
近賀ゆかり引退インタビュー 後編
(前編:なでしこW杯優勝メンバー、近賀ゆかりが最後の地・広島に残したもの>>)
近賀ゆかりというフットボーラーを語る上で、"なでしこジャパン"の影響は不可欠だ。この存在が彼女のキャリアを作り上げたと言っても過言ではない。なでしこジャパンでフォワードから右サイドバックへコンバートされたことが近賀の躍進のきっかけになった。そして、近賀をここまで支えた心の絆も、なでしこジャパンで育まれたもの。過去に時間を遡り、語りながら思わず静かに流れた近賀の涙にはすべてが詰まっていた。
【「女子サッカーを知ってもらいたい」が原動力だった】
――なでしこジャパンにおける一番の思い出は?と、引退発表後の取材で聞かれて2011年のW杯と答えていましたが、あえて決勝以外の場面を挙げるとするなら何が思い浮かびますか?
近賀ゆかり(以下、近賀)試合じゃなくてホテルでのことです。自国開催で優勝に燃えていたドイツに準々決勝で(丸山)桂里奈の延長ゴールで勝ったあとくらいに、「この大会、何か勝てそうな気がする」っていう話をしていたら、別グループからも「こっちでもそれ話してたんだよね」って聞いて驚くことがあったんです。あの勝ち方をしたことで、初めて世界大会で上にいける!ってみんなが思っていたんです。ああいう感覚を手応えというのかと、初めてのことだったので覚えています。
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――劇的勝利を繰り返しての優勝で2011年にビッグウェーブが起きました。翌2012年のロンドン五輪で史上初の銀メダルを獲って、次のW杯もファイナルまで行くという。あの大渦のなかで近賀さんはどんなことを思っていたんですか?
近賀 当時もよく周りから「燃え尽き症候群みたいにならないの?」って聞かれたんですよ。でも2011年に優勝して燃え尽きた人って、あのメンバーの中にいるのかな?って思うんです。いないんじゃないかな。だから、全然優勝したことにプレッシャーは感じていなくて、また上にいきたい、勝ちたいって気持ちの高まりしかなかったです。
プレッシャーがないというか、自分たちが強いチームになったって感覚がないから(優勝した者としての)プレッシャーはないという感覚。まだまだ強豪国に勝たないといけなくて、自分たちが上にいるっていう気持ちはなかった。だから逆に言うと、(負けてしまった2016年の)リオ五輪予選は"勝たなきゃいけない"もので、そのプレッシャーはすごいものがありました。
――リオ五輪の出場を逃したことは確かに国内の女子サッカーの人気に陰りを落とすきっかけのひとつにはなったとは思いますが、あくまでもいくつかあった理由のひとつ。受け止め方もそれぞれですよね。宮間あやさんはかなり長くその責任を背負っていましたし、岩渕真奈さんは「そんなのはあとのチームの責任だから、先輩たちが背負うことじゃない!」って断言していました。近賀さんの受け止め方は?
近賀 悔しいし、責任も感じていましたけど、確実に言えるのはあや(宮間)ほどではないけど岩渕ほどでもないってこと(笑)。でも、当時は今以上にマイナー競技だったから、女子サッカーを知ってもらうためにっていうのは原動力になっていました。それが(当時の)"なでしこジャパン"だったし、そういう想いが強かったから、ドイツ大会のときのようなチームが生まれたとも思うんです。
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――それがあのチームには欠かせない資質でしたね。そのなかで近賀さんが培ってきたものがサイドバック力。印象に残る対決相手はいますか?
近賀 アメリカのミーガン・ラピノー選手と、ブラジルのクリスチアーニ・ロゼイラ選手は別格でした。ラピノーはタテ突破してクロスも、カットインもあって、めちゃくちゃ対応が難しかったです。だけど同じピッチに立っていて楽しいというか、どうやったら抑えられるのかとかめちゃくちゃ考えました。クリスチアーニは左(足)ってわかっていても、止めるのは無理っていうすごさがあった。足だけでなくヘディングもあったので。
そういう人たちを止めるために唯一有効だったのが、自分がオーバーラップすることだったんです。どれだけサイドで自分がこの人たちを持ち場に帰らせるか。自分の陣地に来させないか。サイドは常に(スペースの)取り合いでしたよ。自分を優位に進めるにはリスクはあっても自分のことをどれだけ相手に気にさせるかが大事だから。そういうのが自分のプレースタイルにも合っていたんだと思います。
【有吉佐織とのライバル関係】
――いつの時代もサイドバックは人材不足なイメージですが、2011年から2016年あたりは有吉佐織選手が一気に伸びて、近賀さんとはライバル関係にありました。
近賀 キング(有吉)は自分のなかではすごく大きな存在なんです。それは今も変わらず。
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――それ、本人に言ったことあります?
近賀 どうだろう? 最後の試合で言ったと思います。
――これまでにも有吉選手と近賀さんの話をする機会が何度かあったんですが、彼女の近賀さんに対するリスペクトは半端ないですよ?
近賀 えっ! 自分が一方的にリスペクトしていると思っていました。最後の試合が新潟戦でうれしかったのはキングがいたからっていうのも大きくて、あまりにリスペクトが強すぎて、何も要求もされていないのに最後に着ていたユニフォームをキングに押し付けて帰ってきました(笑)。
――これは、2人が出ていた2015年W杯カナダ大会の話を聞かせてもらわないといけませんね(笑)。
近賀 確かに(笑)。当時、キングとはポジション争いをしなきゃいけない関係で、最初は私が出ていて、そのあとキングが出るようになったとき、本来ならこんなに応援しちゃいけないんだろうなって思うくらい、悔しいのにベンチから本気で応援しちゃっていました。
――大会の最中ですら、「キングの活躍がうれしい」って近賀さんは言っていましたよ。
近賀 あの大会は自分としてもめちゃくちゃ悔しかったんですけど、キングがすごく結果を出したじゃないですか。それは本気でうれしかったんです。これはよくないことだと思うんですけど。もちろん自分としても諦めずに全力でやっていました。そうでないとキングに失礼だし、それは、キングが控えに回っていたときにしてくれていたことだったから。
自分が出ていたときも、キングには「ここはどうやって抑えたらいいと思う?」「こういうやり方はどうだろう?」っていろいろ相談していました。普通はライバルとはそういう話はしないのかもしれないけど、世界と戦うなでしこジャパンの右サイドバックとして課題を共有するのも克服するための相談ができるのも、同じポジションのキングしかいないじゃないですか。
――近賀さんたちの関係って、近賀さんがなでしこジャパンに初めて入った頃の状況に似ていますね。
近賀 それです(笑)。あの頃、出られなくなってきていたごみさん(加藤與恵)の代わりに出始めたボランチ初挑戦の(阪口)夢穂に、自分がやってきたことを伝授しているごみさんの姿だったり、柳さん(柳田美幸)がチームのためにしている接し方とかを見ていて、「この人たちすごいな。簡単にできることじゃないな」って思っていたんですけど、キングにも同じことを感じたんですよね。だから自然とこういう関係になれたんだと思います。
【なでしこジャパンは特別】
――ラストマッチで近賀さんよりも泣いていた有吉選手の姿を見ても、その感慨深さが推し量れます。今、あえてお伺いします。近賀さんのポジションはどこですか?
近賀 右サイドバックです!
――思い描いていたサイドバックになれました?
近賀 なれたとは言いきれないけど、自分らしいサイドバックだったとは思います。それを表わすのがオーバーラップ。特別足が速いわけではないけど、スピードのある選手を相手にしても裏を取れる自信はありました。サイドバックになったから、このサッカー人生があったと思っています。
――そう思えるまでに、いろんな先輩たちと一緒に戦った道のりがありました。「顔を見ただけで泣きそうになる」という、引退セレモニーにもかけつけてくれた当時のなでしこジャパンの面々ですが、その泣きたくなる感情に名前をつけるとしたら?
近賀 なんでしょうね。とにかくすべて"特別"なんです。説明できないこういう感情を"特別"って言うんじゃないかな。なでしこジャパンって、私にとっては目指していた場所とかではないんですよ。絶対に代表に入りたい!とかではなくて、あの先輩や後輩たちとサッカーをするのが大好きで、しいていうなら"居たい場所"でした。
――2004年のアテネ五輪後に近賀さんはコンスタントに代表入りするようになりましたよね。アテネ五輪は初めてのアジア予選が開催されて、澤穂希さんはヒザの半月板を割りながら出場して、初めて北朝鮮を破って出場権を掴むというドラマのあるチームでした。「みんなアテネのチームはよかったって言うけど、今のチームもそれに負けないチームだって思ってもらえるようにしたい」って21歳の近賀さんが言っていたのを思い出しました。
近賀 言った!言った! 本当にあのメンバーが大好きだったんですよね。
――あの頃の近賀さんの姿は、今のレジーナの選手たちと通じるところありますよね。例えば、近賀さんが復帰した試合で、柳瀬楓菜選手がゴールを決めてベンチに下がっていた近賀さんのところに走っていったじゃないですか。あの姿が、サイドバックをやり始めた頃、隣にいたセンターバックの池田浩美(旧姓・磯崎)さんに初めてラインコントロールを成功させて褒めてもらったときの近賀さんのようで、ベンチで待ち構える近賀さんは、池田さんと同じ表情をしていました。
近賀 そうだとしたら、うれしすぎます。ちょっと今......私ヤバイです(涙)。このインタビューの最初にレジーナの選手たちが私に怒られたって言ってくれていたの、実はうれしいんです。自分も怒られながら先輩に引っ張ってもらって、そうしてくれた人たちのことが今でも大好き。だってなんにもわからないなかで、初めて磯さん(池田)に褒められたときのこと、今でも覚えているんです。
――ちゃんとつながっていますよね。選手としてはやり尽くしたと言っていましたが、これからはどんなことがしたいですか?
近賀 大好きなパン屋巡りもしたいけど、まずはいろんなサッカーが見たいです。日本国内外、男女問わず、いろんなチームの練習に行きたいです。練習を見るの、好きなんですよね。監督の思想っていうかチームカラーも含めて全部、練習に出ません?
――指導者に興味があるんですか?
近賀 あるけど......指導者は違うでしょって言ってる自分もいる(笑)。優秀な参謀がいなきゃ無理です。だってかなり適当ですもん、私(笑)。今はただ、いろんな人の練習が見たい。Jリーグも全チーム見に行きたいくらいです。Youtubeチャンネルを開設して、練習見学企画を仕事にしようかな(笑)。
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なでしこジャパンとして、前に進み続けてきた年月があったからこそ、近賀は輝きを増していった。2011年のW杯優勝をきっかけに、取り巻く環境もすべてが変わったあとも、近賀がブレたことは一度もない。その根底には先輩から受け継いだ想いがあり、時を経てそれは今、サンフレッチェ広島レジーナへと確かに引き継がれている。
次なる目標は、「レジーナの試合でピースウィングを満員にすること」だという。近賀ゆかり第2章のプロローグはすでに描かれ始めているようだ。
Profile
きんが・ゆかり/1984年5月2日生まれ、神奈川県出身。
2003年に日テレ・ベレーザに入団し、FWとして新人賞を獲得。7年在籍後、INAC神戸レオネッサ、アーセナル・レディースFC(イングランド)、メルボルン・シティWFC(オーストラリア)など、国内外のチームで経験を積んだ。2021年には、新設のサンフレッチェ広島レジーナの初期メンバーとして入団し、キャプテンとしてチームを牽引。3年目にはチーム初タイトルとなるWEリーグカップを制覇した。
なでしこジャパンとしては、2004年のアテネ五輪にバックアップメンバーとして登録され、コンスタントに招集されるようになった。2007年にサイドバックにコンバートされてからは、不動の右サイドバックとして活躍。2011年ドイツW杯優勝、2012年ロンドン五輪銀メダル、2015年カナダW杯準優勝に貢献した。