
プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が逝去した。なぜ長嶋氏は誰からも愛されたのか。スポルティーバでは今回追悼の意を込めて、西本聖さんの引退式でのサプライズの記事を再掲載します(2020年4月掲載)。謹んでご冥福をお祈りします。
日本プロ野球名シーン
「忘れられないあの投球」
第2回 巨人・西本聖
有志主催による引退試合(1995年)
おそらく、あの時のストレートは100キロにも満たなかっただろう。プロで20年、504試合に登板して165勝を挙げてきたピッチャーが立った、現役最後のマウンド。記録には残らない、しかし記憶には鮮烈に刻まれたその"1球"を投げた舞台は、彼が若い頃、汗と涙にまみれた思い出深い多摩川グラウンドだった。
1995年1月21日。
よく晴れた、寒風吹きすさぶ多摩川グラウンドに球音が響き渡った。約3000人の野球好きが見つめるなか、西本聖が投げて長嶋茂雄が打つ――そんな夢のような対決が実現したのである。
この日、多摩川で行なわれたのは西本の引退試合だった。といっても巨人が主催したわけではなく、有志がつくり上げた手弁当のイベントだ。当時、西本を取材していたテレビ局の若いディレクターやアナウンサー、スポーツライターたちが、何とか西本を送る舞台をつくろうと奔走したのである。沢村賞まで獲得している大投手の引退試合がなぜ手弁当でなければならなかったのか......それは歴史的な"10.8決戦"と関係があった。
1994年10月8日、ともに最終戦となる巨人と中日の直接対決、勝ったほうが優勝という球史に残る大一番がナゴヤ球場で行なわれた。
じつはこの年、長嶋茂雄監督を慕ってひとりのベテラン投手が巨人へ復帰していた。実績がありながら、キャンプでは背番号のないユニフォームを着てテストを受けた西本である。彼は合格後、背番号90を託された。第1次政権の監督だった時の長嶋が背負っていた特別な番号だ。育ててもらった長嶋への熱い想いがあったからこそ、西本は90番を見て涙した。
西本にとっての長嶋茂雄──。
遡ること20年前の1974年、クリスマス・イブに行なわれた巨人の入団発表に臨んだ西本の目の前にいたのは、憧れ続けた"ミスター・ジャイアンツ"、長嶋茂雄だった。後列に立たされたドラフト外入団の西本の右前方には、現役を引退して監督に就任したばかりの長嶋が座っていたのである。
しかし、甲子園にも出られなかった松山商(愛媛)のエースはその時、長嶋の視界には入っていなかった。ドラフトの指名から漏れ、与えられた背番号は58。ドラフト1位の背番号20、鹿児島実業のエースとして甲子園のアイドルとなった定岡正二に長嶋の視線は釘付けになっていたのだ。だから西本は同期入団の定岡に対し、反骨心を剥き出しにした。少しでも目立とうと、左足を天に突き上げて投げたりもした。西本はこう言っている。
「サダ(定岡)への対抗意識もあったかもしれませんけど、それより速い球を投げたかったんです。当時の写真を見たら、もう、反っくり返って投げていますからね。とにかく反動をつけて速い球を投げたい。その一心でした」
西本はコンプレックスから、日々、練習に明け暮れた。あからさまに努力する姿は周りから疎まれるほどだった。やがてその努力は実を結ぶ。
西本はプロ2年目、開幕一軍の座をつかんだのである。初登板は定岡よりも早い、1976年4月15日の甲子園球場。8点ビハインドという場面での敗戦処理、しかも阪神のマイク・ラインバックに3ランホームランを打たれたのだが、西本は19歳にして、長嶋がベンチから見守るマウンドに立った。
この年、一軍での登板はこの1試合だけだったのだが、それでも西本が二軍で記録したシーズン6完封はイースタン・リーグの新記録だった。結局、プロ2年目、二軍での西本は12勝4敗で最多勝を獲得する。ともに二軍暮らしだったとはいえ、ドラフト1位の定岡とドラフト外の西本の立場は、この頃にはすっかり逆転していた。
西本のほうが定岡よりも上だと誰の目にも明らかになったプロ3年目。西本は才能を開花させる。1977年6月13日、川崎球場で行なわれた対大洋ホエールズ戦。1点をリードされた場面で登板した西本は、大逆転を成し遂げた打線の爆発によってプロ初勝利を手にした。
この年の西本は2年続けて開幕一軍入りを果たし、プロ初先発を経験。以降はローテーションの谷間で先発しながら、たびたび敗戦処理のマウンドに立った。足を高々と上げたり、横から投げたり、全身で投げる喜びを表現しながら強気にインサイドへシュートを放り、アウトローに真っすぐを決めるイキのいいピッチングを続けた。西本の名はあっという間に全国へと知れ渡った。
その一方で、西本は長嶋監督から勝負の厳しさを叩き込まれた。一軍で勝つことが当たり前になりつつあったプロ5年目の1979年夏、広島でコントロールを乱してフォアボールを連発し、試合をぶち壊した夜、西本は長嶋監督から20発の往復ビンタを喰らっている。西本は言った。
「なぜ逃げるんだ、打たれて命まで取られるのかと言って、殴られました。僕はあの監督の手のひらによって目覚めさせてもらった。あれがあったから大きくしてもらったという気持ちが心の中に残っています。長嶋監督はいつも自分の中にいて、頭から離れたことはありません」
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やがて時を経て西本が巨人から中日、オリックスへ移って現役にしがみついていた頃、長嶋が監督としてふたたび巨人へ戻ってきた。西本は、ここでユニフォームを脱ぐわけにはいかないという思いに駆られた。巨人を出された自分が、もう一度、巨人のユニフォームを着られるはずがないと思いながらも、もしかしたらという微かな希望を抱いて1993年オフ、西本はオリックスを退団。巨人の入団テストを受ける覚悟を決めた。
背番号のないユニフォームで、テスト生として宮崎キャンプに参加したのである。かつてのエースがプライドをかなぐり捨ててと言われたが、むしろ揺るぎないプライドがなければできることではなかった。そして西本はテストに合格、巨人復帰を果たしたのである。
ところが、西本の一軍での登板機会はないまま、チームは激しい優勝争いを演じることとなった。最終戦に優勝が懸かってしまえば、公式戦を引退試合に充てる余裕などあろうはずがない。長嶋監督は、西本に一軍での登板機会を与えられなかったことを悔やんでいたのだという。
そのオフ、西本は引退した。
長嶋と同じユニフォームを着て、かつての長嶋がつけていた90番を背負い、チャンスがなくとも黙々と練習を続けてきた一年に、一切の悔いはない......引退会見での西本の顔は晴れ晴れとしていた。
しかし、巨人は引退試合を用意するつもりはなかった。西本はトレードで中日、オリックスを渡り歩いており、生え抜きの選手ではなかったからだ。そこで、有志が立ち上がった。
もう一度、西本さんに、長嶋監督と握手をしてもらいたい──。
巨人に復帰した時、西本は「勝って監督と握手がしたい」と話していた。そんな想いを知っていた取材者たちが、引退試合を企画したのである。
お金をかけられない手弁当のイベントとあって、東京ドームでの開催は現実的でなかった。そこで、かつて泥と汗にまみれた多摩川グラウンドでの開催を思い立った。ところが巨人が離れた後、多摩川は軟式専用グラウンドになっていて、硬式球を打つことはできない。となると、試合は軟式になってしまう。ならば試合は軟式で、試合後に硬式球を使って10球のピッチング、いわゆる"テンカウント"を行なうことで有終の美を飾ってもらおうということになった。苦肉の策だった。
対戦相手はすでに引退していた定岡が率いる軟式野球チーム。西本のバックを守るのは巨人の桑田真澄、宮本和知、村田真一、川相昌弘、屋鋪要、中日の中村武志、与田剛、松山商の仲間など、かつての西本のチームメイトたちだ。多摩川の土手には人出を当て込んだ屋台が並び、地元の警察署が交通整理に乗り出したほど。そんな騒然としたなか、颯爽とやってきたのが長嶋茂雄だった。
始球式に登場した長嶋は、ベンチでずっと試合を観ていた。ところが最終回となった7回、突如、皮のジャンパーを脱いでセーター姿のまま、代打として打席に向かったのである。球審の平光清が告げる。
「バッター、長嶋」
多摩川グラウンドに集った3000人が一斉にどよめいた。
初めて実現した"西本対長嶋"。
ピッチャーの西本は、バッターの長嶋に渾身の1球を投げ込んだ。打たれたくなかったのか、打ってほしかったのか、長嶋は西本の投じた初球をいきなり打って出た。フルスイングから放たれた打球はボテボテの当たり。そのゴロを、サードを守っていた桑田が軽快に捌くも、革靴の長嶋が一塁へ全力で駆け込むほうが早く、間一髪、セーフ。長嶋に投じた100キロにも満たないストレートは、西本のプロ野球人生でもっとも遅い1球だった。しかし、野球人生でもっとも心が熱くなる一球でもあった。西本は長嶋に投げた"1球"を振り返って、こう話した。
「まさか(打席に)立つとは思っていなかったからね。想像もしていなかったし、まして私服でしょ。長嶋さんが私服で打席に立ったのは、あれが最初で最後だったんじゃないのかな。とにかくぶつけちゃいけないと思って真っすぐを軽く投げたんだけど、打ってもらったほうがいい、当ててほしいと思って投げたのは初めてだった。いま思うと、いろんな想いが込められた1球だったなぁ。成長させてもらって、テストを受けさせてもらって、引退試合に華を添えてもらった。長嶋監督で始まったプロ野球人生を長嶋監督で終わらせてもらって......感謝の気持ちでいっぱいの1球だったよ」
試合が終わって、西本は長嶋と固い握手を交わした。陽が傾いた冬の多摩川グラウンドに、野球の神様が舞い降りた瞬間だった。