
梶谷隆幸×高森勇旗 ベイスターズ同期入団対談(全4回/3回目)
生まれ変わっても戻りたくない──かつて横浜ベイスターズのファームとして存在した湘南シーレックス。そこには、血と汗と涙がにじむ"地獄の3年間"があった。プロの世界で生き抜くことの過酷さと、その先に見えた希望とは。元シーレックス戦士・高森勇旗と梶谷隆幸が語る、知られざる日々の記憶とは。
【今日を生き抜くことで精一杯】
高森 さて、湘南シーレックス(※)の話をしようか。
※横浜ベイスターズのファームで、2000年から2010年まで「湘南シーレックス」の名称で活動していた
梶谷 来たね。生まれ変わっても二度と戻りたくない濃密な3年間。それぐらいしんどかった。
高森 時代が違うとはいえ、だよ。むちゃくちゃだったよね。オレとカジ(梶谷)はいつも一緒で、早出、個別、夜間と全部やってさ。全体練習が終わると休みなしで2時間、カジが万永(貴司)さんのノックを受け、オレが(高木)由一さんとティーバッティングを交互にやって。それが終わったら谷川(哲也)さんのところでランニング、ウエイトをやって、晩飯食べたあとに夜間練習。
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梶谷 正直、逃げ出したかったよ。今の練習は14時ぐらいには全部終わって、そこからウエイトをやるヤツはやるという感じ。あの時はマジで日が暮れても普通にやっていたよね。
高森 長浦のグラウンドって、横須賀の軍港の向こう側から太陽が昇り、最後山の方に沈んでいくと、山の影がグラウンドを一気にバーッと包んでいく。そうなると「よーし、じゃあティーバッティングやるか」という声がかかってさ。
梶谷 冬場の4時半から5時ぐらいのあの夕日、思い出すな。
高森 当時は一軍で活躍するという高邁な理想よりも、とにかく今日を生き抜くことで精一杯だった。
梶谷 あまりにも下手すぎて未来が見えなかったからね。でもやらずにはいられなかったんだよな。モリ(高森)は休みの前の日に飲みに行っても、「ちょっとバット振りたいから」って帰っていたよな。「えっ、ウソだろ! すげぇな」って感心したよ。
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高森 本当に振ってたからね。それに東京から横須賀までタクシー3万円なんて払えない。タクシーで帰る先輩がいれば便乗できたけど、いない時は電車で絶対に帰ることはマストだった。
梶谷 タクシーは死活問題だったもんな。寮の最寄り駅は安針塚だけど、歩くとけっこう時間かかるし、急行止まらないし、本数少ないから合宿所にタクシー呼んで追浜まで行くのが先輩たちから代々受け継がれてきた知恵だった。
高森 1年目、オレの給料は460万円でカジは480万円。当時汐入のレンタルビデオ屋にDVDを借りに行くと、タクシーだと往復で3000円。二階のクレープ屋に寄ると2000円。一回行くとトータルで5000円かかるわけ。「オレたち、お金の使い方間違えているんじゃねぇか」って話をしたじゃない。
梶谷 そこから武山(真吾)さんとか先輩の車に乗せてもらうようにしたんだよな。
【シーレックスで優勝争い】
高森 今の選手は追浜からあっちには行かないんだろうな。うらやましい。去年はファームも日本一になったしね。42年ぶり? 相当すごいことだよ。
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梶谷 シーレックスも惜しい年あったんだけどね。
高森 3年目の2009年、ファームでレギュラーになって、一番試合に出た年だ。あの年はラスト8試合でジャイアンツ、シーレックス、ロッテが同率で1位だった。そこからオレたちは5連敗して終わったんだけど、最後首位攻防のロッテ戦で小宮山(悟)さんが先発に来た。インコースにカットボール攻められまくって「大人げねぇよ!」って思ったもん(笑)。
梶谷 あの年は藤江(均)さんがルーキーで、勝利数、勝率、防御率の三冠で無双していたんだよね。でも、いいと一軍に取られちゃうんだよな。オレたちからすれば「一軍にうちのエースを取られた」という感覚になるわけ。オレはファームでも優勝したかったから。
高森 その代わり、一軍から落ちてくるピッチャーは調子悪いからね。「調整のつもりでやらないでよ。頼むよ、優勝かかってるんだから」ってね。
梶谷 そうそう。一度、吉見(祐治)さんが一軍で2回KOされて即二軍に落ちてきて、中1日とかで先発するわけよ。「大丈夫なのか......」って不安視していたら、普通に9回87球とかで完投しちゃうわけ。
高森 めっちゃ覚えてる(笑)。
梶谷 しかも休み前だったからね。早く終わってほしいと思っているところで1時間58分とかで試合が終わった。「吉見さん、神!」って感激したのを覚えているわ。
高森 あの2009年は監督の大矢(明彦)さんが休養して、ファームの監督だった田代(富雄)さんが一軍の監督代行になった。しかも、オレの誕生日の5月18日からだよ。
梶谷 マジか。すごいプレゼントだな。
高森 その日は休日で、病院に検査に行ってたの。そしたら待合室に偶然番長(三浦大輔)が来た。一軍のエースと二軍選手だよ。「うわっ、三浦さんだ」って圧倒されてたら「おまえ、新聞見たか? 監督変わったぞ」と言われて。慌ててニュース見たら監督代行に田代さん。これはとんでもない誕生日プレゼントだと震えたよ。クワさん(桑原義行)には「絶対一軍に上げてくれるぞ」と言われて、実際にゾノさん(下園辰哉)は即一軍でいきなり1番スタメンだし、呉本(成徳)さんも一軍に行った。「さぁ、来るか、いつ来るか」と待ってたんだけど、いつの間にか10月になってた。
梶谷 でも最後に上げてくれたんだよな。
高森 一軍に上がって、田代さんにあいさつしに監督室に行くじゃない。「おう、ご褒美だ」と言って、直後に「3日後からフェニックスな」って言われて宮崎行き決定。
梶谷 もうそれは当たり前に確定事項。それでもありがたいよね。
高森 ありがたかったよ。結局、その2日がオレの一軍のすべてだったからね。一方のカジはこの2009年にノーステップ打法でタイミングをつかんで、一気にガーンと伸びた。春先に甲子園ではホームランも打ってさ。あの時は「やれる」という感覚はあったの?
梶谷 全然。ただただ早く終わってくれと思っていた。恐怖に駆られているからさ。特に守備なんて逃げ出したかったもの。あの甲子園でホームラン打った日も、結局9回に悪送球してさ。心が持たなかった。「オレ、メンタル弱っ!」と思ったもん。
【中畑監督が我慢してくれたおかげ】
高森 オレの一軍での2試合は消化試合だから、心が削られる間もなく終わったんだけど、"心がもたない"という感覚は少しわかる。その後、カジは一軍でも活躍するようになるじゃない。
梶谷 6年目の2012年だよね。親会社がDeNAに代わって、中畑(清)さんが監督になって見出してもらった。オレはすごい運がよかった。監督がどういう選手を好むかで、選手の人生は変わってしまう。オレは中畑さんが我慢して使い続けてくれたおかげで、18年も現役でプレーできた。中畑さんが来なければ、2012年か13年でクビになっていたと思う。
高森 いま振り返っても、当時の梶谷のどこに中畑さんが魅力を感じたのかわからないんだよ。もちろん足は速かったけどさ。
梶谷 ......オレもそう思う。あの当時、足しかないもん。ファームでも2割8分程度しか打ったことがないし、飛距離もない。自分でもビックリするよ。「なんでオレなの?」って。
高森 それであれだけ我慢できるってすごくないか......? 考えて見れば三上(朋也)もヤスアキ(山?康晃)もいきなりクローザーで使っているし、すごい先見の明だよね。
梶谷 感性が独特なんだろうね。でもオレはそれで救われた。苦しかったけどね。1番ショートで開幕スタメンに抜擢されて、それからずっと使ってくれたんだけど、ずっと1割台もいかなかった。市外局番で愛知ぐらいまでいったしね。
高森 052ぐらいか。横浜の045までもうすぐ(笑)。
梶谷 まったく打てないと、「おまえ、今どこの県?」って聞かれる。結局、最終的に.179だったかな。打てないだけじゃなく、守備でもイップスになって。毎試合スタメン発表前に「頼むからオレの名前がありませんように」って願いながら過ごすんだけど、また名前がある。
高森 ほかの選手からすれば、「こいつ贔屓されやがって」という目もあるだろうしね。
梶谷 ちょっと前なら「贅沢な悩みを言いやがって」となるけど、日に日にヤジも大きくなるし、これまでとはまったく違う怖さだった。メンタルはボロボロで、本気で「野球に向いてない」と思ったし、ファーム行きを言われた時、正直ホッとしたよ。もうさらし者にならなくていいと思って......。
【伝説のチョウチョ事件】
高森 この2012年はお互い寮も出ていたし、オレはファームだったから会う機会もほとんどなかった。オレはその年のオフ、クビになるんだけどさ。
梶谷 さっきも言ったけど、オレもこの年でクビはあり得たよ。でも、あとになって(高木)豊さんから聞いたんだけど、結果が出なくても使われていたあの期間、コーチ全員が「梶谷はもうダメです」って言うなか、中畑さんと豊さんだけは「いや、梶谷でいこう」って頑なに折れなかったんだって。
高森 マジか......すげぇ話だな。
梶谷 その時に中畑さんが「ユタカ、おまえ全部やれ」って指導を託して、ほかのコーチに「梶谷にはいっさい触れるな」って言ってくれたらしいの。オレ、全然知らなかったんだけどさ。
高森 それもカジの引きの強さだよ。それにしても、メンタル弱いのに、どこかのタイミングで一軍の大観衆の前でも普通にプレーできるようになったわけでしょ。2013年の春先にあった"チョウチョ事件(※)"の時は?
※2013年4月13日の広島戦で、3回表二死満塁から9番・大竹寛が放ったショートゴロを石川雄洋が捕球し、二塁へ送球してスリーアウトチェンジかと思われたが、セカンドベースカバーに入るはずの梶谷がなぜか一塁後方にいた。あまりに謎なプレーだったため、「梶谷はチョウチョを追いかけていたに違いない」という説が流れた
梶谷 全然ダメ。チョウチョね。あれはヤバかった......モンシロチョウやったわ(笑)。
高森 でもあれで二軍に落ちて、一軍に復帰したあとの8、9月でホームラン16本と覚醒するわけだ。あの時は、吹っ切れてたの?
梶谷 いや、もっとあとだね。あの時は必死すぎて、毎日守備が怖かったという以外は記憶がない。結局、バッティングが安定するまで心に余裕が持てないんだよ。ある程度数字を出していれば、エラーをしたとしても「140試合のうちの1つのエラー」って空気になるけど、数字が悪ければ1つのエラーで耐えられない空気になる。それで2014年に外野にコンバートされるわけだけど、あれで肩の荷が降りた。
高森 内野と外野じゃそんなに違うんだ。
梶谷 違う! こだわりのある人には失礼かもしれないけど、外野なんて走って捕りゃいいんだから(笑)。だからオレは何も教えられない。
高森 じゃあショートで25年もやった(石井)琢朗さんとかは相当すごいんだね。
梶谷 異次元だよ。(坂本)勇人もそうだし、(宮?)敏郎もそう。鳥谷(敬)さんとか、菊池(涼介)なんて土のグラウンドでしょ。あり得ないよ。普通に内野で10年とかやっている人はマジで尊敬する。オレは実質「内野失格」の烙印を押されたからね。
4回目につづく>>
梶谷隆幸(かじたに・たかゆき)/1988年8月28日生まれ。島根県出身。開星高から2006年の高校生ドラフト3巡目で横浜ベイスターズから指名を受け入団。13年に16本塁打を放ちブレイク。14年に39盗塁をマークして、盗塁王のタイトルを獲得。20年オフにFA宣言し、巨人に移籍。21年は開幕からレギュラーとして結果を出していたが、7月に死球を受けて右手甲を骨折。9月には椎間板ヘルニアの手術を受けるなど、61試合に出場にとどまった。24年シーズンは開幕スタメンを果たし、ライト守備であわや逆転のピンチを救う超ファインプレーで勝利に貢献するも、ケガには勝てず現役引退を決断した。
高森勇旗(たかもり・ゆうき)/1988年5月18日生まれ。富山県出身。中京高(岐阜)から2006年の高校生ドラフト4巡目で横浜ベイスターズから指名を受け入団。09年にイースタン最多安打を記録し、プロ初安打も記録。12年に戦力外通告を受け引退。翌年よりデータアナリスト、ライター、イベントディレクターを経て、現在は企業のエグゼクティブコーチングを行なう株式会社HERO MAKERS.の代表取締役を務め、一部上場企業を含む30社以上の企業変革に関わる。著者に、『俺たちの戦力外通告』(Wedge出版)、『降伏論』(日経BP)、『勇気が出る旅』(ワニ・プラス)がある。