「世界で最も美しい美術館」で現代美術の旅へ。坂茂設計の下瀬美術館『周辺・開発・状況』展レビュー

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2025年05月30日 18:10  CINRA.NET

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Text by 中島晴矢
Text by 今川彩香

「世界で最も美しい美術館」として、ユネスコの『ベルサイユ賞』を受賞した下瀬美術館(広島県大竹市)。2023年にオープンした同館で、初の現代美術展が開かれている。そのタイトルは、『周辺・開発・状況 -現代美術の事情と地勢-』。

副題が示す通り、大竹市やその周辺の地勢をリサーチして落とし込んだ作品があったり、美術館建築そのものとのつながりを感じさせる作品があったり。日本、海外拠点のアーティスト9組が入り混じって構成される本展は、一見バラバラの作品が混合しているように見えて、幾重もの文脈でつながっている。

今回、本展の内容だけではなく、美術館「周辺」の「状況」もふまえて『周辺・開発・状況』展を紐解くのは、自身もアーティストとして活動する中島晴矢。本展を考えるにあたって重要な「環境」というキーワードの解説からはじまり、羽田空港から下瀬美術館へ向かうまでに歩いたまちの情景や坂 茂による美術館建築もふまえつつ、本展をレビューしていく。

CINRAでは、本展チーフキュレーターである齋藤恵汰にもインタビューを実施。展覧会世界の理解を深めるといっそう面白いので、ぜひ合わせて読んでほしい。

下瀬美術館で開催中の『周辺・開発・状況』展が話題だ。「現代美術の事情と地勢」という副題を掲げる本展は、2023年にオープンした同館初の現代美術展として注目を集めている。

この展覧会を読み解くには、いくつかのレイヤーを確認する必要がある。なぜなら本展は基本的にリサーチ・ベースド(※)でつくられているからだ。そのためキュレーションや作品のみならず、美術館建築や周辺の地域、さらに東アジアの状況といった、展示を取り巻く「環境」が関係してくることになる。

チーフキュレーターを務める齋藤恵汰が、「『環境』という概念の見通しをよくするために用いたのが、三つの単語『周辺(=Ambient)』『開発(=Environment)』『状況(=Circumstances)』」だと述べるように、本展の散文的なタイトルは、広義の「環境」という概念に集約される。ただ、ここで言う「環境」は、いま私たちが思い浮かべるニュアンスとは若干異なっている。それはいわゆる「エコロジー」を意味するのではなく、絵画や彫刻、あるいは建築といった芸術の諸ジャンルを越境する、後のインスタレーションのような概念だった。

美術批評家の椹木野衣が『戦争と万博』(美術出版社、2005年)で紐解くように、「環境(エンバイラメント)」というキーワードを日本に広めたのは、メタボリズム(※1)の建築家で都市計画家の浅田孝である。『環境開発論』(1971年)で浅田が打ち出し、脱領域性を掲げたこの概念は、やがて美術界にも波及した。ここで言う「環境」とは、ジャンルの壁を壊し、混沌とした「場」を創出して鑑賞者が巻き込まれるような体験を指す。美術批評家の東野芳明も『空間から環境へ』展(※2)に際して「作品を、鑑賞者と無関係に自立した存在と考えずに、見る者を作品の作り出す空間のなかにひきこみ、エンバイラメント(環境)を作り出そうとする意識」だと書いているように、当時最も重要なターム(※3)の一つだったのは間違いない。

その意味で『周辺・開発・状況』展は、浅田の言う「環境」というモノサシを当てはめると見通しがよくなるはずだ。要するに、本展ではどのように芸術の諸ジャンルを横断し、観客を引き込むような空間がつくられているのだろうか?

その問いは必然的に、都市、建築、美術、工芸、国家といった様々な文脈をまたいでいくことになる。もちろん、それは単なる「環境」概念のノスタルジックな反復ではなく、より現代的な多義性が畳み込まれたキュレーションのテーマとして浮かび上がっていた。

下瀬美術館提供写真

上記を踏まえたうえで、まずは下瀬美術館の「周辺」をたどっていこう。興味深いのは、美術館の立地する広島県大竹市だ。山口県との県境に位置する、広島湾に面した小さな町である。

大竹駅に降り立つと、そこは工業都市だった。小刻みな山並みを背景に、ケムリを吐き出す煙突が何本も空を突いている。こうした景色を見て、美術館を開設した丸井産業株式会社が、建築金物のメーカーであることを得心した。下瀬美術館は、創業家である下瀬家がコレクションしてきた、エミール・ガレの西洋工芸などを収蔵・公開するミュージアムとしてオープンしている。また大竹市は、江戸時代からこの地に伝わる「大竹手すき和紙」を使った、手描き鯉のぼりの生産地だった。すなわちそこは、工業だけではなく伝統工芸の町でもあるのだ。

下瀬美術館のテラスから見える工業地帯

大竹駅からバスに乗り、小高い山を越えるとすぐ海辺に出る。沿岸部には、ご当地ショッピングモールや広大なホームセンター、大規模な遊具を有する臨海公園が並ぶ、郊外的なロードサイドの風景が続いていた。穏やかな瀬戸内海の向こうには、左手に厳島神社のある宮島が、右手に工場群が見える。そんな海沿いにたたずむのが、2024年に「世界で最も美しい美術館」としてユネスコの『ベルサイユ賞』を受賞した、建築家・坂 茂の手になる下瀬美術館だ。

建築作品としての下瀬美術館は、実際のところ美しかった。広々とした敷地には、「壁のない家」「紙の家」など10棟のコンセプチュアルなヴィラを擁し、望洋テラスや庭園「エミール・ガレの庭」など、観光スポットとしての設備が行き届いている。エントランス棟では、放射状に梁が延びる傘型の木柱が印象的だ。建物の外壁を全面的に覆うミラーガラスは、内側からはガラス張り、外側からは鏡のように見えるため、瀬戸内の島々や山々が映り込み、「周辺」の風景に溶け込んでいる。

下瀬美術館提供写真

何より目玉となるのは、カラーガラスでつくられた8棟の可動展示室だろう。カラフルなキューブ状の展示室が瀬戸内海とつながるような水盤に浮かんでいる。げんに広島の造船技術を活用した台座により、そのキューブは浮力で水に浮くのだという。そうやって人力で動かすことのできる展示室には、6つの配置パターンがあるそうだから、その選択もキュレーションの一部に含まれていると考えていい。

下瀬美術館提供写真

こうした下瀬美術館には坂 茂の建築哲学がふんだんに盛り込まれている。紙管などの安価で軽量な素材を用いた独自の手法は、可動式であることも含めて、災害時の仮設住宅や避難所の設計で培われたノウハウだ。またそれらは、現代的な意味における「環境(エコロジー)」を意識したサステナブルな建築でもある。それゆえ「世界で最も美しい」という惹句は、表層的なビジュアルの美しさに加えて、社会課題への実践的な取り組みも込みで授けられたフレーズのはずだ。

工業都市、伝統工芸、郊外的風景、広島、瀬戸内海、宮島、坂茂建築……これらの「環境」──「周辺」の「開発」された「状況」──を踏まえて構想された展覧会の内実を見ていこう。付言すれば、そのサイト・スペシフィックなビジョンは、ロバート・スミッソンの『スパイラル・ジェッティ』(※1)に代表されるランド・アート(※2)の影響のもと、シェアハウス・プロジェクト「渋家(シブハウス)」(※3)などを展開してきた齋藤ならではの切り口だろう。 

本展の作品群は可動展示室と企画展示棟にインストールされているが、実は会期スタート直後に撤去されてしまった立体がある。可動展示室の手前に野外設置されていたMADARA MANJIの新作『Horizon』だ。

展示風景より、MADARA MANJI『Horizon』(2025年)撮影:浅野堅一(Kenichi Asano)

記録写真を参照すれば、水盤にそびえる金属製の直方体は、言うまでもなく坂茂の可動展示室にインスパイアされている。しかも、インダストリアルで無機質な外観を有するそれは、海岸沿いの工場街や郊外的な町並みの様相を取り込んでいるようだ。あるいは、室内に展示された作品『Uncovered Cube』に見られるように、杢目金(もくめがね)と呼ばれる伝統工芸の技術を用いるMADARA MANJIの制作手法は、手すき和紙を有する大竹市のヒストリーと地続きだった。

展示風景より、MADARA MANJI『Uncovered Cube #146』(2024年)

それゆえ『Horizon』は、前提条件である展示場所の「環境」に介入し、美術館の内部と外部をつなぐ、いわば蝶番のような役割を担っていたはずだ。筆者が訪れたタイミングでは本作を見ることは叶わなかったが、ハンドアウトにしっかりと概略の記されている本作は、無いということでありありと有る、まるでドーナツの穴のような存在感を示していたと言えるかもしれない。

展示風景より、ムハマド・ゲルリ『いとなみとしての文字「連なり、重なる」』(2025年)の一部

展示風景より、ムハマド・ゲルリ『いとなみとしての文字「奇妙な顔たち」』(2025年)の一部

美術館内に展示された作品にも、この場の地域性は反映されている。インドネシア出身のムハマド・ゲルリは、下瀬美術館を2024年12月に訪れ、地域文化をリサーチし、大竹市の伝統工芸や厳島神社の宗教性について学んだ。そのうえで制作されたのが、大竹手すき和紙とインドネシアのテキスタイルを組み合わせ、神話的な世界観をテーマとしたインスタレーションである。またミャンマー出身で、信楽にもレジデンスしているソー・ユ・ノウェは、仏教神話に登場する女性像にインスピレーションを得た陶芸彫刻を制作した。宮島の神仏の存在と重ね合わせ、島並みの水辺に佇む観音像の風景イメージを展示空間に投影。伝統的な工法に加えて、ジェンダー・アイデンティティや東アジアの文化多様性といった現代的なファクターを織り込み、新たな「観音像」を粘土と陶で焼き上げた。

展示風景より、ソー・ユ・ノウェ『森羅万象の響きを抱くもの「観音 x 蛇神、信楽」』(2025年)

一方、中国人作家のジェン・テンイ(鄭天依)は、被爆都市としての「ヒロシマ」に目を向ける。三部屋を用いた映像、オブジェ、インスタレーションから構成される新作『My Shadow on Your Dust』では、広島の中心部に位置する基町のリサイクルショップで収集した、数々のファウンド・オブジェクトが主なメディウム。倉庫に眠るローカルな文物にフォーカスしつつも、そこには世代や国境を越えたホーントロジー(思い出せない過去に懐かしさを感じる幽霊的存在論)の感覚が宿っている。とはいえ、ブラウン管テレビに原爆ドームが映されたり、冊子『ひろしま』の上にミサイルのプラモデルが添えられたりと、そこには広島という都市の拭い去れない「影」が落とされていた。

展示風景より、鄭天依『あなたの塵に映る私の影』(2025年)の一部

あるいは、こうした展示エリアの風土を起点に、様々な地域を行脚する横断的なツーリズムを敢行したのが、遠藤薫のインスタレーション『とるの・とるたす(旅と回転)』である。主なモチーフとなるのは、江戸時代から宮島に伝わる「御砂焼(おすなやき)」。旅のお守りに厳島神社の「砂」を携え、旅先の土と混ぜてつくった器を返納する風習だ。遠藤はこれにならい、広島から四国、九州、対馬を経由して、朝鮮半島へと至る航路をたどりながら、各地の土を素材として取り入れた陶器を多数生産した。なお本作では、豊臣秀吉の朝鮮出兵を機に日本陶磁器の歴史が始まった史実に着目。かつて柳宗悦は朝鮮の陶器の魅力を訴えたが、言ってみれば、これも遠藤による令和の民藝運動だと考えることができる。

展示風景より、遠藤薫『とるの・とるたす(旅と回転)』(2025年)の一部

展示風景より、遠藤薫『とるの・とるたす(旅と回転)』(2025年)の一部。地図上の赤い線は、遠藤が辿った軌跡だ

このように参加アーティストの多くは、地域の歴史的・文化的な背景を深く読み込んだアウトプットを提示していた。他方で上述の作家に加え、伝統を経由したうえで、現代や未来をまなざす作品が散見されるのも本展のポイントの一つだ。

信楽を拠点として、工芸と美術の文脈を行き来する金理有は、古来の縄文土器や青銅器の造形性と、SF映画やストリートカルチャーなど現代文化の影響をミックスした、独自の立体作品を制作してきた。特に目玉が特徴的なそれらは、どこかアニメのキャラクターのような存在感がある。ちなみに私が興味深かったのは、今回展示されている『信楽狸変異体 -目一箇童-』が、背面にもう一つの顔があることも含めて、岡本太郎の『太陽の塔』とダブって見えたこと。浅田孝らの提起した「環境」は、1970年の大阪万博における鍵概念となったが、「大阪・関西万博2025」と同時期に開催される本展もまた、昨今の「万博のモード」(齋藤)からの影響が見て取れる。

会場風景より、金理有『信楽狸変異体 -目一箇童-』(2025年)

他にも、韓国人作家のオミョウ・チョウは、自ら執筆したSF小説を下敷きに、ガラスと金属を用いた彫刻を出品した。モチーフは「未知の知覚を持つ生命体」として再解釈されたアメフラシ。その人間中心主義への批判的なスタンスには、私たちの未来に対する思弁的な洞察が織り込まれている。また、会場の随所に展示された久木田大地の油彩画は、古典絵画のイメージを引用したシミュレーショニズムの一種だ。ミュージアムショップで陳列されたカタログや、ウェブの検索画面などに着想を得て、反復、組み換え、拡大といったソフトウェア的な技法を用いて制作される。伝統の革新を目論むその着眼点と技法は、きわめて現代的なイリュージョンを生成していた。

会場風景より、オミョウ・チョウ『Nudihallucination #2』(2022年)

会場風景より、久木田大地『Repetition_ヘントの祭壇画 01』(2025年)

最後に言及するのは、ファッションを学んだ後、服飾に関わりながら「着るもの」としての人体をテーマに彫刻を制作するアーティスト、鈴木操だ。可動展示室に置かれるのが『Untitled(Non-homogeneous arrangement)』と『Untitled(Deorganic Indication)』。前者は段ボールの台座に乗るベルベットの圧縮物で、制度を脱臼させるようなフラジャイルな彫刻。後者は、基体にはめ込まれた風船が縮んだり割れたりする有機的な彫刻だ。

会場風景より、鈴木操『Untitled(Non-homogeneous arrangement)』シリーズ(2017〜2018年)。奥の壁面には、久木田大地『FLUID BABY_03』(2024年)

会場風景より、鈴木操『Untitled(Deorganic Indication)』シリーズ(2023年)。奥の壁面には、久木田大地『BABY BUOY』(2022年)

そして、鈴木操による今回の新作となるのが企画展示室に立つ『霊性』である。人体の中心部、特に自律神経系の臓器が意図的に切除され、3Dモデリングおよびデータ切削技術が駆使された本作は、この展覧会の白眉だと言っていい。私が直感的に連想したのは、アントナン・アルトーの「器官なき身体」(※)だ。機能をはぎ取られ、断片化した耳や両腕、岩石に埋まる左脚が、ヒリつくような緊張感をまとって屹立している。そのたたずまいは、神経症じみた社会への警鐘にも、身体を脱構築するポストヒューマンへの憧憬にも思える。そんな鈴木の『霊性』は、本展のキュレーションの枠組みから漏れ出すような、鋭利でソリッドな人体彫刻だった。

会場風景より、鈴木操『霊性』(2025年)

こうしてめぐってきた『周辺・開発・状況』展。それは「環境」をキーとして、サイト・スペシフィック(※)な「地勢」をリサーチ・ベースドに捉え、伝統工芸から未来社会のビジョンまで、ジャンル横断的に構築された、まさに「現代美術の事情」を占うポリフォニックな展覧会だった。

最後に付け加えれば、本展には「若い世代によるコレクティブ・アクション」という前提がある。今回現地で展示を鑑賞して、そのコンセプトが理念のレベルだけでなく、東アジアという広い範囲のなかで具現化しているのを実感した。そこでは、アーティストたちによる作品を通じた「連帯」がたしかに生じている。そのネットワークは、齋藤と3名のコキュレーター(松⼭孝法、李静文、根上陽子)による、緊密なコミュニケーションがもたらしたものだろう。

以上のように、多角的なアプローチで読み解くことができる本展。散りばめられたアートピースからどのような「環境」を浮かび上がらせるのかは、鑑賞者それぞれの手に委ねられている。

会場風景より、鈴木操『霊性』(2025年)

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