写真/産経新聞社6月3日、元プロ野球選手・長嶋茂雄さん(89)が肺炎のため東京都内の病院で死去した。長嶋さんは1958年、巨人に入団。1961年にリーグMVPとなった。現役引退後は巨人軍監督に就任、「ミスター・ジャイアンツ」の愛称で親しまれた。’21年には、プロ野球界初となる文化勲章を受章している。作家の乙武洋匡氏がスポーツライター時代に体験した、長嶋茂雄さんとのエピソードを振り返りつつ、改めてその魅力を語る(以下、乙武氏による寄稿)。
◆監督時代の“勘ピューター”采配
長嶋茂雄さんが亡くなった。スポーツライター時代、何度かインタビューをさせていただいた。「一茂を後楽園に置き忘れてきた」など数々の奇想天外なエピソードで知られる長嶋さんだったが、その独特なワードセンスもまた魅力のひとつだった。バリアフリーではない室内練習場で、車椅子なしでスタッフに抱えられる私を見て、「おや、今日はあの“戦力”(=車椅子)はどうしたの?」と声をかけていただいたのは、今でも思い出に残っている。
残念ながら、私は現役時代を見ていない。長嶋さんが引退した1974年は、私が生まれる2年前。だから私の記憶に残っているのは、監督時代ということになる。当時、長嶋さんの采配は、“勘ピューター”と呼ばれていた。データを駆使した野村克也監督のID野球とは対照的に、長嶋さん特有の“野性の勘”に基づいた采配。巨大戦力を生かして優勝する年もあったが、名監督、名采配だったかと言われれば、異論はあるだろう。だが、そこにこそ長嶋茂雄の魅力が詰まっていたとも言える。
◆長嶋的存在への憧れと追悼の思い
いまやAI時代。いっそ野球でもAIに監督を任せ、データに基づいた采配に徹したほうが勝率も上がるのかもしれない。だが、それをどこかで味気なく感じてしまう私もいる。左投手には不利だと言われている左打者をあえて代打に送りヒットを放ったり、誰もが送りバントだと思うような場面で強攻策に出てホームランが飛び出したり。そうした局面にこそ、私たちは心を躍らせ、快哉を叫ぶのではないか。空振りがどうしたらカッコ良く見えるのかを研究し、わざと大きめのヘルメットをかぶっていたという長嶋さん。その采配すら、わざとデータを無視していたのかも──などというのは、さすがに勘繰りすぎだろうか。
AIがすべての最適解を迅速に提示してくれる時代だからこそ、論理やデータを超越した“長嶋的存在”を私たちは求めているような気がしてならない。プロ野球を国民的スポーツにまで引き上げたその功績に深く感謝しつつ、あらためてご冥福をお祈りしたい。
【乙武洋匡】
作家・政治活動家。1976年、東京都生まれ。大学在学中に出版した『五体不満足』が600万部を超すベストセラーに。卒業後はスポーツライターとして活躍。その後、小学校教諭、東京都教育委員などを歴任。「インクルーシブな社会」を目指し執筆や講演、メディアへの出演を精力的に行う