
サッカー日本代表でもっとも多くのゴールを挙げているのは誰か。それはこの4月で81歳になった釜本邦茂氏だ。1968年メキシコオリンピック得点王、国際Aマッチ76試合出場75ゴール、日本サッカーリーグ通算202ゴール。伝説のストライカーは何がすごかったのか。実際に対戦経験のある元日本代表DF都並敏史氏とベテランジャーナリストの後藤健生氏が語る。
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【センターサークルをちょっと越えたあたりからドン!】
後藤 都並さん、釜本さんと対戦したことはあるんですか?
都並 あります。日本リーグ時代と、(ヴォルフガング・)オベラートやペレが来た釜本さんの引退試合(1984年)。あれに僕は出ていて、目の前で釜本さんにやられてますから。
後藤 最初に"見た"というのは、もう子どもの頃からですよね?
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都並 見てましたね。当時、三国対抗戦というのをやっていて、国立競技場に見に行ったんですよ。それでセンターサークルをちょっと越えたところから、「ドーン!」ってシュートをぶち込んだのを見たのが初めてですよ。
あと中学生の時の日韓定期戦(1974年)ですね。ネルソン吉村(吉村大志郎)さんが中盤にいて、日本が4−1で韓国に勝ったんです。後藤さんはいつ見たんですか?
後藤 最初は天皇杯かな。決勝で早稲田大学が東洋工業に勝って、大学が優勝した最後の大会(1966年度)になっているんだけど。
都並 いちばん覚えている釜本さんの強烈なシーンは何ですか?
後藤 覚えているのは、やっぱりメキシコオリンピック(1968年)。ナイジェリア戦でいきなりロングシュートをたたき込んだ。
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都並 はい、はい。それも僕が言ってたセンターサークルをちょっと越えたあたりからドンって打つヤツですよ。
後藤 あとは日韓定期戦の第1回大会(1972年)。1−2で負けていて、後半の今で言うアディショナルタイムに、GKの横をコロコロって抜くシュートを入れて引き分けに持ち込むんだよね。あれは結構好きだな。
都並 へえー。そうなんですね。
後藤 あと思い出した、もうひとつ! ヘディングシュート。トッテナムが来て神戸でやった試合(1971年)があって、釜本さんが強烈なヘディングシュートを打ったんだけど、GKのパット・ジェニングスが横っ飛びで防いだシーン。シュートもすごかったし、セーブもすごかった。
都並 パット・ジェニングス! 覚えてます。懐かしいな。
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釜本さんのヘディングは、まずジャンプ力があるのと飛ぶタイミングがいいから、写真で見ると、いつも高く飛んでいるDFのその上で止まってる感じで打っている。なんかいつも同じ形の写真でしたよね。
後藤 滞空時間が長いというか、本当に空中で制止して、狙いすましてヘディングするという感じだった。
【右45度とニアと見せて後ろへ引く動き】
都並 僕は金田喜稔さんと一緒に釜本さんに直接お話を聞いたことがあるんです。あの右45度からのシュートをどのように習得したのかと。ドイツに行った時にエウゼビオのビデオを手に入れて、もう擦りきれるくらい見たとか。
後藤 ザールブリュッケンに留学した時に、クラブにビデオだかフィルムがあって、それをずっと見ていたという話ですね。
都並 ただ、エウゼビオのマネをしようとすると、釜本さんは足が大きいから、ツマ先が芝生に引っかかってしまうと。それで釜本さんのシュートフォームって軸足が開いている感じなんですが、ツマ先が引っかからないようにその形で蹴る練習をしたそうなんです。
僕はいろんなFWのポスターを部屋に飾っていたんですけど、釜本さんだけ軸足のヒザがぐっと曲がっているんです。
後藤 そうなんだよね。マネしちゃいけないか、マネできないかといった感じで。
すごいなと思うのは、あの当時でドイツに留学させようというところ。あれは1968年のことなんです。釜本というタレントをとにかく育てようと日本中が一生懸命やったんですよ。
都並 だからもう突然変異ですよね、釜本さんだけは。他のいい選手がたくさんいたとしても、特別にすごい。
後藤 それはだってワールドクラス間違いなしだから。日本の中でじゃなくて、世界的に見てもああいうなんでもできるストライカーっていないですよね。
都並 例えば大迫勇也のポストプレーと、上田綺世の抜け出しからのシュートもできる。でもいちばんすごいのは、なんでもうまいところ。ポストプレーをやるにしても、こうガチャガチャしてなくて、すっとボールを受けて、前向いて、味方に渡せる。エレガントですよね、実は。
後藤 最晩年であまり動かなくなった時は、みんな「交通整理」とか悪口を言ってたわけ。だけど、そこで立ってるだけでもポジショニングがいいから、きちんと味方につなげる。
あと意外なのは公称179cmだというところ。
都並 本当はもっと大きいですよね?
後藤 もっと大きいけど、なぜか知らないけどかっこ悪いからって179。
都並 182、3cmくらいですかね。
後藤 そうそう。とにかく大きく見えた。
都並 僕らの時代ではひと際抜けた体格を持っていて、足は100m走が速いってわけではないけど、瞬間の速さや相手から離れるうまさはちょっと特別だった。
後藤 それがみんなあとから身につけたものなんだよね。高校時代の釜本さんは「熊」って言われていたらしい。だからドイツに行ってスピードが必要だというのを痛感して、スピードを身につけた。右足だけの選手だったのが、左足でもプレーしなきゃと左も身につけた。最後はもう、右でも左でも頭でも、どっからでも点を取れる選手になっちゃった。ヘディングだって、もともとは全然しなかったらしい。
都並 ニアに行く動きで相手を釣ってからスッと後ろに引いて、相手の頭越しに来るボールを胸で受けて「ドン!」ってシュートを決めるのが本当得意だったんですけど、これも本人から聞いた話があります。
釜本さんの所属していたヤンマーに、今村博治さんという7番の右ウイングがいたんです。釜本さんは今村さんに「俺の練習に毎日100本付き合え」と。どういう練習かって言うと、ゴールをですね、もう1個持ってきてゴール前に横に置くらしいんですよ。そのゴールをギリギリ越えるボールを右サイドから蹴ってこいと。「それができたらお前を日本代表にしてやる」と釜本さんは言ったらしいんですが、実際そうなったんです。
そのクロスって、釜本さんがニアの動きで相手を釣ってから引いて受ける時のイメージなんですよ。
後藤 昔は一芸というか、いろんなことはできないけど、これをやらせたら正確に再現できるという選手がいましたよね。
【釜本さんだけは別格だとわかってほしい】
都並 シュートまでのプレーなんですが、ボールをこねないで、いつも止めてすぐに打てる。最低でもスリータッチぐらいじゃないですか? 止めてドン。で、いつもサイドネット。
後藤 いや、だから世界的に見ても、あんなストライカーは本当にいない。マルコ・ファン・バステンとか、そのレベルだよね。
都並 絶対そうですよね。僕はこの間、釜本さんはフランツ・ベッケンバウアーとかヨハン・クライフといったスーパースターのそこの領域にいますと断言しました。「ええっ!?」て言われたんだけど。
後藤 クリスティアーノ・ロナウドもすごいけど、釜本さんのプレーのほうがもっと幅がある。
都並 ですよね。そのぐらいの世界なんですよ。
後藤 ヨーロッパでプレーしていたら、もうスーパースターになっていたと思う。
都並 ダイヤモンドサッカーで、バルセロナ対世界選抜(1980年)が放送されてあれを僕も見てましたけど...。
後藤 世界選抜の釜本さんは、もう偉そうな顔をしてたもんね(笑)。
都並 その時クライフが釜本さんを褒めてたっていうぐらいですから。
だから、僕ら上の世代が「昔の人はすごかった」と言っているんじゃなくて、「釜本さんだけは別格だ!」っていうことだけ本当にわかってほしい。
後藤 もちろん昔のサッカーと今は違う。運動量とかフィジカルが違うとかいろいろあるけど、釜本さんは今のサッカーでもそのまま入っていけますよね。他のすごい人たちというのは、たぶん現代のサッカーに入ったら、もちろん何回かやれば調節ができるかもしれないけど、大変だと思う。
都並 ちゃんとサッカーできちゃうと思うんですよね。うまさと凄さが別格なんですよ。頭もいいし、何もかもできるから。
今、日本サッカーが発展するためにも、釜本さんがどこのレベルにいたのかというのをわかりながらやることが大事だと思います。久保建英が日本で一番だと思っている人もいるでしょう。たしかにすごい選手ですけど、申し訳ないけど釜本さんは全然上にいるんですよ。それだけははっきりしておかないといけない。
後藤 久保が将来そうなってくれればいいけど、でももう24歳ですよね。
都並 大久保嘉人がJ1通算477試合で191ゴール。釜本さんは251試合で202ゴールも取っているんです。ストライカーの数字っていうのは、カテゴリーとか関係なくやっぱりすごいものだと僕は思っていて。
後藤 昔は試合数が少なかったからね。
【強烈な努力をした人】
都並 釜本さんは、メディアではあまり饒舌に語ってこなかったじゃないですか。それがたぶん損をしていて、意外と本来の実力が伝わってこなかった理由なんじゃないかと僕は思っています。
金田さんとふたりでお話を聞いた時はいくらでもしゃべってくれたんで、もうびっくりしたんですよ。細かすぎて。「こんなにこの人サッカーに細かいんだ」と思って。軸足のヒザを曲げてシュート打つ。そのための筋トレの機械がないから、自体重をかけてその姿勢を作る練習をしていたとか。
後藤 人ごみをすり抜けていったりとか、電車でもつり革につかまらないでずっとツマ先で立ってバランス感覚を鍛えていたとかね。
左足のシュートがうまくなるために、ご飯を食べる時に左手でお箸を持って食べたんだって。
都並 そんなこともやったんですか。徹底的ですね。
後藤 うまくなるために。点を取るためにはなんでもするんだよね。
都並 サッカーがうまくなる人って、モノマネなんですよ。今の子どもたちが三笘薫のドリブルをマネするように、釜本さんはスタンレー・マシューズのドリブルをマネしたそうです。自分の体を傾けて相手を寄せておいて反対へ出ていくだけなんですけど、釜本さんはやっぱりそれだけを徹底的に極めるからタイミングがよくて、一瞬だけ右足を振れる時間が作れる。
マシューズのフェイントからエウゼビオのシュートなんですよ。でも、それを本物にしている。この人、死ぬほど練習してきてこれができているんだろうなというのがわかるすごさがあります。
あの、ブレる人ってわかるんですよ。対峙していて「あ、これはシュート打つ前にブレちゃうな」って。でも釜本さんのプレーはネジが締まりまくっているというか、一つひとつの動きがキチっとしていてブレない。あれば絶対に練習量なんですよね。
後藤 みんな努力で獲得した強さなんだよね。ヘディングにしても左足にしても。
都並 そうです。たぶん努力した人は、それを細かく説明できるんですよ。
【第二の釜本を生み出すには?】
後藤 「第二の釜本」を生み出すってさんざん言われてきたけど......神に祈る! 待つ!
都並 でも釜本さんは自分のスタイルを生かして、繰り返し練習して自分のものを作ってきたわけじゃないですか。努力で成り立っているわけですよ。釜本さんにならなくても、1試合1点決めればいいわけだから、それはやっぱり本当にいいゴールゲッターの映像を見るなり、長所を盗むなりして、繰り返し練習して自分を作っていく。モノマネから自分を作っていくという。その強烈なやつを作ればいいんじゃないですか。
ただ、そこの強烈さが釜本さんには誰も勝ててないから。努力の質と量と。
後藤 自分のプレーに何が必要なのか考えて、それに対して徹底的に、それこそ100本なら100本キックをする。それでひとつできたら、今度は別の武器をつけていく。そうして3つ、4つと武器を増やしていく。
都並 ロベルト・レバンドフスキとか見ていると、やっぱりGKに近づいたら絶対シュートを浮かすとか、もう決まった技術があるんですよ。遠くだったらステップを変えるとか。ある意味釜本さんの極めたものに近いのかな。
後藤 あとは周囲が釜本さんが若い時から日本代表に呼んで、まだ無理だろうというのに試合をさせて、鍛えあげて作ったんだよね。あんな時代にドイツに留学させるとか。天才的な選手がいたら、もう日本中サッカー界を挙げて盛り立てる。ダメになるかもしれないけど、やってみなきゃいけないと思う。
都並 今はみんなを平均的に伸ばそうというのがあるから。確かにこれは特別扱いしなきゃダメですね。
後藤 GKとセンターフォワードは特に。例えば鈴木彩艶がアジアカップの時にあれだけ批判されても、森保一監督はもう意地になったように使い続けた。今は、たちまちすごくなっちゃった。そういうセンターフォワードを無理やりでもいいから伸ばしていく。
都並 確かに。そういう勇気がなきゃダメですよね。
後藤 本人もそうだし、周りもそうだし、両方が合わさってようやく釜本さんの半分ぐらいの選手が出る。
都並 あはは(笑)。
後藤 半分の選手でもいたら大したものだよ。ワールドカップ優勝を狙える。
都並 いや、本当ですね。
釜本邦茂
かまもと・くにしげ/1944年4月15日生まれ。京都府出身。山城高校、早稲田大学、ヤンマーディーゼルでプレーし、1960年代後半から1980年代前半の日本サッカーリーグで通算202ゴールを挙げたストライカー。大学時代から日本代表にも選ばれ、1964年東京五輪、1968年メキシコ五輪に出場。メキシコ五輪では得点王となって銅メダル獲得に貢献。国際Aマッチ76試合出場75得点と歴代最多得点記録を持つ。1984年の現役引退後はガンバ大阪の監督などを務めた。
都並敏史
つなみ・さとし/1961年8月14日生まれ。東京都出身。1980年代から90年代に活躍した日本の左サイドバックの第一人者。読売クラブ、ヴェルディ川崎、アビスパ福岡、ベルマーレ平塚でプレー。日本代表国際Aマッチ78試合出場2得点。1998年の現役引退後は、東京ヴェルディのユース監督やトップチームコーチ、ベガルタ仙台、セレッソ大阪、横浜FCの監督を歴任。現在はブリオベッカ浦安の監督を務めている。
後藤健生
ごとう・たけお/1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。