
空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第18回
(連載17:後世に残してほしい「極真の怪物」との一戦 こだわりのテーマソングは偉大な作曲家から思わぬ提案があった>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第18回は、重圧がすさまじかった"PRIDEの門番"との闘いについて語った。
【『24時間テレビ』で生中継された一戦】
「すさまじい重圧のなかで闘いました」と、佐竹が振り返る一戦がある。1999年8月22日、有明コロシアムで行なわれたゲーリー・グッドリッジ戦だ。
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トリニダード・トバゴ出身のグッドリッジは「アームレスリング世界王者」という看板を引っ提げ、1996年2月のUFC8で総合格闘技に初参戦。いきなりトーナメントで決勝まで進み、ドン・フライには敗れたが、一夜にして格闘技界にその名前を轟かせた。
1997年10月11日には、東京ドームで開催された「PRIDE」に参戦し、ロシアのオレッグ・タクタロフを1ラウンドKOで下した。そこから4大会連続で出場。アグレッシブなファイトスタイルで人気を博し、"PRIDEの門番"と呼ばれた。
K-1初参戦は、1999年4月25日に横浜アリーナで行なわれた武蔵戦。その試合は金的を蹴る反則で敗れ、佐竹戦がK-1での2戦目だった。
佐竹が重圧を感じたのは、この一戦が、日本テレビのチャリティ番組『24時間テレビ』の企画の一環として生中継されることになったからだ。当時、人気絶頂だったアイドル系ダンス&ボーカルグループ「SPEED」がチャリティーパーソナリティを務めたこの年は、「伝えたい...夢のちから!」をテーマに、タレントの錦野旦がチャリティーマラソンランナーを務めるなどさまざまな企画で募金を呼び掛けた。
そのなかで佐竹は、身体障害者施設の子供たちと交流を持ち、勝利を約束。会場で子供たちが観戦するなかでのリングに上がった。
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「これはプレッシャーでしたよ。周囲からも『子供たちに勇気を与えてください』って言われましたけど、真剣勝負ですから勝てる保証はないわけです。ベーブ・ルースの予告ホームランみたいな劇的なことなんてできない。だけど、子どもたちのために絶対に勝たないといけない試合でしたから、重圧はすさまじかったですね」
【異種格闘技戦は「燃える」】
絶対に負けられない試合に、佐竹は空手の道着を着て臨んだ。
「『気合を高めるためにも空手着だな』と思ったので。(グッドリッジは)PRIDEの選手でしたし、異種格闘技戦の気持ちでリングに向かいました」
ゴングが鳴る。グッドリッジは間合いを詰めてパンチ、蹴りでプレッシャーをかけてきた。佐竹は、それにローキックを合わせる作戦に出た。
「グッドリッジは、テクニックはなかったんですが、パンチを振り回してくるから、最初はどう対応すればいいのかわからない状態でしたね」
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3ラウンド、左のローキックがグッドリッジの右足をとらえた。グッドリッジは棒立ちになり、佐竹のパンチの連打からの左フックも顔面をとらえた。その後も左のローキックで攻め続けるとグッドリッジは膝をつき、そのまま立ち上がることができなかった。
KO勝利で子どもたちに勇気を届けたが、その試合の裏側についてこう明かす。
「実は、この試合前に足の指を痛めていて状態は最悪でした。だけど、『痛い』なんて言っていられなかった。子どもたちのためにも勝たないといけなかったので、意地だけで闘ったような感じです」
当時は重圧しかなかったグッドリッジ戦だが、今は「それが楽しかったですね。佐竹雅昭という空手家は、1995年の(当時UFCで注目されていた)キモ戦もそうでしたけど、ああいう異種格闘技戦的なシチュエーションになると燃えるんですよ」
前年の1998年8月28日には、K-1ジャパングランプリ1回戦で、UWFインターナショナルなどで活躍したプロレスラー・安生洋二とも対戦している。この試合も「空手vs.プロレス」という色合いがあった試合だった。
「安生戦も面白かったですね。観客から、『佐竹がプロレスラーと闘ったらどうなるんだ? 佐竹が勝つだろうけど、安生が勝ったら......』みたいな期待感というか、未知なゾーンに入っていく怖いもの見たさみたいな視線をすごく感じるんです。それはK-1戦士との試合では出せませんし、僕もそういう雰囲気が好きでしたね」
安生戦は佐竹が右ハイキックを入れ、2ラウンドTKO勝利を収めた。
「安生選手は、慣れないK-1ルールなのに一生懸命攻めてきましたよ。根性がありましたね。佐竹を倒してひと花咲かせよう、ここで勝って生き残ってやる、といったチャレンジ精神を感じました。闘いながら、『これぞプロだな』と尊敬の念が生まれました」
【清原和博に「スパーリングしない?」】
この頃の佐竹は、アメリカ・シアトルにあるキックボクサーのモーリス・スミスのジムで特訓を重ねていた。師事していたトレーナーはケビン山崎。のちにプロ野球選手の清原和博らのトレーナーを務めて有名になった同氏は、関西学院大学アメフト部のトレーナーを務めていた時に正道会館の関係者と知り合い、筋力を強化するトレーナーとして佐竹らを指導するようになった。
「ケビンさんは食事管理も徹底していて、『炭水化物を取らずにチキンだけを食べなさい』といった指導をされましたね。筋トレも教えてもらって、それまで持ち上げられなかった重さのバーベルなども上げられるようになった。パワーがついてきたことを実感したので、専属トレーナーになっていただいたんです。ケビンさんの拠点がシアトルだったので、試合と試合の間にシアトルで特訓するようになりました」
ケビン山崎のジムの近くにスミスのジムがあり、スパーリングも行なうなど充実した環境で練習に集中していた。当時は、清原とも一緒に練習をしたこともあったという。
「清原さんと一緒にトレーニングした時に、冗談で『スパーリングしない?』と誘ったこともありましたね。向こうは『いやいや......』って苦笑いしていましたよ」
当時は34歳。プレッシャーをはねのけてグッドリッジに快勝するなど、心身ともに上昇カーブを描いていたが......。1999年の10月5日、大阪ドームで行なわれたK-1グランプリの開幕戦。同じ正道会館の後輩だった武蔵との試合が、佐竹にとってK-1ラストマッチになってしまう。
(つづく)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。