減により、領主である貴族も衰退し、封建制は崩壊へと向かっていく。やがて資本家が現れ、革命がおき、王政が打倒されて民主主義の時代になるのだがその詳しい過程は歴史の教科書に譲るべきだろう。
『チ。』の作者・魚豊氏は中世ヨーロッパを舞台にした理由について「中世のヨーロッパって、自然科学の知性と、暴力的なフィジカルが渾然一体と結びついています。そのアンバランスさが、現代から見たら面白く映るのではと。」と語っている。中世ヨーロッパは物語舞台として魅力的であり、今までもこれからも多くの作品で舞台になることだろう。他の文献も挙げたが、その予習として『物語のある中世ヨーロッパ解剖図鑑』は最適な入門素材である。筆者だけでなくアニメ、マンガ、小説、映画を好む方々にはぜひご一読いただきたい。
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