2025年5月25日、午後1時32分。多くの報道陣や鉄道ファンが見守る中、西武新宿駅ホームに長年小田急電鉄で活躍した8000形車両が静かに入線した。この車両は、2024年5月に西武鉄道が小田急電鉄から譲受したもの。25日は小田急から西武への「引継ぎ式」が執り行われるとともに、事前に申し込んだ乗客を対象とする乗車・撮影会が行われた。今後は、西武8000系として国分寺線で運行される。
【写真5枚】小田急から譲受された「サステナ車両」。定期列車としての営業開始は2025年5月31日(筆者撮影)
●「箱根山戦争」という泥沼の争い
それにしてもなぜ、小田急電鉄の車両が西武鉄道に譲受されたのか。実は西武鉄道は、2030年度を目標に省エネルギーで環境負荷の少ないVVVF化(VVVFインバータ制御車両の導入)100パーセントを達成するため、新造車両だけでなく、他社からの譲受車両「サステナ車両」を並行して導入する取り組みを進めている。今回の小田急8000形の導入は、このサステナ車両導入の第一弾となるもので、今後は東急電鉄の9000系の導入も予定している。
サステナ車両の導入について西武鉄道の小川克弘車両部長は「安全上、必要な装置の取り換えなどは行ったが、継続して使えるものはしっかりと活用するなどサステナブルな改造を意識した」とする。一方、車両改造工事を担当した小田急エンジニアリングの岩﨑佳之社長は「8000形は、長い間小田急線の安全と快適をけん引してきた名車。サステナ車両として生まれ変わり、これからも(西武鉄道で)活躍することをうれしく思う」とコメントした。
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ところで、小田急電鉄の車両が西武鉄道の線路を走るというのは、ある世代以上の人にとって、特別な感慨があるはずだ。というのも、今から半世紀以上前、西武グループと、小田急・東急グループの間で、「箱根山戦争」と呼ばれる激しい争いが繰り広げられていたからだ。その「箱根山戦争」も今は昔、すでに知らない世代も多く、あらためてこの「戦争」について書き記すのも意味のないことではないだろう。
「箱根山戦争」は西武グループ創業者の堤康次郎と東急グループ創業者の五島慶太との間の争いだった。堤は1889(明治22)年、滋賀県の貧しい農家の生まれ。田畑を担保に金を工面して上京し、早稲田大学に入学。在学中に株で大もうけし、その金を元手に鉄工所の経営、雑誌社の社長、真珠の養殖などさまざまな事業に手を出すが、いずれも失敗。思い詰めた末に「世の中のためになる事業をしよう」と、未開発地を切り開いて別荘地を開発する事業を始めた。
軽井沢の千ヶ滝から別荘地開発に踏みだし、1919(大正8)年には箱根の強羅に10万坪の土地を取得。翌年3月に箱根土地(後のコクド、2006年にプリンスホテルに吸収)を設立し、本格的に箱根に進出した。その後、芦ノ湖の遊覧船の会社組織化、静岡県下で鉄道事業を運営していた駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の買収などを進め、さらに箱根に自動車専用有料道路を建設するなど交通事業の拡張・近代化を進めた。
箱根以外では東京の目白文化村などの郊外住宅や、大泉学園・小平・国立の学園都市などの開発を手掛け、武蔵野鉄道(西武池袋線の前身)、旧・西武鉄道(西武新宿線の前身)の社長にも就任(両社は戦後に統合)。また36歳で衆議院議員選挙に初当選し、政界進出も果たしている。
一方の五島慶太は1882(明治15)年、長野県の農家に生まれた。苦学の末に東京高等師範学校(当時)を経て東京帝大に入学し、卒業後は官界へ。農商務省から鉄道院(後の鉄道省・国鉄)へ転じ、最終的に監督局総務課長となるが、「官吏というものは、人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いて、ようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならないものだ。(中略)いかにもつまらない」(自叙伝『七十年の人生』要書房刊)と言い、38歳で実業界への転身を決意する。
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五島はまず、渋谷―横浜平沼間の本線(現・東横線に相当)と蒲田支線(現・東急多摩川線に相当)の敷設免許を持つ、武蔵電鉄の常務に就任。その後、鉄道院時代に知遇を得た阪急電鉄創業者の小林一三に請われ、現・目黒線と大井町線に相当する路線の敷設免許を持っていた目蒲電鉄の専務も兼任し、鉄道建設を進めた。以後、昭和初期の財界不況に苦しみながら、池上電鉄(現・池上線)、玉川電鉄(現・田園都市線の一部に相当)など他社を次々と買収し、鉄道業界で大きな地位を築く。だが、その手法が強引だったため、「強盗慶太」の異名がついた。
●西武による“小田急乗っ取り”の画策も
堤は五島より7歳年下だったが、実業界においては先輩であり、箱根に先に地盤を築いたのも堤だった。堤の自叙伝『苦闘三十年』(三康文化研究所刊)によれば、「五島慶太君を箱根につれてきたのは私である」という。具体的な経緯は次の通りだ。
箱根登山鉄道(現・小田急箱根)はもともと、小田原電気鉄道という小資本の会社だったが、関東大震災の被災などで経営難に陥る。これを救済したのが関西に拠点を持つ日本電力だった。同社は小田原電鉄を合併後、間もなく電力部門だけを残し、鉄道部門は別会社として出資・独立させた。これが箱根登山鉄道である。その後、戦時中に電力事業は国家統制の対象となり、日本電力も日本発送電という半官半民の特殊企業に吸収され、箱根登山鉄道を手放すことになった。
そこで、その譲渡先として堤に声がかかったのだが、もし箱根登山鉄道が堤の傘下に入れば「ほとんど箱根の交通を一人で持つようなことになる。これは大衆におもしろからぬ印象を与える」とし、堤は五島を推薦した。こうして箱根登山鉄道は東急の傘下に入る。この話からも分かるように、当初、堤と五島の関係は良好だった。ところが五島が登山鉄道と一緒に取得した旧・日本電力系の強羅ホテルを、戦後すぐに国際興業創業者の小佐野賢治に売却したことから、2人の間に溝ができる。「一緒に箱根の観光に投資しようと言ったのに約束が違う」と堤がへそを曲げたのだ。
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とはいえ、戦後、東急(戦時統制下で東急・小田急・京王・京急が合同した“大東急”)から独立した小田急の傘下に入った箱根登山鉄道は、東側から箱根山へ登るルート、一方、西武系の駿豆鉄道は熱海・三島方面、つまり西側から登るルートを押さえてすみ分けができており、当初は両者がぶつかることはなかった。ではなぜ「戦争」になったのか。それはやはり、両者ともに自系列の交通手段だけで箱根を制覇したかったからだ。
先に動いたのは西武系の駿豆鉄道で、1947(昭和22)年9月、それまで小田急系の箱根登山バス(当時は箱根登山鉄道のバス部門)が独占運行してきた小涌谷―小田原間へのバス乗り入れ免許を申請した。これが認められれば、西武は熱海・三島から箱根を経由して小田原まで、自社系バスのみによる一貫輸送が実現し、さらに当時すでに傘下に収めていた駿豆鉄道の大雄山線(小田原―大雄山)までを結ぶことができる。だが、同路線は箱根登山にとっては「生命線ともいうべきもの」(『箱根登山鉄道のあゆみ』箱根登山鉄道編)であり、他社バスの乗り入れは、受け入れがたいものだった。
箱根登山はこれに対抗して、駿豆の有料道路・早雲山線(小涌谷−早雲山−大涌谷−湖尻)への自社バスの乗り入れを申請。受理されれば、登山電車、ケーブルカー、バス、遊覧船を乗り継いで、小田急系の乗り物のみでの箱根周遊が可能になる。だが、この有料道路は「巨費を投じ、二十八キロに及ぶ私有道路を、十三年間もかかって苦心して私(堤)が建設した」(『苦闘三十年』)もの。法令上は一般自動車道とはいえ堤の心情としては私有道路に等しく、「免許証一本で、権利を半分とられてしまうなど無理無体」と怒りに火が付いた。
その後、それまで西武系が独占していた芦ノ湖の遊覧船事業に小田急系資本の箱根観光船が進出。大型船を就航させると、それへの対抗措置として、駿豆が有料道路・早雲山線の入口に遮断機を設置し、箱根登山バス乗り入れを実力で阻止するという事件が発生。争いは法廷へ持ち込まれるとともに、兜町へも飛び火。西武が小田急株を買い進め、1957(昭和32)年6月頃までに127万株を取得。一時は「西武による小田急乗っ取りが現実味を帯びた」とまで囁かれ、時の運輸大臣が調停に乗り出す事態となった。
●雪解けからの連携、今も残る課題
このような泥沼の争いは、小田急側の秘策の実行により沈静化に向かった。バスの進入を阻止された有料道路と並行して、ロープウェイ(早雲山―大涌谷―桃源台)を建設する作戦に出たのだ。陸がダメなら空を行けばいいというわけだ。このロープウェイは1960(昭和35)年9月に開業。これにより小田急系の交通機関だけで箱根を周遊できるようになった。また、西武系の有料道路は1961(昭和36)年に湖畔線(湖尻−元箱根)と早雲山線の2路線が神奈川県道として開放された。結局、長い争いの末に得たものは、小田急側のほうがはるかに大きかったといえる。
そして、この間に五島が1959(昭和34)年8月に病没。堤は五島の葬儀に出席せず「相手が死のうと葬式が出ようと、このわしの憎しみを打ち消すわけにはいかない。心にもないことをしたら、むこうだって決して愉快じゃあるまい」(『新潮45』2006年6月)と言い放っている。その堤も5年後の1964(昭和39)年4月、心筋梗塞により急逝した。
「戦争」が最終的に終結したのは1968(昭和43)年のこと。五島の長男で東急電鉄を継いだ五島昇が、その前年、東名高速道路の開通に向けて東名沿線の私鉄12社を集め、東名急行バス会社を設立。その高速バス路線の調整に当たり、「まずは西武と小田急のシコリを解くことが必要」であるとし、康次郎の三男で当時、伊豆箱根鉄道社長などを務めていた堤義明と小田急の安藤社長を銀座東急ホテルに招き、和平をあっせんしたのだ。
その後の雪解けは急速に進み、両者は会談を重ね、1968(昭和43)年12月に東京プリンスホテルで箱根登山の柴田吟三社長、東海自動車の鈴木幸夫社長を加えた4社長が会合し、今後は箱根のバス路線の相互乗り入れについて協調することを確認。協定書に調印し、約20年続いた箱根山戦争がついに終結を見た。
2000年代に入ると、小田急側からの事業提携申し入れを機に、両グループの連携は急速に進む。背景には1991年の年間2200万人をピークに箱根の観光客数が減少傾向にあったことがある。2004年4月に小田急箱根高速バスが西武系の施設である箱根園に乗り入れたのを皮切りに、小田急系の「箱根フリーパス」提示による西武系施設での割引実施、バス停名やバス路線系統のナンバリングの統一などが進められた。最近では2015年の大涌谷噴火によるロープウェイ不通時や、2019年の台風被害による箱根登山鉄道不通時の代替バス運行に、伊豆箱根バスが一役買ったのは記憶に新しい。
このような経緯を踏まえると、西武の線路を小田急や東急の車両が走るのは、非常に感慨深い。しかし、箱根に目を向けると箱根観光の長年の課題であるフリーパスの統合問題はいまだに解決しておらず、今も、小田急の「箱根フリーパス」では伊豆箱根バスに乗車できず、逆に伊豆箱根のフリーパスも小田急系列に対応していない不便さが残っている。ユーザー目線で見れば、今後はこうしたサービス面の連携も、一段と進めてほしい。
筆者プロフィール:森川 天喜(もりかわ あき)
旅行・鉄道作家、ジャーナリスト。
現在、神奈川県観光協会理事、日本ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)、『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)など。
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