
巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄氏が6月3日、都内の病院で肺炎のため死去した。89歳だった。「ミスタープロ野球」と呼ばれる存在は、功績とともに多大な影響力を持ち、プロ野球を大衆娯楽から国民的スポーツへと押し上げた、まさに偉人であった。そんな長嶋氏と三遊間を組んでいた広岡達朗氏が、在りし日の長嶋氏の思い出を語ってくれた。
【ホームスチール事件】
「長嶋は立教(大学)時代、監督の砂押(邦信)さんに鍛えられたこともあって、入団してから4年間はほんとにうまかった。まず、ボールに対して直線的に入って捕球する姿には、目を見張った。ところが5年目以降は、初回の守備についてからショートのオレに近づきながら、『ヒロさん(広岡)、ヒロさん、今日動けませんのでよろしく』ってこっそり言ってくるんだ。ほんとに動きやしない。まいったね。動けない理由はタニマチだよ。毎日、タニマチに連れて行かれなきゃなぁ」
ダイナミックで華やかな長嶋と、堅実で静かな広岡。対照的なふたりだが、共通点といえば、どちらも東京六大学のスターだったことだ。長嶋より4歳上の広岡は、早稲田大で「貴公子」と呼ばれるほどの人気を誇っていた。
一見、水と油のように見えるが、人懐っこい長嶋が「ヒロさん、ヒロさん」と慕ってくるものだから、広岡もかわいがった。
そんなふたりの間に"亀裂"が入った事件があった。
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広岡のプロ11年目に起きた「ホームスチール事件」だ。
1964年8月6日、神宮球場での国鉄(現・ヤクルト)対巨人の一戦。巨人の先発は伊藤芳明、国鉄は金田正一で始まったナイトゲーム。
この日の金田は、早いテンポから繰り出すストレートに威力があり、さらにブレーキ鋭いドロップが面白いように決まるなど、6回まで巨人打線を完璧に抑えていた。ヤクルトの2点リードで迎えた7回表、巨人はようやく反撃に出て、一死三塁のチャンスを得た。
三塁ランナーは長嶋、打席には6番の広岡が入った。カウント2ストライクからの3球目だった。金田がセットポジションから足を上げた瞬間、スタンドにいる観客がワーッと騒ぎ出した。ランナーの長嶋が猛然とホーム目がけて突進し、足からスライディング。土煙のなか、キャッチャーミットと交差する。
「アウト!」
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球審の手が高らかに上がった。
無謀とも思えるホームスチール。まさかの奇策に、バッターの広岡は逆上した。体中の血が沸騰し、バッティングどころじゃない。そして広岡は次のボールを怒りに任せてフルスイングし、空振り三振。バットを地面に思いきり叩きつけた。
三振したことが悔しかったわけじゃない。不可解な采配に怒りをぶつけたのだ。2点差での7回ワンアウト三塁。外野フライ、もしくは緩い内野ゴロでも1点入るケースで、ホームスチールなどあり得ない。
「よほどオレのバッティングを信用できないのか......」
【試合中にまさかの帰宅】
屈辱にまみれた広岡は首脳陣を見向きもせず、そのままロッカーへと直行して帰宅したのだ。試合放棄である。広岡のなかには、監督の川上哲治が長嶋にしかわからないサインを出したとしか思えないという確信があった。
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「ふたりだけのサインなんて、そんなのは野球じゃない。怒るのは当たり前だ。長嶋はいいヤツだから、サインどおりにやっただけ。あとでどうなるかなんてことは考えてないから。問題は川上さんよ。オレを嫌うのはいいが、こんな仕打ちをするのかという怒りと苛立ちで、そのまま家に帰ってやったよ」
この一件以来、広岡と長嶋は険悪な雰囲気となり、仲違いしたというのが通説になっているが、じつは根も葉もない噂である。
もともとクールな広岡はこの仕打ちでさらに口を閉ざすようになり、チームメイトは近寄りがたくなってしまった。怒りの矛先は監督の川上だったのに、チームメイトは長嶋にも向けられていると勘違いしたのだ。
「ああ見えて長嶋は利口なヤツだから、表向きはオレと距離をとっているように見せていたが、実際は『ヒロさん、今日の夜空いていますか?』と一週間に一度は誘ってくる。あいつなりに気を遣っていたんだろう。毎晩のようにいろいろなタニマチが飲みに連れて行くから、長嶋も大変だったと思う。オレも連れて行かれたことがあったけど、まあすごいわな」
何がどうすごかったのか、広岡は口を割らなかったが、日本の中枢を司る財界人からきらびやかな映画スターといった社交界は、まさに現代の竜宮城だったのだろう。
「結局、試合中に家に帰ったことで、オレと川上さんとの間の溝はますます深くなり、66年に引退することになる。この時、オレのところにあいさつに来たのは、長嶋と森(祗晶)だけ。裏で川上さんが『見送りなんかするんじゃないぞ!』とでも言って、圧力をかけていたんだろう。丁寧に教えてくれたヤツがいたから、間違いない。
でも長嶋は『ヒロさん、13年間お疲れ様でした。これ、ヒロさんが大好物って言っていたから』と、ハチミツをくれた。オレ、ハチミツが好物なんてひと言も言ったことがないし、好きでも嫌いでもなかった。まあ、ありがたくいただいたけどな」
なにより広岡は、権力に屈しない長嶋の律儀さに感心したという。
【引退後も続いたふたりの交流】
そんなふたりは、互いに引退してからも交流は続いた。
1988年に『日米ベースボール・サミット』を開催するにあたって、主宰の広岡は長嶋のブランド力がどうしても必要で、正直に「ぜひとも成功させたいから、おまえのネームバリューを使わせてほしい」と話すと、「ヒロさん、全然いいですよ」と快諾し、長嶋はアンバサター的な立ち位置で盛り上げてくれたという。
「オレが頼みごとをすると、いつもあいつは嫌な顔をせず『いいですよ』と言う。ほんと、かわいいヤツだったよ。先輩である千葉(茂)さんが、巨人のブランドを圧倒的に示すために、オレを(巨人の)監督にして、長嶋をヘッドコーチにするという構想を持っていたらしいけど、もしオレが監督になっていたとしても、長嶋をヘッドコーチに置かないよ。ヘッドコーチを勘でやられたらたまらんからな(笑)」
広岡にとって長嶋は、最後までかわいく憎めない後輩だったのだ。