シナリ・ラトゥ「トンガ旋風」の衝撃 愛する日本のために桜のジャージーを選び続けた偉大なる先駆者

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2025年06月11日 07:10  webスポルティーバ

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語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第14回】シナリ・ラトゥ
(大東文化大→三洋電機)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 第14回は、1980年代後半に「トンガ旋風」を巻き起こした大東文化大の中心選手として、大学選手権を2度制したNo.8シナリ・ラトゥ(現・ラトゥ ウィリアム志南利)を取り上げる。また、ラトゥは日本代表として32キャップを誇る。昨今のワールドカップでは多くの外国出身選手が桜のジャージーを着て活躍しているが、その偉大なる先駆者でもあった。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

   ※   ※   ※   ※   ※

「ラトゥ」の名前を聞いて、モスグリーンジャージーの8番を思い出すファンも多いだろう。次々と相手をなぎ倒して前進していく姿は、ファンに大きな衝撃を与えた。

 1980年代後半から1990年代前半にかけて大学選手権を3度も制した大東文化大。彼らが起こした「トンガ旋風」は、大学ラグビー全体を巻き込んだ。

 最もインパクトを残したのは、やはり1986年度の初優勝だろう。早稲田大、明治大、慶應義塾大といった対抗戦の伝統校がしのぎを削っているなかで、モスグリーンのジャージーが圧倒的なパワーで主役の座に躍り出た。

 その中心にいたのが、トンガからやってきた留学生のシナリ・ラトゥだ。

 ラトゥは高校時代から規格外のアスリートだった。日本から8,000キロ離れた南太平洋の陸上大会では、砲丸投げと三段跳びに出場して優勝。ラグビーでもトンガ代表に選ばれ、CTBのポジションですでに国際試合に出場するほどの実力者だった。

【そろばんを学びつつ大学選手権を制す】

 日本への留学は当初、親に反対されていたという。しかしそれを押しきって、WTBワテソニ・ナモアともに来日。すでに日本で生活していたWTBノフォムリ・タウモエフォラウとCTB/FBホポイ・タイオネに次ぐトンガ人留学2期生として、1985年2月に大東文化大に入学した。

 そもそもトンガの先輩たちが来日したきっかけは、トンガ国王が奨励していた「そろばん留学」。ラトゥも1年目は大東文化大の別科(日本語研修課程)で日本語を学びつつ、そろばん塾にも通った。

 来日1年目は関東リーグ戦2位。しかし、ラトゥをNo.8に据えた2年目(1986年度)は、群を抜いたパワーを見せつけて関東リーグ戦で優勝を飾った。

 その勢いは大学選手権でも止まらない。初戦で大阪体育大を15-9で退けると、準決勝は明治大に11-3、さらに決勝では早稲田大に12-10で勝利し、いきなり初優勝をつかみ獲った。

「僕らが大学で優勝したから、その後もトンガ人が日本にどんどん来るようになった。ただ、ノフォムリさんが途中でトンガに帰っていたら、僕も日本には来なかったと思う」

 大東文化大に5年間通ったラトゥは、在学中一度もトンガに里帰りをしなかった。

「僕がトンガに帰ったら、もう戻ってこないと思ったから、みんな僕を帰らせなかったのでは(笑)。たぶん僕も、帰ったら日本に戻って来なかった(笑)。何度か途中で『帰りたい』と言ったことはあったよ。でも、ナモアさんが一緒にいたからホームシックにならなかったですね」

 ラトゥは懐かしそうに振り返ながら笑った。

 大学卒業後のラトゥは、先輩のノフォムリを追って三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)に入部。社会人の強豪チームに入っても、ラトゥの勢いは変わらない。FWの中軸として全国社会人大会の決勝に5度も導いた。今の日本ラグビーを牽引するワイルドナイツの礎(いしずえ)を作ったひとりであることは間違いない。

【トンガと日本の架け橋になりたい】

「日本に対して感謝、ありがとうの気持ちしかない」

 大学から日本で暮らすラトゥは、トンガ代表ではなく、桜のジャージーを選び続けた。

 1987年に行なわれた第1回ワールドカップのアメリカ戦で初キャップを飾ると、1989年のスコットランド戦では好タックルを連発し、28-24の歴史的勝利に貢献。1991年にはジンバブエ相手に52-8で勝利し、日本のワールドカップ初勝利にも寄与した。

 現役引退後、ラトゥは三洋電機のコーチや母校・大東文化大学の監督を歴任。さらには「トンガと日本の架け橋になりたい」という強い思いから、2021年にNPO法人「日本トンガ友好協会」を発足させた。

 現在、日本に住んでいるトンガ人は200人以上で、その多くはラグビー関係者だという。

「だいぶ増えて、僕が知らないトンガ人選手もいる。日本のレベルもどんどん上がっているので、よっぽどがんばらないと日本代表に入ることはできない。日本に来て伸びる選手もいれば、そうでない選手もいるので、サポートしていかないといけない」

 ラトゥは日本でプレーするトンガ人の後輩たちに、こうエールを送る。

「ノフォムリさんや、僕のタックルは激しかったです。今のトンガ人のタックルは優しいね。トンガ人と対戦したら怖い、二度とタックルに行きたくない......と思わせないと」

 2022年1月、海底火山の大規模な噴火によって、トンガは大きな被害を受けた。被災したトンガの復興支援を目的に、ラトゥは中心のひとりとなって日本ラグビー協会にチャリティーマッチを打診し、6月に実現させた。

 ラトゥのあとを追って、現在まで多くのトンガ出身選手が来日し、日本代表まで駆け上がっていった。1980年代にラトゥたちから始まったトンガと日本との絆(きづな)は、太く、強くなるばかりだ。

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