来日したカレカ氏 ミズノの人気サッカースパイクシリーズ『MORELIA(モレリア)』が2025年で誕生40周年を迎えている。
プロ・アマ問わずに長く愛されているシリーズだが、全世界で認知が拡大したのは誕生翌年の1986年メキシコワールドカップでブラジル代表FWカレカが使用したことにある。この大会でブラジル代表の初陣となった6月1日は“モレリアの日”としてミズノも定めており、ミズノとカレカは切っても切れない関係にある。
この度、モレリア40周年に合わせてカレカ氏が来日。改めてモレリアとの思い出を語った。
ミズノとの出会いはカレカ氏がサンパウロに在籍時代。1984年に加入してきた日本人FW水島武蔵氏がミズノ製品を着用していたことが目に留まり、「武蔵さんの足元を見て、素晴らしいシューズがあったので、プレゼントしてほしいとお願いしたんです。履かせてももらったんですが、その時から恋に落ちましたね」と笑顔で当時を振り返り、「モレリアの世界デビューは86年のメキシコW杯。そして私は87年にナポリへ移籍しました。そこからモレリアの世界への伝道師としての活動が始まったんです。当時、ナポリは世界でもトップクラブの一つでしたし、注目が急速に高まりました。ディエゴ・マラドーナやジャンフランコ・ゾラの目にも触れ、世界各国のトッププレーヤーにも浸透しました。実は先日、イタリアでレジェンドマッチがあり、ゾラも一緒にプレーもしたんですが、彼ももちろんモレリアを履いていましたよ。当時から続く、ミズノへの彼の愛も確認してきました」と冗談を交えつつ、モレリアの歴史をなぞっていく。
カレカ氏はナポリ退団後の1993年に来日。当時Jリーグ参入を目指していた柏レイソルに加入する。
「人生の中でも日本では素晴らしい時間を過ごしました。4年間、柏でプレーしましたが、長女、次女、長男の全員が地元の公立学校に進学したんです。インターナショナルスクールに入ることを勧められたんですが、日本文化を学ぶいい機会だと思ったので。長女は今でも日本語を話せますし、契約が終わってブラジルに帰国する時、妻ももっと日本にいたいと残念がっていました。それくらい日本の皆さんと親しくさせていただいたんです。サンパウロにも多くの日本からの移民の方がいて、身近であることも含め、日本文化へのリスペクトや愛着は当時も、今も感じています」
当時を振り返り、時折笑顔になりながら、昔も今も日本に対してのポジティブな印象は変わらない様子を見せた。
日立製作所サッカー部を母体としてJリーグ参入を目指した柏レイソルだが、1993年のJFLでは5位で終わり、Jリーグカップでも得失点差で決勝トーナメント進出を逃し、1994年からのJリーグ参加は叶わず。それでも1994年のJFLを2位で終え、1995年からのJリーグ参入を果たしている。カレカ氏は1993年秋、黄金時代を築いたナポリから、まだJリーグ参加が決まっていない柏にやってきた。
カレカ氏は、「当時8万人の観衆に囲まれてプレーしていたところから、200人の観衆の前でプレーする環境を選んだんです」と笑いつつ、「大きなチャレンジでした。元ブラジル代表のゼ・セルジオが柏の監督をしていて、Jリーグに昇格するミッションがありましたが、最初の年にその目的は果たせませんでした。契約では昇格できなかった時、チームを離れることもできたんですが、日本の皆さんに対する責任もあり、残留して、Jリーグに上げるまでは離れない決意のもとにプレーして、昇格を果たしました。皆さんが私を信頼してくれ、私も信頼に応えるべく、一生懸命プレーして、多くのチームメイトも日本代表になりました。柏での成長がそういった成果をもたらしたことをうれしく思っています。これも私にとっての大きな誇りです。当時は外国籍選手が3人までしかプレーできなったので、私たち外国籍選手が日本人選手を必要する意味合いが、日本人選手が外国籍選手を必要とする意味よりも強かったんです。私たちは日本の選手をすごく必要としましたし、彼らとのコミュニケーションやサポート、成長が結果につながるという思いでチームと向き合っていました」と土肥洋一氏、沢田謙太郎氏、下平隆宏氏、加藤望氏など活躍した選手名も挙げつつ、まるで今起きている出来事かのように語ってくれた。
現役時代や自身が10代の頃、ブラジルでの特に子どもたちのサッカー環境は、今ほど整ってはいなかった。そのことをカレカ氏に向けると、苦労する環境の中でも成長をあきらめなかった姿勢を示す。
「当時のスパイクのソールは現在のように貼っているのではなく釘で、よくプレー中に飛び出して、足に刺さってケガをすることもありました。スパイクの中にものを入れ、釘を押し戻してプレーを続けたりしていましたね。でも、ミズノの靴は当時からスペシャルな糊で貼ってあり、その必要がなかった。道具自体のクオリティが高かったですし、そもそも道具が常に買えるようなものでもありませんでした。釘も出ず、柔らかく、足への負荷も少なく、2年使ってもまだ十分使える。スパイクも当時は硬く、最初は必ず足に水ぶくれができてしまいました。私も13、4歳のころはスパイクを買うお金がなかったですが、トップチームの選手が、新しいスパイクを柔らかくしてから履きたいということで、若い選手に最初は履かせていたんです。それでもすごくうれしかったですね。試合から1週間はビーチサンダル生活でしたけどね」
現在は10代のお孫さんが3人、サッカーをやっているそうで、「モレリアを持って帰ってプレゼントするんですが、ずいぶん時代も変わったということですね。世代でサッカー環境もどんどん変わってきていると私も感じています。3人にはサッカーで成功してほしいですね。どこまで行けるかはわからないですが、1人でもトップレベルに進んでくれたらうれしいです」と、最後は祖父としての表情を見せてくれている。
取材=小松春生