
1968年1月生まれの筆者に、スーパースター・長嶋茂雄が現役だった頃の記憶はない。1974年10月14日の引退試合でのあいさつがその後、繰り返しテレビで流されたが、生中継は見ていない。
その後、私は1986年4月に立教大野球部に入部し、2学年上に長嶋一茂がいた。その頃の長嶋茂雄は、読売ジャイアンツの監督から退き、"浪人中"の身だった頃だ。
もちろん、選手として華々しい成績を残し、監督としても栄冠を手にしてきたことは知っている。立教大学の先輩である徳光和夫らが語る"伝説"を通して、その人柄や器の大きさも伝え聞いていた。
しかし、「ミスタープロ野球」と呼ばれた男の現役時代を知らない昭和40年代生まれの元野球部員としては、野球選手としての長嶋の本当のすごさを知りたかった。そうして2024年8月に、『週プレNEWS』で「長嶋茂雄は何がすごかったのか?」という連載が始まった。目指したのは、監督としてでもなく、文化人としてでもなく、昭和の偉人としてでもない、「野球選手・長嶋茂雄」の実像に迫ることだった。
取材の対象は、現役時代の長嶋をよく知る野球人。ライバルやチームメイト、教え子たちに会い、「長嶋茂雄の何がすごかったのか?」を聞き続けた。最高齢は1933年生まれの土井淳(元大洋ホエールズ)と佐々木信也(元高橋ユニオンズ)だった。
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【魅せる野球なんて考え方はなかった】
長嶋が立教大に入学した1954年、土井は明治大の3年生だった。秋山登(元大洋ホエールズ)とのバッテリーで活躍していた土井は、下級生時代の長嶋についてこう語る。
「『おっ、立教にいい選手が出てきたな』と感じさせたのがピッチャーの杉浦忠(元南海ホークス)、内野手の長嶋と本屋敷錦吾(元阪急ブレーブス)だった。3人とも、ものすごい選手になると思ったよ」
長嶋は素材のよさを認められていたものの、レベルの高い東京六大学ですぐに数字を残すことはできなかった。1年生の春は打率.176(17打数3安打)、秋は打率.158(19打数3安打)。レギュラーになった2年生の春も、打率.170(47打数8安打)に終わっていた。
「我々が入学する前の東京六大学は、早稲田大学が強くて、その次が明治。そのあとに立教の時代になるんだけどね(リーグ4連覇)。オレが4年生だった時、ちょうど長嶋が2年生の秋で"ぐんと伸びてきたな"という印象があったよ」
立教が2位となった1955年の秋季リーグ戦で、長嶋は打率.343(リーグ3位)、本塁打1本、打点12(リーグ1位)という成績を挙げ、ベストナインに選出された。
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「もう、それまでとは別人のような活躍ぶりだったよね。でも、プロ野球に入ってから見せたような派手なプレーはまったくなかったよ。当時は、『東京六大学こそが日本野球の本流だ』という意識を、みんなが強く持っていて、『魅せる野球』なんて考え方はなかった。派手なプレーなんて許されない、そんな空気だったんだ。とにかく、『学生らしくあれ』と言われていた時代だったね」
プロ野球選手を引退後『プロ野球ニュース』(フジテレビ系)のキャスターとして人気を集めた佐々木は、慶應大を代表するスター選手だった。
佐々木が言う。
「長嶋は1年生の時からガムシャラにプレーしていました。印象としては、そのあとも変わりませんでしたね。いつも一生懸命」
1955年秋のシーズン、大ブレークした長嶋は二塁手の佐々木とともにベストナインに選ばれている。
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「大学時代の長嶋で忘れられないのは、そのシーズンのあとに日本代表として一緒に戦ったアジア選手権ですね。フィリピンのマニラで開催された大会。ベイビューというホテルの301号室に長嶋とふたりで泊まりました。2週間ほど一緒だったのかな......」
【すべてが全力投球】
1955年秋のリーグ戦後に開催されたアジア野球選手権大会には、東京六大学の選手16人によって編成された日本代表が出場した。監督は明治大学の島岡吉郎。立教からは、2年生の杉浦と長嶋が選出されていた。
佐々木はすぐに長嶋の"らしさ"に驚かされることになる。
「部屋に入るなり『よろしくお願いします』と礼儀正しくあいさつしてくれました。ホテルに着いたのが夜の10時くらいだったから、『寝ようか』ということになってベッドに入ったんですよ。すると、10分もしないうちにドスンというものすごい音がした。長嶋がベッドから落ちたんですよ。驚いて『大丈夫か』と聞いたら『大丈夫です』と言うんだけど、何分もしないうちにまたドスンですよ(笑)。本当に粗忽(そこつ)な男ですよ。でも、ちっとも憎めない」
その時の日本代表では、長嶋が三塁手で、佐々木が二塁手だった。
「ゲッツーの時、サードから送られてくる球が速くてねえ。グラブをはめた手が腫れあがるほどでした。『シゲ、いいかげんにしろ。手加減しろ』と言うんだけど、ものすごいボールを投げてくる。長嶋は力の加減ができないからしょうがない(笑)。すべてが全力投球です。それもどこに投げてくるかわからない。本当に肩が強かった。あんなすごい送球をするのは長嶋だけでしたよ」
その時、日本代表のキャプテンを務めたのが土井だった。
「当時、フィリピンはアメリカの影響を強く受けていたから野球も強かった。社会人野球の選手が出場しても勝てないから『東京六大学でいこう』となったんだよ。オレはキャプテンを任されていたからみんなのことをよく見ていたけど、長嶋も後輩らしくテキパキ動いていたよ。もちろん、文句も言わずにね。明治の島岡の厳しさはよく知られているけど、立教の監督だった砂押邦信も島岡に負けないくらいにスパルタ指導だったらしいね。長嶋も鍛えられていたから、島岡とのコミュニケーションもまったく問題なかった」
【どれだけすごい選手になるんだろう】
土井が大洋ホエールズに入団した1956年。大学3年になった長嶋は、春季リーグ戦で首位打者になった(打率.458)。
「長嶋は2年秋に初ホームランを打っているんだけど、下級生の頃はホームランバッターというイメージはなかった。ただ未完成だけど、『どれだけすごい選手になるんだろう』と思わせる選手だったことは間違いない。あの頃は神宮球場が今よりも広くて、ホームラン自体が少なかったから。『神宮でホームラン=すごい』という感じだったね」
長嶋に無限の可能性を感じたのは、佐々木も同じだった。
「大学時代から、野手ではひとりだけ飛び抜けていましたからね。プロ野球でも当然、活躍するだろうと見ていました。立教の時からそれだけの実力がありました」
4年の秋、長嶋は大学生として最後の試合となる慶應大との2回戦でホームランを放ち、当時の通算本塁打記録(8本)を塗り替えてプロ野球へと戦いのステージを移した。
「長嶋は自分の世界というか、スタイルを持っていたからね。特にバッティングは見事。いい振りをしていて、とにかくシャープ。打球の鋭さは相当なものでした。相当、バットを振り込まないと、あんな打球は打てない」(佐々木)
長嶋はプロ1年目の1958年、巨人の背番号3をつけて打率.305、29本塁打、92打点、37盗塁を記録して、"ミスタープロ野球"への道を歩み始めた。
文中敬称略