多母髪大気さん(23歳)薬物依存症の両親から生まれ、乳児院で育った多母髪大気さん(23歳)。彼は先天性脳性麻痺という障害をもちながら、社会活動家として自身の経験を講演などで伝えている。今年2月、人気YouTubeチャンネル「街録ch」に出演、100万回再生以上を記録して大きな話題を呼んだ。
ハンディキャップがあっても、自らの力で人生を切り開こうとしている彼の半生に迫った。
◆薬物依存の両親から生まれ、親元を離れて乳児院へ
——先天性脳性麻痺には、どのような症状があるのですか?
多母髪大気(以下、多母髪):先天性脳性麻痺は、胎児の頃から出生後4週間以内に受けた脳への損傷によって障害が起きた状態をいいます。障害の種類はいくつかあるのですが、僕の場合は自分の意思と反して身体がのけぞったり、筋肉が固まってきて滑舌が悪くなってしまうなどの症状がありますね。
——成長するにつれて、障害が良くなったりはしないのでしょうか。
多母髪:基本的に脳性麻痺の完治はしないのですが、リハビリテーションや薬物療法を受けることで自立できるようにしていく。
障害児入所施設では、障害のある人たちが大人になった時に困らないように、少しでも自分でできることが増えるように学んでいきます。普通の人と比べると、動く部分が小さいかもしれないけれど、そのなかでできることはなんだろうって考えることが大切なんです。
——生まれてすぐ乳児院に預けられたのは、障害も影響していましたか。
多母髪:いえ、乳児院に入ったのは障害とはまったく関係なくて。両親が薬物依存症だったんです。母親に養育能力がなく、父も違法薬物で服役をしていたので、児童相談所の措置で乳児院にいきました。赤ちゃんの頃は、障害があっても周りからの配慮は必要なかった。でも、身体が大きくなるにつれてできないことが増えていくので、障害児を受け入れている障害児入所施設に移りました。
——両親はどのような印象だったか覚えていますか?
多母髪:母親は優しいとまでは言いませんが、あまり記憶がないです。父親は、いつも一緒にいる女の人が違っていたので、どこまで母のことを思っていたのか疑問でした。僕には4つ年の離れた健常者の姉がいるのですが、姉が児童養護施設から障害児の施設までよく遊びに来てくれていました。
——小学校は、特別支援学級に通われたのですよね。学校ではどのような勉強をしていましたか?
多母髪:僕がいた特別支援学級は、勉強よりも将来的な自立につながるような、自分でコンビニに行って買い物ができるようになるというような学習がメインでした。最近は、インクルーシブ教育といって、障害の有無に関わらず、すべての子どもが同じ場で学び合う教育を推進している学校もあります。その場合は普通学級の中に、特別支援教育専門の先生が入って障害のある人たちにも勉強をする機会を与えています。
◆突然、面会に来なくなった父。違法薬物で捕まっていた
——小学生の頃は、お父さんは施設に会いに来たりしましたか?
多母髪:僕は自分のお父さんという存在を、小学校の低学年まで知らなかったのです。初めて会ったのは小学校5年生の時でした。お父さんと会ったのは片手で数えるくらいの回数しかなかったですが、抱っこされた嬉しさは忘れられないですね。でもある時から、いきなり連絡が取れなくなった……。
——お父さんはどうして会いに来れなくなったのでしょうか。
多母髪:しばらく経ってから会いに来た時に、「刑務所に入っていたんだ」って言われました。その時の記憶を思い出すと、やっぱり受け入れるのには時間がかかりました。面会に来たときに、「元気になる薬」と言って鞄の中に入れていたこともありましたね。今思えば、あれは違法な薬物だったのかなと。
——多母髪さんは、先天性の障害を抱えることになった原因についてお父さんから聞かされたことがあるそうですね。
多母髪:薬物の使用が先天性脳性麻痺の原因になるというエビデンスはないことを前置きしたうえですが、高校生の頃に「僕はなんでこの障害になったの?」って父親に聞いたら、「母親と性行為する時に薬物を使っていたから」って言われて。正直ショックでしたね。父親は、そういうことを普通に言うのだなって。
——色々と大変な経験をされていますが、これまで親に代わる存在の人はいましたか?
多母髪:乳児院にいた時の職員の人が、“週末里親”としていろいろと支援してくれました。週末は、その職員さんの家に連れて行ってくれて、買い物に行ったり温かいご飯を食べさせてもらって寝る。私はそういう普通の生活をしたことがなかったですから。非常に短い期間だったけれど、家族の優しさを感じられました。
◆父の恋人を信用して通帳を預けたら…
——スポーツをされる時も、支援してもらっていたのでしょうか。
多母髪:学生時代は卓球と陸上をやっていたのですが、僕は形から入るタイプなので(笑)。運動で使う道具なども買ってもらったりしました。
——“週末里親”という制度では、その職員の方のお金で買うということでしょうか。
多母髪:そうです。週末里親というのはボランティアですね。いろいろな体験をさせてくれて、必要なものも買い与えてくれた。里親という存在は、自分にとってすごく大きかった。
——今も里親の方と交流はありますか?
多母髪:はい。グループホームに入所する際の保証人にもなってもらっています。今いるグループホームはワンフロアに10人ほどで暮らしています。僕は自立していますが、人によっては、排せつなどの支援も必要なので介護士の方が交代制でいてくれています。
——保証人が両親ではない理由はあったりするのでしょうか。
多母髪:母は薬物の後遺症と、父からのDVの影響もあって精神疾患を患ってしまっています。以前、入所していたグループホームは、父の恋人が保証人になっていました。父の恋人には複数の子どもがいたので、お金が必要だった。信用して通帳を預けていたら、グループホームの作業でもらっていた賃金もすべて使われていました。
障害者を取り巻く環境が、家族ありきなのですよね。福祉サービスを契約する際にも、連帯保証人として家族のサインを求められる。僕のような機能不全家族だと契約をすること自体のハードルが高い。現在の身元引受人は高齢なので、もしものことがあったら僕も親元に戻されてしまう可能性があります。
◆「家族を食い物にするな」と批判されても…
——そのような家族のことをSNSや講演会、メディアなどで発信するのは勇気がいると思うのですが、どのような反響がありましたか?
多母髪:僕の活動も賛否両論あって、「家族を食い物にするな」という批判も受けます。これはずっと言っているのですが、自分の父親を否定しているわけではないのです。むしろ依存症から回復してほしいと願っています。
——パラスポーツの選手としても、指導員の資格を取得されて活動していますね。
多母髪:「パラリンピックの父」とされるルートヴィヒ・グットマンの言葉で「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」というのがあるのです。僕にとってこの言葉は「障害者でもできることがある」と捉えています。それまでは障害がある人たちの受け入れをしてくれる体育館も少なかったのですが、2021年のパラリンピックのおかげで、障害者スポーツの知名度も高まりました。僕はまだ、スポーツの成績でいうと日本代表のような大きな名誉や賞を獲ったことはありませんが、小さい頃からずっと、身体を動かすことが大好きですね。
——多母髪さんは23歳でいろいろな経験をされています。そのような苦難をどうやって乗り越えてきましたか?
多母髪:これまで自分のバックグラウンドを話すと、逃げていってしまう人たちもいた……。障害児施設でも、家族と連絡が取れなかったのは僕だけでした。そういう経験があったけれど、今は自分の活動を支援してくれる人がいる。その存在が、僕にとって大きいですね。
以前は自分のことを発信するのに葛藤があって、心が揺らいだこともありました。自分一人だったら、できなかったと思います。この記事を読んでくれている人の中には、今大変な状況の人もいるのかなって思うのですが。
でも、あなたのことを受け入れてくれる人って必ずいます。しんどい時に、我慢したり無理をしない。相談できる相手がいなければ、地域にある保健福祉相談センターとか、相談窓口などを頼ってみてもいいと思います。孤独にならずに人とのつながりを作ってほしいです。
* * *
「障害をチャンスと捉えるようにしていった」と明るく話す多母髪さん。彼の挑戦し続ける姿が、きっと誰かを勇気づけるにちがいない。
【多母髪大気】
兵庫県姫路市出身。2002年生まれ。社会活動家。現在は、SNSを通した講演活動を行っている。X(旧Twitter):@ CjY5bju
<取材・文/日刊SPA!取材班>