
連載第49回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、後藤氏が51年前に観戦した、1974年西ドイツW杯の話。東西ドイツが存在していた当時、両国唯一の対戦となった試合がありました。
【五輪に力を入れていた東ドイツ】
先日、旧東ドイツについてのドキュメンタリー番組を見ていたら、1974年の西ドイツW杯当時のエピソードが紹介されていた。
東ドイツからも「サポーター」が西ドイツを訪れたのだが、西ドイツに送られたのは思想が堅実で、既婚で家族を持つ人たちばかりだったという。西側への亡命を防ぐためだった(つまり、家族は人質)。世界が注目するW杯という舞台で西側への亡命者が出ることは東ドイツ政府の沽券に関わる問題だったのだろう。
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僕にとって、これは個人的な懐かしい思い出でもある。
この大会で東西ドイツは同じグループに入って直接対戦し、W杯初出場だった東ドイツが優勝候補筆頭の西ドイツに1対0で勝利した。この大番狂わせの舞台はハンブルクのフォルクスパルクシュタディオンであり、僕もこの試合をスタジアムで観戦したのだ。そして、東ドイツの応援団はメインスタンドの僕の席の少し前に陣取って旗を振って盛んに応援していた。
だが、彼らは実にお行儀がよく、西欧諸国や南米のサポーターとはどこか様子が違っていた。政府から西ドイツ訪問を許可された彼らは、必ずしも熱烈なサッカーファンというわけではなかったからなのだろう。
若い読者のみなさんには、東ドイツという国について説明が必要かもしれない。
1945年、第2次世界大戦で敗北したドイツは米国、英国、フランス、ソビエト連邦の4カ国によって分割占領された。
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その後、1949年に西側3カ国の占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が樹立され、ソ連占領地域はドイツ民主共和国(東ドイツ)となり、ドイツは東西に分断された。首都ベルリンも4カ国に分割占領されていたが、ソ連地区(東ベルリン)は東ドイツの首都となり、一方、西ベルリンは西ドイツの州のひとつとされた(西ドイツの首都はボン)。周囲を東ドイツに取り囲まれた"飛び地"だった。
両国は激しく対立したが、東西ベルリン間は自由に通行できたので東ドイツから西側へ脱出する人が後を絶たず、東ドイツ政府は1961年に東西ベルリンを隔てる「壁」を建設。脱出を試みる市民に対して容赦なく発砲するようになった。
東ドイツは、資本主義に対する社会主義の優位性を示すためにスポーツ強化に力を入れた。第2次大戦後、ソ連の支配下にあった東欧の社会主義諸国はどこでもそうだったが、とくに東ドイツは大成功をおさめ、人口約1600万の東ドイツは、1970年代後半以降、五輪の金メダル獲得数で米国を抜き、ソ連に次ぐ2位となった。
そのため、国家予算を投じて科学的トレーニングが行なわれたが、その裏で選手たちは国家ぐるみのドーピングを強いられ、海外遠征する選手たちは秘密警察「シュタージ」から厳しい監視を受けていた。
【西ドイツと東ドイツが対戦することに】
五輪種目で大躍進した東ドイツだったが、サッカーの強化は進まず、W杯本大会に出場できたのは皮肉にも西ドイツで開催された1974年大会だけだった。
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皮肉は、さらにいくつも重なった。
東ドイツは西ベルリンが西ドイツの一州だとは認めていなかった。そこで、西ドイツ政府は西ベルリンとの一体性を国際的にアピールするため、同市でW杯を開催しようとした。当然、東ドイツはそれに反対した。
ところが、W杯本大会組分け抽選の結果、東ドイツは西ドイツと同じ第1組に入り、東ドイツ代表は西ベルリンのオリンピアシュタディオンで試合をすることになってしまった。しかも、相手はこともあろうに南米代表のチリだった。
チリでは、民主的な自由選挙によって選ばれたアジェンデ大統領の社会主義政権が銅鉱山の国有化を進めた。そして、これに反対する米国が絡んだ軍事クーデターが起こり、大統領は官邸内で応戦したが自殺。権力を握った軍事政権は反対派の市民を首都サンチャゴの国立競技場に収容し、そこで数千人が虐殺されたとも言われている。
この年のW杯南米予選でチリは3位となり、プレーオフで欧州代表と戦うことになったが、対戦相手はなんとアジェンデ政権の後ろ盾となっていたソ連だったのだ。ソ連は、多くの市民が虐殺された"血塗られた"スタジアムではなく中立地での開催を求めたが、FIFAは会場の変更を認めなかったためソ連は対戦を拒否。それによってチリが本大会出場を決めたのだ。
東ドイツが東ベルリンの地で、そのチリと対戦する......。皮肉な偶然が幾重にも重なっていた。
それでも、東ドイツはボイコットすることなく、チリとの試合に臨んで引き分け。2試合を終えた時点で西ドイツに次ぐ2位となり、ハンブルクでの最終戦ですでに2次リーグ進出を決めている西ドイツと対戦することになったのだ。
【当時世界最強の西ドイツに東ドイツが勝利】
西ドイツは当時の世界最強国のひとつで、1972年の欧州選手権(ユーロ)優勝チームだ。
実は、東ドイツのサッカーファンも強い西ドイツ代表を秘かに応援しており、西ドイツがチェコスロバキア(当時)やハンガリーに遠征すると、西側には出られない東ドイツのファンが観戦のためにスタジアムに詰めかけたと言われている。
そんな東ドイツのファンも含めて、誰もが西ドイツの勝利を信じていた。
西ドイツ代表ではリベロとしてチームを統率するフランツ・ベッケンバウアー(バイエルン)は絶対の存在だった。しかし、中盤での司令塔を巡っては論争があった。ヘルムート・シェーン監督はW杯では短いパスを出し入れすることによってゲームを組み立てるヴォルフガング・オヴェラート(ケルン)を起用していたが、サポーターの間では2年前の欧州選手権でロングパスを駆使したすばらしいゲームメークを見せたギュンター・ネッツァー(ボルシアMG)を支持する声も高かった。
さて、ハンブルクでの対戦で西ドイツはボールを支配してはいたが、東ドイツの守備を攻めあぐね、スコアレスのまま後半に入ると、スタンドから「ネッツァー、ネッツァー」という声が地響きのように湧き上がってきた。シェーン監督は、これに応えるようについに69分にネッツァーをピッチに送り出したのだが、その8分後にロングパスを追った東ドイツのユルゲン・シュパールヴァッサー(マクデブルク)が決勝ゴールを決めて、東ドイツが勝利を収めたのだ。
国際Aマッチで東西ドイツが顔を合わせたのは、この時だけだった。1990年に東ドイツは西に吸収される形で消滅したので「東ドイツの1勝」という記録が残った(ちなみに、決勝ゴールを決めたシュパールヴァッサーは後に西ドイツに亡命した)。
【統一後東側のクラブは苦闘も好選手を輩出】
1989年には東欧で民主化が進み、「ベルリンの壁」も崩壊。翌1990年に東ドイツの諸州が西ドイツに加盟する形でドイツは再統一。サッカー協会も統一され、東ドイツのオーバーリーガのクラブもブンデスリーガに加盟した。
しかし、財政的に苦しい東側のクラブは苦闘を続け、現在旧東ドイツ側でブンデスリーガ(1部)に所属しているのは、2009年にレッドブル傘下で新たに創設されたRBライプツィヒと2019年に昇格したウニオン・ベルリンだけだ。
それでも、東ドイツには優れた選手も多く、マティアス・ザマーは1996年の欧州選手権でドイツの優勝に貢献。ミヒャエル・バラックは後にドイツ代表主将も務めた。
さて、東ドイツに敗れた西ドイツ代表はボーナス問題などでも揉めていたが、東ドイツ戦後、ベッケンバウアー主将が全権を掌握して戦い方を変え、結局、この大会で開催国優勝を果たすことになる。
もし、西ドイツがグループ1位になっていたら、オランダ国境に近いゲルゼンキルヘンでヨハン・クライフのオランダと対戦していたはずで、そうなったらオランダ有利だっただろうと言われている。だが、西ドイツは東ドイツに負けて2位通過となったことで2次リーグでのオランダ戦を回避。オランダとは決勝で対戦することになった。
それゆえ、「東ドイツが優勝に貢献した」とも言われる。
決勝の会場はバイエルン州のミュンヘンであり、西ドイツ代表にはGKのゼップ・マイヤーや点取り屋のゲルト・ミュラーなどバイエルンの選手が多かったので、まさにホームでオランダと戦えたのだ。
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