旗手怜央が語る母との思い出と感謝の気持ち「誰よりも自分のプレーを見てくれている」

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2025年05月14日 07:20  webスポルティーバ

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旗手怜央の欧州フットボール日記 第37回

 今回は先日の「母の日」にちなんで、旗手怜央に母親との思い出を教えてもらった。サッカーを始めた小学生時代から、いつも温かくかつ厳しく寄り添ってくれた母には感謝し続けているという。

前編「旗手怜央が振り返る今季の自身の成長」>>

【今ではすっかりサッカー好きに】

 5月の第2日曜日は、母の日として知られている。かく言う自分も毎年、姉と相談して母の日と誕生日にはプレゼントを贈っている。

 最近は母自身もジムに通うなど、運動をしているという話を聞いたので、身体の回復に役立つような物を送った。パリやロンドンなどに旅行へ行った際も、母にはお土産を買って送ったり、知り合いを通じて手渡してもらったりしている。

 記念日以外にも、母にお土産やプレゼントを贈っているのは、親孝行はもちろん、これまでの感謝を少しでも示すことができればと思うからだ。

 以前のコラム(第16回)で、父について綴ったことがあるが、この機会に母についても触れたいと思う。

 家族のなかで誰よりも連絡を取っているのが母だ。セルティックでプレーするようになってからも、日本とは時差があるにもかかわらず、毎試合、リアルタイムで試合を視聴してくれ、試合後には必ずメッセージを送ってくれる。

 その内容は、「勝ってよかったね」や「ナイスゴール」といった、本当に簡単なものばかりだが、試合後に必ずといっていいほど届くため、「いつも見てくれているんだな」「今日も応援してくれていたんだな」と思う。同時に、いくつになっても自分は、母にとって子どもであることを実感するし、今なおそのサポートに感謝する。

 ちなみに、そんな母は今ではすっかりサッカーが好きになり、僕がセルティックでプレーするようになってからは、いわゆる海外サッカーにも興味を持つようになった。UEFAチャンピオンズリーグ(CL)などの注目カードは、セルティックの試合以外も見ていると聞いたので、おそらく今季のCL決勝であるパリ・サンジェルマン対インテルも、早朝に起きてテレビ観戦するのではないかと思っている(笑)。

【必ず一緒に食事をしてくれた】

 思い起こせば、友人の影響でサッカーをはじめた小学生の時から、送り迎えをしてくれていたのが母だった。きっと多くのチームメートたちもそうであるように、母親こそが自分のプレーを誰よりも見てくれていて、成長を感じてくれている人なのだろう。

 父親が転勤で単身赴任をしていた小学生時代から、ひとりで僕と姉の面倒を見てくれていた姿を思い出す。

 そんな母は、勉強ができずに怒るようなことはなかったが、ルールや家族の決めごとに対しては厳しい人だった。

 思い出すのは、例えば小学生の時だ。我が家は夕方5時が門限だったが、友だちと遊んでいて帰宅時間が遅くなると、家に入れてもらえなかった。そして、いつも自分が反省したのを見計らって声を掛け、うちに入れてくれるような母だった。

 また中学生時代のお昼ご飯はお弁当だったが、その日のうちにお弁当箱を洗うように言われていたのに、それを忘れてしまうと、翌朝にお弁当が用意されていることはなかった。その時も、朝に洗うように言われ、そのあと準備していた料理をお弁当箱に詰めてくれたことを思い出す。

 父も厳しい人だったが、母もそうした妥協を許さない人だった。だからこそ、今の自分があると思っている。

 中学生の時、スポーツ貧血になったことがあった。走ってもすぐに息切れしてしまい、走りたくても走れない時期が続いた。そのため、月に1回は血液検査をして数値を診てもらっていた。

 母は食事について熱心に勉強して、何を食べたほうがいい、どういう物を摂ったほうがいいと考えて、食事を用意してくれていた。親からしたら迷惑とは思っていなかったかもしれないけど、子どもながらに「ありがたいな」「迷惑をかけているな」と思っていた。そうしたところにも、妥協しない母の強さを感じ取っていた。

 同時に思い起こすのは、忙しいにもかかわらず、僕が家にいる時はひとりで食事をすることがないように配慮してくれていたところだ。どんなにサッカーの練習で帰りが遅くなった時も待っていてくれて、必ず一緒に食事をしてくれた。子どもながらに、そうした食卓がうれしく、今もひとりよりも誰かと一緒に食事をするほうが好きなのは、母が温かさと優しさを持って接してくれていたからだと思う。

【母の影響を多分に受けている】

 だから、サッカーで悩んだり、苦しんだりした時も親に弱音を吐くことはしなかった。それは15歳で親元を離れ、寮生活を送るようなった静岡学園高校時代もなおさらだった。

 これも以前のコラム(第10回)で触れたが、高校3年生の時、一時期、背番号10を剥奪されたことがあった。2年生にして全国高校サッカー選手権で活躍し、高校選抜に選ばれた自分は天狗になり、"シズガク"の10番を背負って調子に乗り、監督からの声掛けを無視してしまったのをきっかけに、エースナンバーを取り上げられたのだ。

 その時行なわれた練習試合では出場を許されず、副審をしていたのだが、母はその試合を見に来ていた。ただ、僕が試合に出ていなかったことについて、何かを言われたり、探られたりするようなことはなかったのを覚えている。

 自分で解決できること、自分で乗り越えなければならないことは自分で対応し、改善する。父もそうした厳しさはあったが、何も聞いてこない母に、そうした強さや逞しさを教わった気がする。

 また、僕自身、物事をはっきりと言うところや考えるところは母に似ているように思う。また、負けず嫌いなところは野球をやっていた父の影響だろうと思っていたが、考えれば考えるほど、妥協を許さなかった母こそが負けず嫌いであり、その影響を僕自身は多分に受けているのではないかと思う。僕ら家族をよく知る人は、性格は姉が父に似ていて、僕は母に似ているというから、きっとそうなのだろう。

【CLを見に来てもらった】

 昨年11月5日、CLリーグフェーズ第4節のライプツィヒ戦を見に、セルティックパークまで来た母は、CLアンセムとともにピッチに入場する僕の姿を見て泣いていたと、妻から聞いた。その試合でCL初ゴールをマークし、妻が母を見ると再び涙を流して喜んでいたと教えてくれた。

「少しは親孝行できたのかな」

 母が見に来てくれた試合でゴールを決められたことがうれしかった。同時にもっと活躍する姿を見せ、母が喜ぶ姿が見たいと思った。

 ひとつのことを突き詰めていくのは、間違いなく母親譲りだ。そんな母のように、これからもプレーを突き詰めて成長していきたい。

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