
西部謙司が考察 サッカースターのセオリー
第50回 ルカ・モドリッチ
日々進化する現代サッカーの厳しさのなかで、トップクラスの選手たちはどのように生き抜いているのか。サッカー戦術、プレー分析の第一人者、ライターの西部謙司氏が考察します。
今回は、レアル・マドリード退団が発表されたルカ・モドリッチを取り上げます。天才しかいないトップレベルのチームで、13シーズンもプレーできたのはなぜでしょうか。
【13シーズンで28タイトル。CL優勝6回】
ルカ・モドリッチのレアル・マドリード退団が発表された。すでに39歳なので、契約更新なしはそれほど意外ではないはずなのだが、唐突な感じもした。なぜか来季もまだプレーするものと思い込んでいた。
2012年夏にトッテナムからレアル・マドリードに移籍。そこからの13シーズンで28タイトルを獲得している。なかでもチャンピオンズリーグ(CL)優勝6回はとてつもない。
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昨年10月のセルタ戦でクラブ最年長出場記録を更新。39歳40日だった。今年1月のバレンシア戦では39歳116日の最年長ゴールも記録。ちなみにそれまでの記録保持者はどちらもフェレンツ・プスカシュである。
プスカシュは1950〜60年代に活躍したハンガリー人。当時のスーパースターだった。年間最優秀得点賞にその名が冠されているとおりのゴールゲッター。レアル・マドリードの10番はモドリッチとの共通点だが、それ以外にも少し似ているところがある。
プスカシュがレアル・マドリードに加入した当時、チームの中心はアルフレッド・ディ・ステファノだった。そしてプスカシュとディ・ステファノはプレースタイルがまる被りしていた。ブラジル代表のプレーメーカー、ジジはディ・ステファノに追い出されたとも言われている。プスカシュとディ・ステファノはゴールゲッター兼プレーメーカーという点で、ジジとディ・ステファノ以上に特徴が似ていた。
ところが、プスカシュとディ・ステファノに確執はなく、それどころかサッカー史上屈指のコンビになっていった。きっかけはふたりが得点王争いで並んでいた最終節、得点チャンスにプスカシュがディ・ステファノにパスを出して得点王を譲ったからだという。その後、プスカシュは4回も得点王になった。
モドリッチがレアル・マドリーに移籍して3シーズン目、トニ・クロースが加入した。モドリッチとクロースはどちらもプレーメーカー、プスカシュとディ・ステファノを思わせる被り方である。ただ、こちらも非常に良好な関係を築き、その後5回のCL優勝をもたらす原動力となった。
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【モドリッチとクロースの稀有な共存共栄】
モドリッチとクロースはいずれもチームの頭脳となるMFだった。
かつて、司令塔の共存は難しいとされていた。レアル・マドリードでのジジとディ・ステファノがそうだったし、1970年代イタリア代表でのジャンニ・リベラとサンドロ・マッツォーラ、西ドイツ代表のボルフガング・オベラートとギュンター・ネッツァーもしかり。共存は成功していない。
プスカシュとディ・ステファノが例外的にうまくいったのは、プスカシュがゴールゲッター寄りにプレーの比重を移し、プレーメーカー寄りになっていたディ・ステファノとのバランスをとったからだった。
モドリッチとクロースの場合、もっとシンプルな形で解決している。プレーエリアを左右で棲み分けていた。モドリッチが右側、クロースは左側。主な仕事場を分け、互いの領域を尊重してプレーした。ふたりが近づいて連係するより、離れて分業化したのはチームにとっても効率的だったと言える。
モドリッチとクロースではやや特徴が違う。モドリッチのほうがより前方でプレーするタイプで、クロースは後方から味方を動かす。どちらも左右でDFからボールを預かって前線につなげ、自らもフィニッシュに関わっていくのは同じなのだが、得意とする領域が少し違っていた。クロースが左の深い位置で関与し、そこから一気にサイドチェンジ。前進した右側でモドリッチが関わる。ふたりの特徴を発揮しやすい、うまい具合の組み合わせになっていた。
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このふたりの背後を守備力の高いカゼミーロが預かる。モドリッチ、クロース、カゼミーロの関係性は完璧で、3人の緻密なコンビネーションというより関係性だけで抜群の安定感をもたらし、この3人がレアル・マドリードのエンジンになっていた。
スター選手を獲得してはバランスの構築に苦しむのは、もはやレアル・マドリードの伝統と言っていい。今季もキリアン・エムバペとヴィニシウス・ジュニオールのバランスが難しかった。その点でモドリッチとクロースは、例外的に何の問題もなく自然に共存共栄となった稀有な事例だったのかもしれない。
【ただの天才ではない】
モドリッチが生まれたのは旧ユーゴスラビア(現クロアチア)のザダル郊外のモドリッチ村というのは有名な話だろう。クロアチア紛争でザダルへ移住したのが6歳、それから18歳まで難民生活を送っていた。
NKザダルのユースチームからディナモ・ザグレブへ移り、そこで10年契約を結んで難民生活が終了した。モドリッチ18歳の時だ。
すぐにボスニアリーグのモスタルへ貸し出され、そこではキャプテンを任されている。荒れたフィールドと荒っぽいプレーのリーグで揉まれた経験は大きかったようだ。いかに才能に恵まれていても、プロとして開花するにはメンタルの強さは欠かせない。小柄なモドリッチだったが、ここで強靭な肉体と鋼のメンタルを手に入れた。
レアル・マドリードで13シーズンもプレーできたのも、気持ちの強さがあったからに違いない。負傷もあり、最初からうまくいっていたわけでもなかった。しかし、多大なプレッシャー、強力なライバルとの競争に打ち勝ってきた。天才しかいないチームでリーダーであり続けた。
ザグレブでプロ契約を結んですぐにボスニアへ貸し出されたのは、ザグレブにはニコ・クラニチャールという同世代の天才がいたから。ザグレブへ戻ったのはクラニチャールが移籍していなくなったタイミングである。当時はクラニチャールのほうが評価は高かったわけだ。どちらも天才だが、ボスニアから戻ったモドリッチはずっと運動量が多く、守備でも貢献できるタフな選手になっていた。
才能があっても発揮できない選手がいる。才能だけの選手もいる。一方で、才能に恵まれなくても意志と努力で高みに上る人もいる。モドリッチは才能に恵まれながら、そうでない選手が持つ力も身に着けていた。ただの天才でなかったところに凄みがあった。
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