巨匠・江口寿史と高橋よしひろが語る『週刊少年ジャンプ』黄金時代、ここだけの話【「増田まんが美術館」イベントリポート】

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2025年05月31日 12:10  週プレNEWS

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2022年、秋田県横手市の「増田まんが美術館」に全マンガ原画を収蔵した人気漫画家の江口寿史氏。画業50周年が迫る現在も第一線で描き続け、今も尚、日本のポップカルチャーの象徴として実に幅広い世代に支持され続けている。

その江口氏が70年代後半より『週刊少年ジャンプ』誌上で鎬(しのぎ)を削った"戦友"とも言える漫画家で、同館二代目名誉館長の高橋よしひろ氏、美術館館長の大石卓氏と共に5月3日に行った特別鼎談を取材。東京在住で九州出身の江口氏がなぜ、この秋田県横手市のまんが美術館を選んだのか? その謎を紐解いてみた! そして、豪快すぎる昔の漫画家の思い出話も......。

【写真】銀牙タトゥーや両氏のコラボイラスト

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まずは、この5月の鼎談に先駆けて行なわれた2025年3月22日に行われたオープニングセレモニー時の江口氏のスピーチ映像のテキストを!

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2025年3月22日【全マンガ原画収蔵記念展】江口寿史 ALL MANGA WORKS
オープニングセレモニー時の江口寿史氏コメント(VTR映像音声より)

僕らがデビューした頃、漫画原稿の扱いというのは、印刷したら、ある意味不要なものだったんです。原稿は印刷物のために使うだけの、ただの版下のようなもので、管理する意識が編集者側にも漫画家側にもあまりなかったんですね。

僕が週刊少年ジャンプで連載していた時代にはしょっちゅう原稿を失くされていて、僕はそれが嫌で、かなり早い時期から「印刷の終わった原稿はちゃんと返却してください」と主張した漫画家だったと思います。作家側も皆さん本当に無頓着で、人にあげたりね。そういう方が多かったんです。

近年、漫画原画のカルチャー的な価値の意味合いもより深まってきており、漫画の原画は「文化財」だとようやく国も保存に動き出してきましたが、ここ横手市増田まんが美術館はそうした漫画原画の保存の事業にいち早く取り組んでこられたんですね。この美術館の常設を含めた展示は勿論なんですが、貴重な原画を収蔵するマンガの『蔵』展示室も是非見ていただきたいんです。そこでは徹底的に温度湿度管理された環境の中で原画が保存されています。

僕は九州出身なので、よく「なんで縁もゆかりもない遠い秋田の美術館なんかに漫画原稿を預けるんですか?」みたいなことを言う方もいらっしゃいます。「九州の美術館に預ければいいのに」とかね。

それは簡単な理由で。原稿をきちっと管理して修復して特殊なシステムで保存し、データベース化するみたいなことを、しっかりとやってくださっている美術館はここしかないからです。だからこそ、こちらに預けるっていう話で。びっくりするくらい本当によく管理されたシステムですので安心してお任せしています。

今後、多分ここがそうした事業のロールモデルになると思うんです。ここがやられているノウハウやシステムがこれから徐々に広まっていくと思うので、その意義も見ていただきたいし、漫画の生原稿を目にした時のパワーというものも感じてほしい。

近年、僕は長らくイラスト展をやってきましたけれども、僕のイラストのフィニッシュは現在はコンピューターで仕上げるデータ作品なので、基本的には原画は途中経過までのものしか存在しないんです。それで、データ出力はいくらでも大きく出来る自由はあるんですけれども、漫画の原画と見比べた場合、漫画の原画はサイズは小さいんですけど、その放つオーラが全然違うんですよ。

それを感じてほしいのと、僕に関して言えば漫画の生原稿だけの、ここまでの規模の展示っていうのは初めてなんです。去年、世田谷文学館でも漫画原画はイラストと半々くらい展示したんですが、その時と比較にならないくらい大量の原画が見られます。クラクラさせるような漫画の怨念みたいなものも籠もってるから。原画から受ける圧をじっくり食らってもらってね(笑)。

漫画の展示はイラストと違って、展示を見ながらみなさん読んじゃうんですよ。読んで笑ってるんですよ。そんなみなさんのリアクションを見ると「漫画ってやっぱりいいなぁ」と、思いを新たにするところでありまして。また漫画も描きますので、その期待も込めてぜひ足を運んでいただけたらと思っています。

(以下、鼎談)

大石卓(増田まんが美術館館長。以下、大石) (VTR映像を観終えて)江口先生に特別、原稿の保存の仕方とか国の今の状況などを事細かく話したわけではないのに、そうしたことをご理解されておられることも本当に有り難く思いましたし、その『蔵』ですよね。そのシステムまでもしっかりご理解されてアナウンスしてくださり、とても感激いたしました。

高橋よしひろ(以下、高橋) 集英社の堀内丸恵相談役が仰ってましたが、原画の一枚一枚を、紙の酸性化を防ぐ中性紙素材を活用して適正保存してる美術館は、他にまず無いと言うんですね。ところで江口先生、ようこそお越しくださいました。7年程ぶりの再会でしたかね?

江口寿史(以下、江口)ですかね。前回の横手では、先生のご自宅にもお邪魔させていただきました。

高橋 そうでした。

江口 ご自宅の納屋にスーパーカーが駐まってて、たまげましたね。隣にはトラクターが置いてあって。本当の金持ちって無造作だなぁと思って(笑)。

高橋 あれは1960年型のアルファロメオかな。

江口 あ。そうだったんですね。俺、スーパーカー=フェラーリだと思いがちで(笑)。でもフェラーリ・ディーノも持ってたとおっしゃってたじゃないですか。"ディーノ"なんて池沢さとし先生の漫画『サーキットの狼』(1975年〜1979年『週刊少年ジャンプ』)の中でしか見たことないですよ。

大石 車好きの漫画家さんが沢山いらっしゃる中で、ご自身も車の免許を取得して車を持ちたいとは?

江口 ずっと羨ましかったですよ。免許をとりたいとも思って、一時期教習所にも通ったんです。『ストップ!! ひばりくん!』(1981年45号〜1983年51号『週刊少年ジャンプ』)を描いている時って週刊連載ですよね。そのネームをやってて、なかなかできなくてイライラしてる時が教習日で。当時の教習所の教官ってめちゃくちゃ態度悪かったじゃないですか。女性には優しいんですけどね。いちいち言い方にムカついて、「てめぇこの野郎、降りろ!」とかやっちゃって。それでもうネームも苦しいのに、その上教習所でもえらそうな態度でいろいろ言われるのはうんざりだ!って辞めちゃって。

高橋 俺、免許は18歳の頃、下町の教習所でとりましたが確かにガラ悪かったです。

江口 昔はどこもね。

高橋 明らかにチンピラみたいなのが教官やってるんですよ。街中の路上教習になったら「兄貴迎えに行くからよ」って。

江口 そりゃ本物じゃないですか!(笑)

高橋 どこかのアパート前に駐まって車内の後ろに3人くらい乗ってて。

江口 面白すぎじゃないですか(笑)。

高橋 何もしてないのに路上教習合格の判子押してくれて。「また頼むな!」って(笑)。

こんなこともありました。集英社のパーティーの時に本宮ひろ志先生と池沢さんと俺のテーブルが一緒だったんです。そしたら本宮先生が池沢さんにね、「お前のせいだぞ、この野郎」って言い出して。何かなと思ったら、本宮先生、スーパーカーのエンブレムを盗まれたんですよ。それはスーパーカーブームを作った池沢さとしが悪いって(笑)。それに対して池沢さんはニヤっと笑って何も言わなかったですが(笑)。

江口 昔、西荻窪の街でランボルギーニ・カウンタックがものすごい音で走ってて。こんな狭い通りでカウンタック走らせてる馬鹿は誰だ、と思ったら池沢さんだった(笑)。

あ、車と漫画家という話でいえば、ひとつ思い出したんですけど、いいですか?

俺、『すすめ!!パイレーツ』(1977年〜1980年『週刊少年ジャンプ』)を描いている時は集英社の執筆室に2年間住みついてたんですよ。その頃、いろんな漫画家が集英社に来ると訪ねてきてくれて、特によく顔出してくれたのが車田正美先生で。車田先生が初めて現れた時は上下白のスーツでね、それで「どうも、車田です」と握手を求めてきたんですよ。おれ、初対面で握手を求めてくる日本人初めて見たんでびっくりしちゃって。それ以降、ちょくちょく来てくれて「俺よう、車買ったんだよ。ちょっと乗らねえか?」と。で、行ったらカローラの中古みたいな車で。それで、運転しながら、「今はカローラだけどよう、そのうち俺はベンツ買うからよう」と。なんかいい話じゃないですか?それで「出口間違えた」とか言ってね、首都高を2周くらい回ってるだけなんですけどね(笑)。そうしたエピソードを漫画で描きたくて。

高橋 なるほどね。

江口 実録ものは炎上するようなネタばっかですけどね(笑)。

■SNSでの"シャレ"が今の人たちに通じない

江口 大昔、大分PARCO(2011年1月31日閉店)でサイン会をやったんです。僕がカバーイラストを描いている『リアルワインガイド』(リアルワインガイド社刊の季刊誌)というワイン雑誌の編集長が大分県出身で、その縁で大分県でやることになったんですね。その頃、地方で閉店するデパートが多い兆しもすでにあって、大分って、人来るのかな?とも思ってましたが、会場に行ったらね、先頭に犬が居て「ヘッヘッヘッ」って舌出してて(笑)。「犬かいー!」とズッコケちゃって。

もちろん野良犬じゃなくて一番前にいらしたおばあちゃんの連れた犬なんですが、サイン会の先頭が犬っていうのがウケちゃって(笑)。

それで、この3月のこちらの美術館のことも自虐ネタとして


ギャグとしてポストしたんですよ。でも言わせてもらえば僕の最近のサイン会なんてすぐ埋まるんですね。......って自慢してるけど(笑)。それが前回、まだ埋まってないというのがこれは珍しいと思い、シャレで軽くポストしたら、今の人って自虐とかシャレが通じないんですよ。みんな真面目に受け取っちゃってね。結果、5万いいねて。俺、普通イラスト上げても5万いかないですもん。すごい屈辱な感じで(笑)。

大石 (閲覧数)1000万PVって(笑)。単純計算で国民の12人に1人は閲覧した計算でしたね。いろんな方がそれに対してリアクションしてネットニュースになって。最初は凄い勢いで閲覧数やいいね!がついていくから笑っていたんですが、段々、笑っていられなくなってきて。でも2日間で180名ほどの方にご来場いただき、結果は大盛況でしたが!

江口 みんな「本気」と思うようで。俺のことを知ってる人は「またかw」と笑ってくれてるだけなんですけどね。

■デビュー以前〜1970年代後半の『週刊少年ジャンプ』


高橋 江口さんの『恐るべき子どもたち』(『週刊少年ジャンプ』1977年5月23日号)が載る1年前に(1976年〜1989年『月刊少年ジャンプ』)『悪たれ巨人(ジャイアンツ)』(1976年5・6合併号〜1980年9号『週刊少年ジャンプ』)が始まり、連載してました。

その頃、師匠の本宮先生から「お前、いきなり2本の連載じゃ3ヵ月で潰れるぞ」と言われたんです。でも編集部はどっちもやらせたいんですよね。それで「どっち取る?」と言われたけど、いやー両方やるわと言って。

江口 連載2本、すごいなー。

高橋 その連載中の2年間、布団で寝たことないんですよ。

江口 マジですか!

高橋 そのぐらい描き殴りでやってたんです。

江口 大変ですよ。連載は週刊と月刊ということですね? 

高橋 そう。月刊誌が39ページとかページ数増やしてくるんです。3日くらいで上げてましたけれども。

江口 あの頃は週刊と月刊をやるのが一つのステータスでしたもんね。例えば小林よしのりさんとかも月刊でもやって。俺も月刊でやってと言われたんですよ。でも嫌です、無理ですって(笑)。

高橋 その頃、デビュー前の車田正美さんが『白い戦士ヤマト』連載2回目の時、「下描きだけ全部やっとくから手伝ってくれ」って言ったら来てくれて。後で聞いたら『悪たれ巨人(ジャイアンツ)』は車田正美さんがやることになってたって。

江口 ええー? 凄い裏話ですね。車田さんが描いてたらとんでもない野球漫画になったんじゃないですか? 見開きで大変な魔球が出てきて。それはそれで見たかったな(笑)。

高橋 あの後、彼は『リングにかけろ』(1977年2号〜1981年44号『週刊少年ジャンプ』)で成功したけど、俺がやるより車田正美さんがやったほうがよかったんじゃないかって思いましたけどね。

そして『すすめ!!パイレーツ』が始まった時に、純粋にすごい!と思いましたもん。こんな新人いるんだと思って。長嶋監督などのギャグなんかが面白くてね。週刊少年ジャンプの見本誌が来たら江口さんの漫画を一番先に読んでましたよ。

江口 ありがとうございます。

高橋 『すすめ!!パイレーツ』の連載が終わってからはあまり知らないんだけど。

江口 知らんのかーい(笑)! でもね、パイレーツで巨人軍の選手を実名で出せたのは、やっぱり『悪たれ巨人(ジャイアンツ)』とかがあったからですよ。当時の週刊少年ジャンプは巨人軍と契約してましたからね。『侍ジャイアンツ』(原作:梶原一騎 作画:井上コオ、1971年36号〜1974年42号『週刊少年ジャンプ』)もあって。

高橋 その二つですね。

江口 おかげで俺は堂々と巨人軍とか長嶋監督とか王選手とかを実名で出せるわと(笑)。

高橋 復刊で昔の単行本も出せると思うじゃないですか。そしたら読売巨人軍とかの選手は芸能事務所との個人契約があるようで無理みたいなんですよね。

江口 あー、今厳しいですからね。俺の場合は大丈夫かな。誰も見てないんじゃないかな(笑)。昔、梶原一騎作品をパロってギャグも描きましたが何も言われなかったですね。

高橋 梶原さんはちばてつやさんには文句言わなかったらしいですね。

江口 そうみたいですね。ちゃんと認めてたんじゃないですかね。

高橋 ですよね。

江口 ちば先生、『あしたのジョー』(1968年1月1日号〜1973年5月13日号『週刊少年マガジン』)で梶原さんの原作を最初の3ヵ月使わなかったらしいですもんね。それで「どうなってんだ」つって。そういう伝説はいっぱいあります。梶原先生は懐に入ると優しいという噂も聞きましたけどね。


大石 実際、江口先生は高橋よしひろ先生の作品をどんな感じで見ておられたんですか?

江口 僕がデビューする5年ぐらい前からの先輩で『悪たれ巨人(ジャイアンツ)』もずっと見てましたよ。俺は本宮ひろ志作品のすごいファンだったんで、本宮先生のところからいっぱい漫画家が輩出されてくるから、お弟子さんのよしひろ先生には、そこの話も聞きたかったんです。本宮先生のアシスタントって何年ぐらいやられてたんですか?

高橋 2、3年だと思います。

江口 やっぱり短いですね。才能ある人はあまり長くいない。

高橋 2年くらいした頃「お前、月刊誌の連載を持たせてやるから外でやれよ」って。デビューが早かったというのもありますが、連載をやりながらでも食べていけないんで、先生のところを手伝いながら月刊誌連載をやっていたんです。

江口 先生に言われたんですか?

高橋 そう。「今、アシスタント辞めたら食べていけませんよ」と言ったんだけど「いや、お前は外でやる人間だ」と言われてね。どういうことかわかんなかったんだけど。

江口 本宮先生ってすごく多くの弟子を育ててるじゃないですか。すごいですよね。俺なんか誰も育ててない。自分のことで精一杯で。

高橋 江口さんは誰のアシスタントにもつかないままデビューしたんですか?

江口 はい。でも、よしひろ先生は最初から本宮先生のアシスタントじゃないでしょう? デビューしてからでしょう?

高橋 いやいや、最初に本宮先生の門を叩いたんです。私が17歳の時ですね。初めて訪ねていったら先生が寝てたんですよ。先生のお兄さんが出てきてね。二間のアパートの1DKの台所にこたつを置いて4人で描いててね。それで「アシスタントになりたいんです」と言ったら「そうか、じゃあ入って」って中に入れてくれて。「今、ひろ志は寝てるけど」って、先生がソファーで寝てるんです。でも寝起きの悪い人でね(笑)。

江口 わかる(笑)。

高橋 「ああ〜こうやって漫画って描くんだ」と思ってね。お兄さんもアシスタントで他にアシスタントが3人いて。お兄さんは美大に行こうとしてたみたいな方で、どっちかというと色を塗る役割でした。先生は1時間ぐらい起きてこなかったんです。ところが友達が女のコを連れてやってきたら先生、さっと起きて俺のことは無視して出て行っちゃって、2時間後ぐらいに帰ってきて「お前まだ居たのか」みたいな(笑)。

江口 昔の漫画家さんの感じがなんかドラマみたい!

高橋 「半年後ぐらいに一人アシスタントが辞めるから、それまで練習して絵が上手くなったらまた来いよ」みたいな話で。それで半年後に絵を描いて持って行きました。すると先生が絵をじーっと見てるから「どこ見てるのかな?」って愛想笑いしてたら「お前、何がおかしいんだよ」って。

江口 怖いよ怖いよ(笑)。

高橋 師匠はなんかバカにしてると思ったのか。

江口 ああ〜そっか。

高橋 東京じゃ笑っちゃいけないんだ、愛想笑いはいけないんだと思って(笑)。そういうことがありましたよ。

江口 いい話ですね。四畳半にこたつで4人でっていうのがグッときます。

高橋 でもあの頃ってみんな、みかん箱とかでやってたんですよ。

江口 もともと本宮先生の漫画が好きだったんですよね?

高橋 そう。その前に15歳で自動車会社に工員として入ったんですけど1年で逃げたんです。とにかくあの辺は一回入ったら辞めさせてくれなくて。

江口 そうなんですか? 本宮先生の漫画はクラス中の男の子全員読んでましたからね。

高橋 映画より面白かったですもんね。

江口 本当に斬新な絵だったし。そして本宮先生は才能を見抜く目がすごいんですよね。『BE FREE!』(1984年7号〜1988年29号『コミックモーニング』)の江川達也さんとかもそうでしょ。

高橋 自分の連載作品は、つまんないと思えば自分で辞めちゃいますしね。出版社の方から「もっと続けてください」って言われても「辞めた」つって辞めるんです。

江口 本宮先生ってそういうところも、なんかかっこよかったんですよ。今までいなかったタイプの漫画家さんでしたね。

大石 その系譜で、よしひろ先生のアシスタントさんも多く活躍されましたね。

高橋 うちに居たのが、後に『ホールインワン』(原作:鏡丈二、1977年〜1979年『週刊少年ジャンプ』)を描いた金井たつおくんとかね。

江口 『激!! 極虎一家』(1980年35号〜1982年44号『週刊少年ジャンプ』)の宮下あきらさんは本宮先生のアシスタントですよね?

高橋 いや、宮下くんはうちに居て。

江口 え、そうなんですか?

高橋 あいつは俺のアシスタントって言いたくないから(笑)。

江口 そうなんだ、言いたくないって(笑)。 

大石 宮下さんもそうですし、『北斗の拳』(原作:武論尊、1983年41号〜1988年35号『週刊少年ジャンプ』)の原哲夫先生もよしひろ先生のアシスタントでしたしね。

江口 そうですよね。 

高橋 原くんは手が遅いから、出版社の方から速く描ける漫画家につかせて、とにかく手の作業を速くさせようと思ったようでね。

江口 宮下あきらさんの面白エピソード、一つ話していいですか。彼は吉祥寺在住なんですが、飲み屋とかでたまに遭遇すると「おー、江口!」「あっ、宮下さん」とか言ってたんです。なぜ俺が「さん付け」で向こうが「呼び捨て」なのかと言うと、初めて宮下さんと会って年齢のことを聞いた時、確か車田さんと同じ歳だと言ってたんですよ。ずっと俺より2歳上と認識してたんですね。

それで吉祥寺でよく会うようになった時、Wikipediaを見たらね、1958年生まれと書いてある。俺より2歳下なんですよ。「あいつ年下なのか?デビューも俺より遅くて年下のくせになんで俺がさん付けして、あっちが呼び捨てなんや!」と(笑)。その事をツイッターに「てめえこの野郎、宮下あきらw」とか書いたの。したらその後、西荻窪の飯屋でまたバッタリ会ったら「江口さ〜ん!」とか言って手振ってて(笑)。ああ、ツイッター見たんだな、と(笑)。でも1958年生まれはないですよね?

高橋 そうですよ。俺と年、一緒ですもん。

江口 ねー。だからあの人ね、なんか知らんけど若いほうにサバ読んでるの。芸能人じゃあるまいし、おっさんの漫画家が年齢サバ読んでなんの得があるんですか? (笑) 

■フィンランドで『銀牙 -流れ星 銀-』が大人気!

江口 ところで大石館長から聞いたんですが、北欧諸国のフィンランドで『銀牙 -流れ星 銀-』(1983年〜『週刊少年ジャンプ』〜以降、長期人気シリーズ)の人気が半端ないのだと。

よしひろ先生の漫画がとにかく大人気でサイン会をしたら北欧の金髪の女のコばっかりずらーっと並んだそうですね。俺のサイン会っておっさんばっかりなんだけど!何でそんなことになってるの? という理由を聞きたかったんです。

高橋 10年くらい前に先方から来てくださいとオファーをいただき行ってきました。今、フィンランドの人口は550万人くらいですかね。国土自体は日本よりもやや小さいくらいなんですが、人口が極端に少なくて。その10年前に行った時、その20年前頃からずっと『銀牙』のアニメが流れてたようで、当時フィンランドのテレビで流れるアニメはムーミンか『銀牙』だったそうです。ずっと擦り込みみたく毎年やるそうで、みんな覚えてるようなんですよ。

江口 なるほどー。国民的アニメってことですね。すごいなぁ。

高橋 ちなみにムーミンを作った人はトーベ・ヤンソンという女性で、博物館に行ってみたら絵が小さいんですよ。新聞の記事になってて切り抜きが貼ってあるだけで、それが原画だと言ってて。それを切り貼りのようにしてあるだけで小さいんですよ。

大石 現地のオープンスペースにイベントブースを作っていただき、記念のサイン会みたいな形でやらせていただきました。さっき江口先生がおっしゃったようにほぼ女性しか来ません(笑)。

江口 羨ましいなあ!ちくしょう!

大石 一昨年行った時、よしひろ先生の誕生日がイベントの時に重なったんですが、こちらからお願いも仕込みも全くしてないんですが、よしひろ先生が会場に来た瞬間にファンの方々がお祝いのハッピーバースデーをしてくれたんです。そして何より一番驚かされたのは女性が身体に入れている、よしひろ先生のキャラクターのタトゥーで。しかも女性ばっかりなんですよ。


江口 モテモテじゃないですか。

大石 先生に会ってですね、本当に涙を流して震える若い女のコばっかりで。

江口 マジですか......。

大石 そして鼻の下を伸ばす先生がいたんですけども(笑)。本当に国民的スターみたいなもてなしをしてくださいました。

江口 アニメは今でも放映されているんですか?

大石 今現在、放映はされてませんがビデオソフト化されてます。「私の生きがいです」みたいなことをおっしゃるファンも沢山いらして。

高橋 イベントの3日間、ずっとついてくる二人の姉妹が朝からずっといましてね。「あの子たちなんでいるの?」って聞いたら、俺の空気を一緒に吸いたいからって。下の年齢の方は高校生みたいな感じでしたね。

江口 同じ空気を吸いたい!!すごいなぁ。神様扱いですね。羨ましい限りです。

■江口寿史×高橋よしひろ コラボIllustrator

大石 今回、ご来場のみなさんにプレゼントさせていただく、サイン会での色紙なんですが、イラストボードのような形で両先生からいろいろご協力をいただきまして、コラボ作品を描き下ろししていただきました。本邦初公開です。こちらです!


場内 おお〜!!!(パチパチパチ)

江口 僕が先にひばりくんを描き、右のスペースによしひろ先生の絵が入ることを想定して空きスペースを作りました。そして、よしひろ先生が描いた絵がこちらです。その画像データをいただいてパソコンで構成したのがその最終形の絵です。で、犬が俺の想定とは違う角度を見てたんで......。


場内 わははは(爆笑)〜

江口 左手とか描き直したんですけど。

場内 わははは(爆笑)〜

大石 最初、下絵を描かれた時、犬の毛並みがモフモフしてるイメージでしたが、出来上がったイラストは日本犬のような毛並みでしたので。

江口 はい、こうなりました。

大石 この江口さんの絵をよしひろ先生が最初に見た時、電話がきたんですけど、 その時の第一声が「"銀"はモフモフじゃないんだよ」でした(笑)。

場内 わははは(爆笑)〜

江口 (笑)。そう、俺は"銀"を描いたつもりじゃなくて。ただ、犬はこの位置にと言う感じで、レトリーバーみたいな毛の長い犬をラフで描いてて。で、よしひろ先生から届いたのを見たら全然モフモフじゃないんですよ(笑)。なんか硬そうな犬だったんで(笑)、それでこう、硬いものを抱く感じに直しました。

場内 わははは(爆笑〜大拍手)

江口 この色紙に2人のサインを入れてお渡しいたします。

高橋 はい。本当今日は皆さん、せっかくの連休に......。

江口 せっかく(笑)。こんなことで潰してしまって。わははは。

高橋 (笑)。ホント、ありがとうございました。江口先生も久しぶりでしたからね。今度は町田にでも来てくださいよ。

江口 ありがとうございました。町田、ぜひ遊びに行かせてください!

高橋 ぜひ一緒に一杯やりましょう。お願いします。でも、こんなに人が集まるなんて、 羨ましいなと思って。

江口 そんなことないですよ、 金髪美女に囲まれる方が羨ましいですよ! でもよしひろ先生はずーっと連載が途切れたことないんですよね? もしかして50年くらい? 70過ぎて週刊連載してるなんて、それはものすごいことですよ。素晴らしいなと思って。俺はよしひろ先生の2歳下だから見習わなきゃと思って、もうちょっと頑張って漫画描きますんで。

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■江口寿史 
1956年 熊本県生まれ。漫画家・イラストレーター。1977年『週刊少年ジャンプ』にて『恐るべき子どもたち』で漫画家デビュー。代表作に『ストップ!! ひばりくん!』『すすめ!!パイレーツ』『エイジ』『キャラ者』など。80年代からはイラストレーターとしても多方面で活躍。 
https://x.com/Eguchinn 
https://www.instagram.com/egutihisasi/ 
https://www.instagram.com/eguchiworks/

■高橋よしひろ 
1953年 秋田県生まれ。漫画家。1972年『週刊少年ジャンプ』にて『下町弁慶』で漫画家デビュー。代表作に『悪たれ巨人(ジャイアンツ)』『白い戦士ヤマト』『銀牙 -流れ星 銀-』『銀牙伝説ウィード』など。2021年、前年に亡くなった漫画家矢口高雄の後継として横手市増田まんが美術館の二代目名誉館長に就任。

■横手市増田まんが美術館 
48万枚の原画保存の活動が認められマンガ原画のアーカイブに尽力してきた業績に対して、横手市増田まんが美術財団が第29回手塚治虫文化賞(朝日新聞社主催)特別賞を受賞 
https://manga-museum.com/

写真・構成・文/米澤和幸(lotusRecords)

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  • ここでこの対談記事が読めるとは思わなかったわwしかし高橋よしひろ氏が金髪女性達にモテモテとはΣ(゚ω゚)
    • イイネ!4
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