
語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第13回】大西将太郎
(啓光学園高→同志社大→ワールド→ヤマハ発動機→近鉄→豊田自動織機)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
第13回は、2007年ワールドカップのカナダ戦で終了直前の同点ゴールを決めた名手CTB大西将太郎を取り上げたい。大阪・東大阪市出身で、高校、大学、社会人と、常に関西ラグビー協会所属のチームでプレーを続けた「花園の申し子」でもあった。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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「ジャポン! ジャポン!」
スタンド中から湧き上がった大声援のあと、フランス・ボルドーのスタジアム「スタッド・シャバン=デルマ」は急に静まりかえった。
観衆が見守る視線の先には、右タッチライン近くに立つ大西将太郎の姿。ホイッスルが鳴り、大西が狙いすまして右足を振り抜くと、ボールはゆっくりと放物線を描いてポールの間に吸い込まれていった。
2007年9月25日、第6回ラグビーワールドカップ。ジョン・カーワンHC(ヘッドコーチ)に率いられた日本代表はすでに3連敗を喫し、最終戦となるカナダ戦を迎えていた。
試合は後半ロスタイム。日本はカナダに対して5-12の7点ビハインドを背負っていた。しかし、最後の最後で日本は見事な連続攻撃を見せて、平浩二がインゴール右隅に飛び込み2点差。そこからの難しい角度のコンバージョンを、大西が見事に決めて12-12でノーサイドとなった。
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1995年大会から続く、日本代表のワールドカップ連敗記録が13で止まった瞬間だ。
「ラグビーキャリアのなかで、あれはハイライトのひとつ。あのゴールが、勝負弱かった自分を変えてくれた」
歴史的瞬間を振り返ってもらうと、大西はこう答えた。
【人生を変えた花園での敗戦】
大西は2003年ワールドカップの候補メンバーに選ばれながらも、残念ながら出場機会は訪れなかった。それだけに「2007年大会はどうしても出たい」という思いは強かった。
「苦労して日本代表に入った今までの思いと、そして初めてワールドカップの舞台に立った喜び、それらが入り混じった気持ちを味わうことができましたね」
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大西は身長180cm、体重90kgと、CTBとしては決して大きくない。だが、彼のプレーを思い返せば、チームのために体を張ってタックルを繰り返す姿が鮮明に蘇ってくる。
花園ラグビー場のある東大阪市の布施ラグビースクールで、大西は小学3年から楕円球を追い始めた。自転車で行ける距離にあった花園は、大西にとって大切な場所。14歳の時に亡くなった父と一緒に、よくラグビー観戦に訪れていたという。
中学からは当時の強豪・啓光学園(現・常翔啓光学園)に進学。高校3年生の時には全国高校ラグビー大会「花園」で決勝進出を果たす。しかし、ロスタイムに愛知・西陵商(現・西陵)のトライを許して逆転負けを喫し、大西は思い出の花園で大粒の涙を流した。
「(トライ後の)相手のゴールキックはポストに当たったんですけど、そのまま入ってしまって逆転負けしました。花園の決勝で勝てなかったことが、その後も『常に日本一になりたい』という気持ちを持たせ続けさせてくれた」
花園での悔しい経験が、大西のラグビーキャリアにとって大きな原動力となった。
高校卒業後は関東の強豪大学を選ばず、「小さい頃からの憧れだった」同志社大に進学。紺とグレーのジャージーに袖を通し、「打倒・関東」を掲げた。最終学年にはキャプテンを務めて関西大学Aリーグ連覇を成し遂げ、大学選手権でも2年連続ベスト4に進出する。しかし、目標とする日本一には届かなかった。
同志社大時代、大西はSOでプレーしていた。大学4年の2000年5月には代表初キャップを獲得。同志社大の先輩になぞらえて「平尾誠二2世」とも呼ばれた。
【花園のピッチがよく似合う】
大学卒業後も、大西の進路は一貫していた。「関東」の強豪クラブは選ばず、常に「関西」に軸足を置いた。
2001年からワールドファイティングブル(現・六甲ファイティングブル)でプレーし、2006年にはヤマハ発動機(現・静岡ブルーレヴズ)に移籍。2009年からは地元・花園がホームの近鉄ライナーズに加入した。さらに2013年、大西は「花園で引退するか悩んだ」結果、現役続行を決めて豊田自動織機シャトルズへ。常に関西ラグビー協会所属のチームでプレーし続けた。
大西のラストダンスは2016年1月23日。関東の強豪サントリーと戦う舞台は、やはり花園だった。
「自分が生まれ育った花園。始まりも、終わりも、花園です。最後の舞台でも、いつもどおりいっぱいタックルして、いっぱい起き上がって、全力で試合に臨みたい」
大西は最後まで、ファンの心を打つプレーを続けた。
後半途中から出場し、タックルを繰り返し、コンバージョンゴールも決めた。大西の一挙手一投足を見守るファンの誰もが「時間よ、このまま止まれ」と思った。
そして、ノーサイド。大西を胴上げするために、敵も味方もなく皆がピッチに集まった。目を赤くして笑う大西の姿を見て、「やはり花園のピッチがよく似合う」と思ったファンも多かったに違いない。
現在、大西はラグビー解説者・指導者として多方面で活躍中だ。現役引退後、大西に「ラグビー人生で一番印象に残っているシーンは?」と聞いたことがある。カナダ戦のコンバージョンキックと答えるかと思った。だが、そうではなかった。
大西が挙げたのは、カナダ戦と同じ2007年ワールドカップの第2戦フィジー戦。LOルーク・トンプソン(当時)がトライを決めたあとのシーンだという。
「試合前に誰も、何も言っていないのに、トライ後に全員が自然と(トンプソンのもとに)集まった。あれが本当のラグビーのよさ、醍醐味なんだと思いました。
今まで何百試合と経験してきましたが、あんなにひとつの塊(かたまり)になって、みんなで喜んでというのは初めての経験だった。一番好きなシーンです」
最後まで「個人」ではなく「チーム」に重きを置く、大西らしいチョイスだった。
【ラグビーは大西のすべてだった】
花園でブーツを脱いだ日、大西はこう語った。
「いつかはこんな日が来ると思ってはいましたが、さよならはさみしいものです。しかし、悔いはありません。毎日、毎試合、出しきってきたので」
約30年間の現役生活、すべてを出しきった大西に「後悔」の二文字はなかった。そして、こう締めくくった。
「ラグビーは大西のすべてだった」
夕闇のなか、「花園の申し子」はスタジアムをあとにした。