
【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.4
高橋尚子さん(前編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、国民栄誉賞を受賞したほか、世界記録の更新など数々の金字塔を打ち立てた「Qちゃん」こと高橋尚子さん。全3回のインタビュー前編は、恩師・小出義雄監督との出会い、過酷な練習を乗り越えてたどり着いた日本記録の更新、そして2000年シドニー五輪の出場権をつかむまでを振り返ってもらった。
【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶
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【どうやったら小出監督に採ってもらえると思いますか?】
1994年、大学4年生の高橋尚子は人生の岐路に立っていた。
子どもの頃からの夢だった教員になるべきか。それとも大学時代に大きく成長した陸上競技にかけるべきか。高校時代の恩師に連絡をすると、高橋のモヤモヤした心に喝を入れてくれた。
「本当に日本一や世界という気持ちがあるなら(競技を)続けなさい。ただし、続けるにしても、実業団駅伝で優勝し、(1992年バルセロナ五輪で銀メダル獲得の有森裕子など)世界で活躍した選手を輩出したリクルートの小出(義雄)監督のところに行くとか、それくらいの覚悟があるならいい。そうではなく、2、3年の間、陸上をやりたいぐらいの気持ちならやめてしまいなさい」
恩師の言葉が心に響いた。
800mや1500mなど中距離種目で学生トップクラスの選手だった高橋のもとには、多くの実業団からのオファーが届いていたが、リクルートからはなかった。小出監督にも会ったことはなく、日本一、ましてや世界などイメージできなかった。
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だが、腹を決めた高橋はほかの実業団に断りの連絡を入れ、インターハイの視察のために金沢に滞在中の小出監督のもとへと押しかけた。朝食中の15分だけ時間をもらえたが、挨拶後すぐに「ウチは大学生を採らないから。ごめんね」と言われた。
「あー、これで就職浪人だなって思って、すごくショックを受けました。でも、せっかくここまで来たので、教員になって高校生を指導する道に行けたら、監督の指導法を学んでおきたいと思い、『実費で合宿に参加させてください』とお願いしたら、『いいよ』と言われて、その後、10日間の北海道合宿に参加できることになったんです」
その夏合宿では必死に練習に食らいついた。さらに、(1992年バルセロナ五輪10000m代表の)鈴木博美に「どうやったら小出監督に採ってもらえると思いますか」と聞いた。新人でもない大学生にいきなりそんなことを聞かれた鈴木は面食らったようだが、「練習でただ単に(前に)ついているだけではダメ。先頭を走るとか、前半だけでも前に行くとか、自分をアピールするような走りをするのが大切だよ」と教えてくれた。次の日から高橋は常に先頭を走り、アピールを続けた。そうして合宿の最終日に監督の部屋に呼ばれた。
「給料は安いけど、契約社員でもよければ来るかい?」
高橋は「ぜひ、よろしくお願いします!」と即答した。
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「うれしかったですね。陸上への道がつながり、開かない扉をこじ開けた瞬間でした。これが(2000年)シドニー五輪につながるのですが、その時の金メダルよりも、小出監督に『来るかい?』と言われたことが人生を変えた。私の人生で一番の勝利の瞬間だったと思います。
【リクルート入社後、最初のミーティングで号泣】
晴れてリクルートの一員となった高橋。だが、最初のミーティングで大きなショックを受けることになる。高橋の入社と時を同じくして、小出監督はマラソンの総監督になり、トラック種目の指導をしないことになった。
「最初のミーティングで号泣でした(苦笑)。先輩たちには『なんでQちゃんが泣くの』と言われたんですが、『自分の人生をかけて入ったのに、小出監督の指導を受けられないって、どういうこと?』と思ったんです。ただ、新人の私が言ってもどうなることでもない。とりあえず、自分ができることを一生懸命にやろうと思いました」
小出監督の指導を受けたい気持ちは、ずっと心のなかにあった。そんなある日、高橋が練習終わりの挨拶をスタッフにしているときに、ひとりの先輩が小出監督のもとにやって来て、「監督は(特定の)選手をひいきしている」と抗議をした。
「その時、監督がその先輩に『いつまでも学生気分でいるな。社会人になって、平等に声をかけられたり、見てもらえる人なんていない。みんな自分を売り込んだり、自分が評価されるように工夫して頑張って地位を確立している。俺も人間だから、頑張って、自分の言うことが響く人にしか言わない。見てもらいたいなら、響く選手になれ』と言ったんです。『そうだな。私も響く選手にならないと』と思いました」
練習を全力でこなすのはもちろん、毎日、小出監督にFAXで練習内容の報告をした。すると、時折、小出監督から声をかけてもらえるようになった。そうして半年間が過ぎ、小出監督の指導を受けたい気持ちはさらに募った。そこで高橋は大胆な作戦に出た。
「どうしても小出監督の指導を受けたいと会社に懇願し、1年目の12月にマラソン合宿に参加させてもらったんです。行く以上は、『ダメでした』というわけにはいかないので、必死に先輩方についていきました。そして、堂々と小出監督の指導を受けられるマラソン選手を目指そうと心に決めました」
そして入社2年目の1997年1月、高橋は初マラソンとなる大阪国際女子マラソンに出場。小出監督が「次の有森になる選手」とマスコミに紹介するなど大きな期待を寄せられたものの、2時間31分32秒の7位に終わった。力を出せなかった悔しさだけが残った。
【過酷な練習を乗り越えた超ポジティブ思考】
その後、小出監督とチームメイトと共に積水化学へ移籍した高橋をマラソンに本気にさせたのは、同年8月のアテネ世界陸上だった。練習でパートナーを務める先輩の鈴木がマラソンに出場し、金メダルを獲得したのだ。同大会の5000ⅿに出場していた高橋は、現地のホテルでテレビ中継を見ながら応援していたが、レース後半、「これは優勝する!」と確信すると、5kmほど走ってゴール地点に向かった。
「鈴木先輩、おめでとうございます! すごく感動しました!」
それだけ伝えてホテルに戻った。
「鈴木先輩の優勝は本当にうれしかったですね。練習のパートナーをしていたので、私もマラソンを走っていたら、1番にはなれなくても4番ぐらいになれるかもしれない。そう思い、この時に初めて心の底から『マラソンをやりたい。マラソンをやれば世界に行けるかもしれない』と思ったんです」
だが、当初は小出監督に練習内容を相談しながらも、自分のやり方を優先した。メニューを自分で考え、自立して競技に取り組んだ大学時代の経験と自負があったからだ。小出監督も「ダメだ」とは言わず、「やってみなさい」と言ってくれた。
「でも、全然伸びないんです。それで、今まで多くの選手を育ててきた監督を信じていこうとなりました。『無理』とか『できない』といった気持ちをいっさい捨て、『自分は人形になろう』と思い、監督のメニューをやると決めたのですが、めちゃくちゃ厳しかったです」
平日朝の20km走は、ラスト3kmから「フリー」という名のバトルになり、試合さながらの負荷がかかった。ハードな練習が続くため、チームメイトも疲労困憊。休養日(毎週木曜)前となる水曜日の午後練習を抜けてしまう選手も多かった。だが、小出監督が「もったいないなぁ。水曜日の練習が一番伸びるのになぁ」と言うので、高橋は「絶対に外さない。ダメでも走る」と練習を続けた。
「一番苦しい時が一番伸びる時だと思ったんです。この練習を抜いたら、越えられるはずの壁を越えるのを延期することになってしまう。今日、その壁を越えておけば、来週に同じ練習をしても、少しはラクに走れるかもしれない。ここが私にとって一番大事な時だって思って、『苦しい』じゃなく『ラッキー』と思い込むようにして練習をしていました」
そんな超ポジティブ思考でハードな練習を乗り越えると、その成果がレースで表れた。まず自身2回目のマラソンとなる1998年3月の名古屋国際女子マラソンで、2時間25分48秒で日本記録を4秒更新して優勝。さらに同年12月バンコクアジア大会では、高温多湿の過酷な条件のなか、2時間21分47秒で優勝。自身の持つ日本記録を4分以上更新し、2位に13分もの差をつける圧勝劇だった。
「(名古屋国際女子で)日本記録を出して優勝した時に、初めて五輪(出場)のレールに乗れたかなと思いました。正直、そこまで来る2年間は苦しかったです。でも、監督を信じてやってきてよかったとあらためて思いました」
【日本記録を出しても、強いという意識は1ミリもなかった】
苦しい練習を乗り越え、結果を必死に求めて走り続けたのは、自分のためでもあるが、小出監督の信頼に応えるためでもあった。
「私の家族は、陸上をすることに賛成ではなかったんです。両親は陸上を続けることの大変さを理解し、最初は陸上で就職できるレベルになっていなかったので、『やめなさい』と言われました。中学、高校、大学の時に応援に来てくれたのは一度だけ。高校2年時に都道府県(対抗女子)駅伝に出た時でしたが、区間45位に終わり、『恥ずかしい』と言って、以降はまったく来なくなりました。そんな状況で小出監督に出会ったんです」
孤独感も覚えながら競技を続けるなか、支えになったのは小出監督の言葉だった。
「小出監督は『お前、陸上しててよかったな。お前はすごいよ。これから世界一になるよ』って会うたびに言うんです。すると、365日後には行けるかもしれないと思っている自分がいたんです。それで私は選手として伸びることができました。監督が私を見つけてくれた。監督が私にとってすべて。だから、五輪に出て恩返しをしたいと思っていました」
ただ、怖さも抱えていた。
「その頃の私はまだ都道府県駅伝で45番の意識なんです(苦笑)。いい記録を1回出しても、継続して結果を出せなかったら元に戻ってしまうかもしれない。それが怖いから頑張り続けないといけない。日本記録を出したから強くなったという意識は1ミリもなくて、弱い時の自分に戻りたくない。その怖さから逃げるために練習をしていました」
そんな恐怖と戦い続け、2000年3月の名古屋国際女子マラソンで優勝し、同年9月のシドニー五輪代表の座を勝ち取った。結果と経験に裏打ちされた小出監督の指導と、それに素直に取り組んだ高橋の向上心とド根性。まさに二人三脚で五輪出場を実現したのである。
(つづく。文中敬称略)
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高橋尚子(たかはし・なおこ)/1972年生まれ、岐阜市出身。県岐阜商業高校から大阪学院大学に進み、卒業後に小出義雄監督率いるリクルートに入社。1997年に積水化学へ移り、二度目のマラソンとなる1998年名古屋国際女子マラソンで日本記録を更新して初優勝。同年のアジア大会ではスタート直後から独走し、自身の持つ日本記録を4分以上も更新。2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、国民栄誉賞を受賞。2001年ベルリンマラソンで2時間19分46秒の世界記録(当時)を樹立。2008年に引退。現在はスポーツキャスター、市民マラソンのゲストなどの普及活動に精力的に取り組んでいる。