【部活やろうぜ!】Bリーグ・篠山竜青が強豪・北陸高校に進学を決めた理由「はて? 福井ってどこ?」

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2025年05月30日 10:10  webスポルティーバ

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学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは今も昔も変わらない。この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、いまに生きていることを聞く──。部活やろうぜ!

連載:「部活やろうぜ!」
バスケ・篠山竜青インタビュー:1回目(全3回)

【将来のトップリーグを目指してとにかく強いチームへ】

 川崎ブレイブサンダースのポイントガードとして、Bリーグの前身JBL・NBL時代から長きにわたり活躍し続ける篠山竜青。Bリーグオールスターではお祭り男の本領を発揮し、日本代表では主将として東京五輪出場権獲得に大きく貢献するなど、名実ともに日本男子バスケットボールの歴史を代表する選手だ。トップリーグの選手として15年目を迎える来季も川崎で迎えることが発表された。

 その篠山が自らの原点と振り返るのが、北陸高校(福井)時代である。同校の長い歴史においては、佐古賢一、五十嵐圭(現・新潟アルビレックスBB)、石崎巧、西村文男(現・千葉ジェッツ)ら日本代表でも活躍したポイントガードを多数輩出。篠山もその系譜を継ぐことになるが、まずは北陸高校に進学を決めた経緯から聞いてみた。

――篠山選手は中学時代に全国中学校大会への出場はしていませんが、横浜市立旭中学では神奈川県内で知られる選手になっていました。そのなかで、福井県にある全国トップクラスの北陸高校に進学した経緯を教えてください。

篠山 神奈川県の高校では当時、湘南工大附、桐光学園、桐蔭学園など、大会ごとに代表校が変わるような激戦の状況でした。ただ、全国レベルではそこまで上位に行くチームはなかったので、あくまで感覚ですけど、県内の学校なら1年生から試合に出られるという甘い考えを持っていました。

 僕自身は中学時代に当時のトップリーグだったJBL(Bリーグの前身)を目標にしていたので、関東の大学1部校に行かなければいけない、そのためには高校でも全国の強豪校へとうっすらと考えていました。うちはきょうだい(8歳上の兄、5歳上の姉)もバスケットをやっていた影響もあり、母からも「JBLを目指すなら県外の高校に行きなさい」と言われるくらいでした。

 ただ、能代工業(秋田)、福岡大大濠(福岡)、洛南(京都)など、全国トップレベルの高校には自分と同じポジションの同級生が進学するという情報が耳に入ってきました。さて、どうしたものかと思っていたところに、少し複雑なんですけど、知り合いの知り合いの方が僕のことを北陸の津田(洋道)先生に勧めてくださって、話をいただいたので、ふたつ返事で決めました。

――神奈川県から福井県に行くことに、抵抗はなかったのですか。

篠山 それはなかったですね。ただ、行くって返事をしたあとに、冷静になってみると、はて? 福井ってどこにあるのか? みたいな(笑)。とにかく強い高校に行きたかったので、勢いでしたよね。バスケ専門誌で情報を得るのは好きだったので、みんな坊主で黄色のユニホームの強いチームであることは、もちろん知っていました。『SLAM DUNK』のなかの堀高校のモデルは間違いなく北陸高校だろう、みたいな感じでしたね。

――2000年代前半の北陸高校は全国大会トップレベルの強豪校ですが、実際に行った時の第一印象は覚えていますか。

篠山 とにかくデカかったんです、みんなが。北陸高は練習の最初に3列に並んでランニングするんですけど、背の高い順に前から並んで走るんです。中国人の留学生も含めて3人、いや6人ぐらいはもう2m近い選手で。2m近い人間が動いているのを間近で見る機会なんてそれまでなかったので、最初の練習見学の時に初めて目視したというか。このなかでやるのかっていう感覚の衝撃は、大きかったです。

――えらいところに来てしまったな、と。

篠山 というより、ただ、やるしかない、という覚悟は決まっていました。中学の担任の先生は「県外に挑戦して駄目だったら帰ってくればいいのよ」みたいに優しい言葉をかけてくれましたけど、母親からは「途中で帰ってきても、家の鍵、開けないから」と言われていたので(笑)、今さら不安になっても仕方ないという感じでした。

――今季もBリーグでプレーしている同期の多嶋朝飛選手(仙台89ERS)も一緒に入学しています。

篠山 僕らの代は全中に出ている選手がひとりもいなかったんです。2000年代前半の北陸は全国大会でベスト4が当たり前だったので、本当に頑張らなきゃいけなかった。ただ逆に言うと、ここで頑張れば、(JBLへの)チャンスがあるという感覚でいました。

【日々の練習から全国トップレベルを体感】

 篠山が入学した頃の北陸高校は、同校を全国の強豪に育て上げた津田先生がアシスタント役となり、主な指導は久井茂稔先生が担っていた。津田先生の指導を受けた元日本代表選手は真剣な表情で「3年間で言われたことは......走れ、だけですね」と冗談とも本気ともつかぬエピソードを教えてくれたことあるが、久井先生は実戦を想定した練習を中心に組んでいたという。全国から集まった優秀な選手が集うチームだからこその狙いがあり、篠山自身は「今の自分につながる練習だった」と振り返る。

――練習はどんな感じだったのでしょうか。

篠山 1年生の時は、本当にレベルの違いを感じました。オールコート(リングサイドのコートの端から端まで)で行なう1対1では、3年生のスタートで試合に出ているような人と一緒にペアを組んでやるんですけど、本当にボールをコートの真ん中まで運べない。反対側にたどり着くまでに5回ぐらいボールを取られていましたね。先輩方のディフェンスの嗅覚、技術というか足腰の強さも含めて、レベルの違いを日々感じさせてもらいながらやっていました。

 なかなかしんどかったです。でも、先輩から「お前のそのドリブル、バレバレだよ」とか、「そのフェイクじゃ、引っかからないよ」と言われながらやるのがやっぱり刺激的で本当に楽しかった。それに、ありがたかったですよね。

 何かを教えてもらったというより、そうした先輩たちと日々の練習で対峙することで日本のトップレベルの凄さを感じられた。それがスタンダードだったので、自然と自分が成長していったと思います。

 練習全体では、本当に5対5のゲーム形式が中心でした。最初にみんなで走って、フットワーク、スリーメン(3人一組でオールコートをパスやドリブルでつなぎシュートを決める)やったら、あとはもうずっと5対5です。福岡第一高(福岡)のように、体力的にきつい名物ランメニューのようなものはなかったです。

――全国大会のレベルの練習のなかで、選手が学んでいく。

篠山 はい。そのなかで、たまにドリブルなし、ドリブル2回までと条件付きで行なったりしますが、いずれにしても5対5でやり込むことが多かった。それって、すごく今の自分にも生きていると実感していますし、ポイントガードとしての基本の考え方にもつながっているところがあるんじゃないかなって思います。

――個々の技術を磨くことが大切でも、やはり実戦でどう生かすか。

篠山 今の時代、YouTubeなどでいろんなハイライトを見ることも、ワークアウトを見ることもできます。1対1の駆け引きやドリブルスキルでは、僕なんかよりよっぽど上手な中高生プレーヤーもいると思います。ただ、そうした個人のスキルを5対5のなかで生かす、生かせないというのが、いい選手になれるかどうかの分かれ道になると思っています。

 そういった意味で振り返ると、生活面を含めた先生の指導ももちろんですが、強豪校として歴史をつないできた先輩と切磋琢磨、競争しながら5対5でやり込めた高校時代の経験はその後の自分につながっていったと思います。

つづく

Profile
しのやま・りゅうせい/1988年7月20日生まれ、神奈川県出身。ポイントガード。横浜市立旭中(神奈川)−北陸高(福井)−日本大−東芝(JBL)−東芝神奈川(NBL)−川崎ブレイブサンダース(Bリーグ)。身長178cm、体重75kg。左利き。北陸高時代は1年時のウインターカップにベンチ入りし、2年時から主力として活躍。3年時にはインターハイ優勝、ウインターカップ準優勝の原動力となった。卒業後、日本大を経て、2011年に川崎ブレイブサンダースの前身である東芝ブレイブサンダースに加入。以降、同チームひと筋でプレーし、来季で15年目を迎える。これまで世代別の日本代表としても活躍。2016年から2019年はトップの日本代表としてプレーし、東京五輪出場権獲得に大きく貢献した。また明るいキャラクターでオールスターゲームの代名詞的存在となるなど、多くのファンを魅了している。今季は自身初のBリーグ・フリースロー成功率リーダー(91.7%)となった。

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