
語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第12回】松田努
(草加高→関東学院大→東芝府中)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
第12回で取り上げる選手は、襟足の長い特徴的な髪型がトレードマーク。馬力のあるパワフルなランと献身的なタックルで、無名校から桜のジャージーまで駆け上がった松田努だ。42歳まで現役ラガーマンとして奮闘し、ファンから「中年の星」としても愛されたFBだった。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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55歳になった松田努は現在、ラグビー女子代表CTB/WTB/FB松田凛日(りんか/23歳/東京山九フェニックス)の父としてメディアに登場する機会も増えた。
「走り方とたたずまいが、凛日に似ていると言われます(笑)」
娘と比べられて照れ笑いを浮かべる父の努は、ラグビー選手として超一流だった。
松田が最初に大きなインパクトをラグビーファンに与えたのは、やはり関東学院大時代だろう。1997年度から2000年代に大学選手権優勝6回を誇り、全国屈指の強豪となったチームの礎(いしずえ)を築いたひとりとして、松田の存在は知られる。
大学ラグビー界の名伯楽・春口廣監督にBKとしての才能を見いだされて、大学1年時にFL/No.8から転向。それが松田にとって、ラグビー人生のターニングポイントとなった。
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大学2年時に関東学院大は関東リーグ戦で初めて優勝し、大学3年時(1991年度)と4年時(1992年度)は関東リーグ戦2位ながら大学選手権にも出場。見事にベスト4進出を果たし、国立競技場のピッチに立った。
【FBに転向して才能が開花】
1991年度の準決勝は早稲田大に4-25、1992年度の準決勝は明治大に9-15と、それぞれ惜しくも敗れた。しかし、関東学院大が確実に強豪チームの階段を登っていることを知らしめた。
「(早稲田大・明治大と対戦した)5万人の国立競技場はすごい世界でした! 名門を倒して、ひと泡吹かせてやろうという思いでプレーしました。勝てなかったですが、そのチャレンジは次につながった。充実していたし、成長できて楽しかった」
大学時代を振り返った松田は、懐かしそうに目を細めた。
松田のトレードマークでもある襟足の長い髪型は、大学4年時に生まれたという。
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「早稲田大や明治大に負けないように目立つことをしようと、みんなで髪の毛を伸ばし始めました。ところが僕だけが最後まで切ることができず、おじさんになっても伸ばしたまま(苦笑)」
小学〜中学時代の松田は、甲子園出場・プロ野球選手を夢見る野球少年だった。ところが中学2年の時、テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』を見て大きな影響を受け、高校からラグビーを始めようと決心する。
進学したのは、埼玉の草加高校。通える範囲でラグビー部のある学校を選んだ。しかし高校ラグビーにおいて、草加高はまったくの無名だった。
松田はハードワークとタックルに長けたFL/No.8として、経験者のいないチームを引っ張った。高校3年時は埼玉県決勝まで勝ち進む。だが、最後は負けて花園出場の夢は叶わなかった。
高校卒業後、松田は関東学院大に入学する。高校の1学年上の先輩が在籍し、練習に参加したことがきっかけだった。前述のとおり、FBに転向した松田はすぐに頭角を現し、1年生ながらチームの中心選手となる。
「ほかの強豪大学と違って、当時の関東学院大は上下関係がまったくなく、ラグビーを自由にやらせてもらえたので楽しくできました」
27年間の現役生活のなかで、松田が最も印象に残っている試合のひとつは大学1年生の時。交流戦で早稲田大と対戦し、グラウンド上で対面したFB今泉清(3年)のプレーに衝撃を受けたという。
「僕がまだ未熟だったこともありますが、一番インパクトを受けました」
【未練タラタラで引退を決意】
そして大学3年生の時には、松田に大きなサプライズが待っていた。1991年8月、宿澤広朗監督の率いる日本代表の菅平合宿に招集され、さらにCTB元木由記雄(明治大学2年)とともに大学生ながら10月開催の1991年ワールドカップメンバーに選出されたのである。
「うれしさよりも『俺でいいのかよ......』という不安のほうが大きかった」
試合に出場する機会はなかったが、21歳という若さで貴重な経験を積むことができた。
「キャプテンだったスーパースターの平尾誠二さんを間近に見られて、一緒にやれたことは自信になりました。次のワールドカップには出てやろうと思いましたね」
その言葉どおり、松田は4年後の1995年大会では初めてワールドカップのピッチに立ち、1999年大会、2003年大会と計4度も大舞台を経験。日本代表キャップは43も積み上げた。
また、松田のプレーと言えば、東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)での勇姿を覚えているファンも多いはずだ。
関東学院大から入団して、東芝府中でひと筋20年。競馬好きで「府中競馬場が近かったから(笑)」という冗談混じりの入社理由はさておき、東芝の栄冠を築いてきた功労者のひとりだ。
日本選手権は2度の3連覇で優勝6回、トップリーグは歴代最多タイの優勝5回。すべてのタイトル奪取に貢献した。
そして、40歳を過ぎても現役選手として試合に出場し続けた姿も印象深い。41歳9カ月でトップリーグ最年長トライ記録を更新した「中年の星」でもあった。
30歳を過ぎたあたりで、コーチ就任への打診もあったという。しかし、松田はそのオファーを断って現役続行を決断。体のケアやサプリメントの補給など、ほとんどこだわらずに自然体でプレーを続けていたのだから驚きだ。
2013年、松田は「まだ現役を続けたかった」のだが、チームから戦力外通告を受けたことで引退を決意。本人いわく「未練タラタラ」でブーツを脱いだ。
【少しだけ襟足は短くなった】
現役引退後は、東芝ブレイブルーパス東京のアカデミーで子どもたちを指導し、娘・凛日の成長にともなって女子選手だけのスクール「松田塾」を開校。それが現在の女子ラグビーチーム「ブレイブルーヴ」の誕生につながっている。
「ラグビーから学んだことや、楽しさ、厳しさを、子どもたちに教えていきたい」
現役時代より少しだけ襟足が短くなった松田は、今でも現役時代と同じように東芝府中のグラウンドで汗を流している。