
2歳足らずで養子に出され、つらい少年時代を過ごしたあのとき―。「他人がどうか」ではなく「自分がどう生きるか」に気づいたことで、人生を面白く生きていく道が見えたという。そんな“知恵”を今の若者とその親たちへと語りかける。
本当の意味で自由になることが必要
生みの親に捨てられ、育ての親がどこから来たかもわからない――。心の葛藤や貧しい境遇をバネにして医師となり、76歳の今も長野県茅野市で地域医療に関わる鎌田實先生。“親ガチャ”“実家が太い”などの言葉が蔓延する現代だからこそ、若者に伝えたいことがある。
「これまで20年以上にわたり、北海道から沖縄まで、全国の中学校、高校で講演してきました。若者たちに触れ合って思うのは、もっと面白く生きてみようよ!ということ。
そのためには、思いどおりにならない、さまざまなしがらみを自分の力で乗り越え、本当の意味で自由になることが必要なんです」(鎌田先生、以下同)
先生自身、幼少期や学生時代は思うようにいかないことの連続。貧しさや、苦悩の中で生きてきた。
「僕は1歳10か月くらいのときに実の親に捨てられました。ぼんやりとだけど、記憶があるんだよ。ここは自分がこれまで暮らしてきた家じゃないし、この人たちは本当の親じゃない、という違和感というのかな」
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実の親が離婚し、親権を父親が持つことに。しかし間もなく父親が再婚し、まだ2歳にもならないうちに他人に預けられることとなった。
「親戚でもなんでもない人たちなのに、なぜ僕を預かることになったのか、経緯もわからない。今になってみれば、育ての親にもっと詳しく聞いておけばよかったと思うけれど、当時は申し訳ない気がして聞けなかったね」
育ての親となった夫婦は貧しく、母は心臓病を患っていた。父は治療費を稼ぐために夜遅くまで仕事をし、幼いながらひとり家に残されることも多かった。
「ふたりとも小学校しか出ておらず、貧しいけれど、すごく優しい人。この両親に育てられたから今の僕があるし、ふたりの教えが僕の生き方に強く入り込んでいます」
とはいえ、少年時代の暮らしはつらいものだった。今でも忘れられないのが、茶色いコロッケ弁当だ。
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「僕の子ども時代は、終戦からしばらくたったころ。ある程度は物が手に入る時代だったから、みんなの弁当には卵焼きやウインナーが入っていて色とりどりだった。でも僕の弁当は、白いごはんの上に甘辛く味つけしたコロッケがたった1つドンとのっているだけ。これを友達に見られるのが恥ずかしくてね」
不幸とは、人と比べることだと断言する鎌田先生。まさに、同級生の美しい弁当と自分のコロッケ弁当を比べ、厳しい境遇や貧しさを噛みしめていた。
人と比べないようにすれば楽
「乗り越えるのに時間はかかったけど、貧しい中で病気の母が精いっぱい作ってくれた弁当。恥ずかしいことなんてひとつもないんだと思えるようになった。
そもそも、人と比べないようにすれば楽なんだと、子どものときに身をもって学んだわけです。SNSが浸透し、他人と比べずに生きることがますます難しい世の中だけど、それを自分なりにどう乗り越えるか。一度考えてみてほしいなと思います」
子どものころの鎌田先生を襲った試練は、生い立ちや貧しさだけではなかった。当時、小中学生を対象に実施されていたIQ検査で、標準値よりも低いという結果が出たのだ。
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「担任の先生から直接結果を告げられてね。でも、特に落ち込まなかったよ(笑)。だってノーベル賞を目指してるわけじゃないし、人よりIQが低いなら人より少し努力すれば進学ぐらいはできるだろうって、楽観的でした」
自らを“変人でおかしな人”と称する。それはやはり、生い立ちが強く影響しているせいではないかと考えている。
「生みの親に捨てられ、親切な夫婦に育ててもらったけども、無意識下では“また捨てられないようにしなきゃ”っていう思いがあったと思う。そんな環境で生きてきて、子どもながらにある意味達観しちゃったんでしょうね。自分の人生を悲観せず、冷静に俯瞰する癖がついていたのだと思います」
IQが低いのなら、と、毎朝4時半に起きて勉強。難関の都立高校に見事合格し、将来は医師を目指すことに決めた。だが大学進学にはお金がかかる。父親には「ばかやろう、貧乏人は働けばいいんだ」と進学を反対された。
だが、どうしても諦めきれない。お互い激しくぶつかり合い、最後に父親は泣きながら
「俺は何も応援できないが、もしおまえが医者になったら貧乏な人や弱い人のことを絶対に忘れるな」と言い、夢を認めてくれた。
「でもね、何がなんでも医学部合格だとがんじがらめになっていたわけじゃない。不合格なら大学へ行かずに寿司職人になろうと本気で思っていたから。だって面白そうだし、わくわくするでしょ(笑)。
大学に入ることが目的となっている今の学生たちは信じられないかもしれないけど、重要なのは大学に入ることじゃない。人生で自分が何をしたいかをじっくり考え、言葉にすることです」
特殊な境遇で育ったからこそ、人との違いを強みに、いかに面白く生きるかを常に考えてきた。
医師となってからも、赤字続きで閉院寸前の公立病院の院長に就任したり、チェルノブイリ原発事故の放射能汚染地域に100回を超える医師団派遣を行ったりと、人がやらないことに果敢にチャレンジし続けた。
生き方の傾向を先生や親に委ねない
鎌田先生の周りにも、ユニークな友人がたくさんいる。例えば高校時代の剣道部仲間で、時代小説作家の好村兼一氏もそのひとり。
「彼は非常に優秀で、簡単に東大に合格しました。在学中に剣道の指導者として渡仏し、そのまま現地で貿易会社を興して東大を辞めちゃった(笑)。
その後は最難関の剣道段位八段に合格し、なんと40歳を過ぎてからは作家デビューを果たしたんです。東大に入ることが目的じゃないから、大学にも固執せず、次々と新しいことに挑戦する。面白く生きる、見本のような男です」
大学合格が最大の目標となり、人生の真の目的を見失っているように思える日本の子どもたち。偏差値主義の教育や、親の凝り固まった価値観も原因だろう。
「先生も親も決して完璧じゃない。だからこそ、いい部分だけバトンを受け取り、違うと感じたものは受け取らなければいいんです。生き方の傾向を先生や親に委ねず、自分流に変えるよう、意識してほしいと思います」
親との関係性に悩むのは子どもたちばかりではない。最近では、成人してからも子どものころの家庭環境を引きずり、生きづらさを抱える大人も少なくない。
「僕も、生みの親に対してずっと割り切れない部分がありました。でもそれも含めて、すべてを受け入れたんです。母は生きるために、僕を捨てるという苦渋の選択をせざるを得なかったのだろうと勝手に解釈しています。怒っても憎んでも、新しい現実は生まれないのだから」
思いどおりにならないのが人生、と豪快に笑う。壁にぶつかったときは、我慢力を養成する時期だと考えて乗り越えた。
しがらみの中、頑張ったり、あえて頑張らなかったりしながら、いかに自由になれるかを追求してきた。日本の子どもたちにも、生きる力を蓄えてほしいと願っている。
「勉強や人間関係に行き詰まったり、経済的な理由で選択肢が限られたりすることもあるでしょう。それでも人は自由であるべきなんです。自由になると、生きることが面白くなる。面白いことに貪欲な若者が増えれば、きっとこの国ももう一度元気になれるはず。そう思っています」
取材・文/植木淳子