名審判・小林毅二が語る監督・長嶋茂雄の記憶 「選手の気持ちは大事ですから、簡単に引き下がるわけには...」

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2025年06月11日 07:30  webスポルティーバ

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 現役32年で2898試合をジャッジし、日本シリーズにも12度出場した小林毅二氏。審判員から見た長嶋茂雄とはどんな人物だったのか。1994年の「10・8決戦」や2000年日本シリーズの「ON対決」では球審を務め上げた小林氏に聞いた。

【先発三本柱による執念の継投】

── 小林さんは審判員として現役32年、2898試合に出場。日本シリーズにも12度出場されています。そのなかで、一番思い出に残っている試合は?

小林 球審を務めた1994年の巨人と中日の「10・8決戦」です。もう31年も経つのですね。「優勝がシーズン最終戦にもつれ込んだら、その試合の球審を頼むぞ」という内示が、その2週間ほど前にセ・リーグの山本文男審判部長からありました。

── 129試合を消化した時点で両チームが同率で並び、最終戦となる130試合目(当時)で勝ったほうが優勝というあの伝説の試合。長嶋監督はミーティングで「勝つ、勝つ、勝つ!」と気勢を上げて、名古屋の宿舎を飛び出したそうです。

小林 試合開始の2時間前に審判団は球場入りするのですが、ナゴヤ球場周辺はファン、マスコミ、警備員など人が溢れ、異様な雰囲気でした。試合に入ると両チームともダグアウトから身を乗り出して、戦況を見つめていました。ただ、私自身は審判生活20年を過ぎていましたので、特別な緊張はありませんでした。

── 長嶋監督の継投や代打など、選手起用に関して何か感じたものはありましたか。当時の選手から「国民的行事だと、長嶋監督は腹を括って、試合自体を楽しんでいるようだった」と聞いたことがあります。

小林 長嶋監督にとっても特別な試合であることは間違いないと思いますが、いざ試合に入ればふだんと変わりませんでした。ただ、槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の先発三本柱の継投リレーは、今では考えられませんし、長嶋さんの勝利への執念を感じました。一方の高木守道監督は「いつもどおりの野球だ」と、今中慎二のあと、山田喜久夫、佐藤秀樹、野中徹博とつなぎ、エース格の山本昌、郭源治は登板しませんでした。どっちがいい悪いではなく、長嶋さんらしいなと思いましたね。

── そのシーズン、巨人に対して5勝2敗1セーブの今中投手と、前年オフに中日から巨人へFA移籍した落合博満選手との対決がありました。

小林 落合、コトーがホームランを打って、今中は5失点降板となりました。私が見てきたなかでナンバーワンの左投手は今中だと思っていますが、あの試合に関しては本調子ではなかった気がします。結局、試合は6対3で巨人が勝利し、リーグ優勝を決めました。

── 川相昌弘選手や斎藤投手、勝って最後にマウンドで歓喜のジャンプをした桑田投手、また中日投手陣をリードしていた中村武志捕手は、試合が終わった途端、みんな頭が真っ白になってしまって、あまり覚えていないと言っていました。

小林 それだけ全員が試合にのめり込んだ壮絶な3時間14分だったということでしょう。川相の本塁打らしき当たりが二塁打とジャッジされた"幻の本塁打"もありました。当時は"リクエスト制度"もありません。それに落合や立浪和義が負傷退場するなど、選手は心身ともにギリギリのところでプレーしていたのだと思いますね。私の審判人生において、一番のメモリアルな試合でした。

【長嶋監督2度の日本一に遭遇】

── この年、セ・リーグを制した巨人は日本シリーズで西武と対戦しますが、第1戦で小林さんは球審をされています。

小林 西武の先発が渡辺久信で、巨人は桑田でした。2回に桑田が清原和博からソロ本塁打を打たれるなど、6回4失点。シーズン中と比べると、明らかに調子はよくなかったですね。西武は7回にも田辺徳雄の満塁本塁打が飛び出し、11対0と圧勝しました。

── このシリーズ、巨人の3勝2敗で迎えた第6戦の試合前、「西武・森祇晶監督退任」のニュースが突如流れました。そして試合は巨人が勝利し、長嶋さんは監督となって初の日本一を達成しました。

小林 そんなことがあったのですか。我々審判員は、試合の背景などを先入観として持ちませんし、勝敗の要因や選手の技術の分析をしません。ストライク、ボール、アウト、セーフをジャッジし、常に公平中立の立場で"ゲームコントロール"に努めるだけですから。

── この1994年の巨人と西武の日本シリーズは、どんなことを感じましたか。

小林 巨人は第1戦こそ大敗を喫しましたが、「10・8決戦」の勢いそのままに、いい流れで日本シリーズに突入できたのではないでしょうか。

── 長嶋監督の日本シリーズで言うと、2000年の王貞治監督率いるダイエー(現・ソフトバンク)との「ON対決」も注目を集めました。あの時も第1戦の球審は小林さんだったのですね。

小林 「10・8決戦」の時と同じで、マスコミが騒ぎすぎの面もあったと思います(苦笑)。でも、それだけ野球界にとっては特別な日本シリーズだったということですね。

── 巨人の第1戦先発は、前年ダイエーを優勝に導いた工藤公康投手でした。

小林 2回に、昨年までバッテリーを組んでいた城島健司に内角低めのストレートを本塁打されました。ただ、あの時点ではまだマウンド上で苦笑いする余裕がありました。しかし7回、松中信彦に完璧な2ランを打たれた時は、かなり痛恨の表情を浮かべていましたね。

── この日本シリーズでも、巨人が4勝2敗でダイエーを倒して日本一に輝きました。結果的に、長嶋監督は2回日本一を達成していますが、いずれの日本シリーズも第1戦の球審は小林さんなのですね。

小林 もちろん、たまたまそうなっただけですが、長嶋監督の2度の日本一に関われたことは光栄ですね。

【グラウンドで交わした忘れがたい時間】

── 長嶋さんは1974年のシーズンを最後に現役引退。小林さんは1972年にセ・リーグの審判員になられます。最初の接点はどこだったのでしょうか。

小林 それこそ長嶋さんの現役最終年の1974年、私がプロ審判員となって2年目です。甲府でのオープン戦で私は一塁審を務めました。職業上、選手と審判員はむやみに会話することはしませんが、そのなかでも長嶋さんはペーペーの審判員にとって口も聞けない"神様"のような存在でした。

── 長嶋さんが監督になられてから、抗議を受けたことはあったのでしょうか。

小林 微妙な判定の時、長嶋監督から猛抗議されることもありました。しかし長嶋監督は「選手の気持ちは大事ですから、簡単に引き下がるわけにはいきません。小林さん、審判団を集めて一度協議してもらえませんか。でも、ルールブックにあるようにアンパイヤの裁定は最終のものですから従いますよ」と。とにかく"引き際"がきれいでした。じつにスマートでしたね。

── 審判員をリスペクトしていたのですね。

小林 うれしかったですね。もうひとつ、長嶋監督は審判員のことを甲高い声で「アンパイヤ」と叫びながら、「ピッチャー、誰々」「バッター、誰々」と選手交代を告げるのですが、私の時は「小林さ〜ん」って呼んでくれるんです。若手の審判員にとっては「なんで小林さんだけ名前で呼ばれるんですか」と、羨望と嫉妬があったみたいです(笑)。

── それはいつぐらいの話ですか?

小林 長嶋監督第1次政権が1975年から80年まで、第2次政権が93年から2001年まで。私は97年にセ・リーグ審判部副部長、2000年に審判部長になったのですが、第2次政権の間はずっと名前で呼ばれていた気がします。

── 長嶋監督は自軍の選手の名前もよく間違えたという"都市伝説"もありますから、そう考えるとすごいですね。

小林 覚えやすかったのですかね(笑)。審判員は立場上、監督や選手からサインをもらったり、写真を撮ったりすることはありません。ある時、長嶋監督から選手交代を告げられる時のツーショット写真を、新聞社のカメラマンからプレゼントされたことがあったんです。私の宝物になっています。

── 長嶋さんの訃報を聞いた時、どんな心境でしたか。

小林 やはり喪失感を抱いています。ほんとに神々しい方でした。長嶋監督と同じグラウンドでジャッジできたこと、ほんとに幸せでしたし、感謝しかありません。安らかにお眠りください。

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