「忍者と殺し屋のふたりぐらし」美少女×ギャグは貴重? ギャグにおける“常識の破壊”のバランス【藤津亮太のアニメの門V 119回】

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2025年06月20日 13:31  アニメ!アニメ!

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藤津亮太のアニメの門V
人の命は軽くてナンボ。……などと物騒なことを考えてしまうのは『忍者と殺し屋のふたりぐらし』(『にんころ』)がおもしろいからだ。  

草隠さとこは、仲間に流されるまま抜け忍となったくの一。街で行き倒れになったさとこを拾ったのが、女子高生で殺し屋の古賀このは。徹底的にクールな性格のこのはが、なぜさとこと同居することになったかといえば、さとこが使える唯一の忍術「生きているもの以外を木の葉に変える」が、殺し屋家業に使えるからだ。おまけにさとこは家事も得意。このはにとって、さとこは「都合のいい女」なのである。  

抜け忍のさとこのもとにはさまざまなくの一が刺客としてやってくる。しかし、彼女たちはこのはの敵ではない。彼女たちはどんどん殺され、どんどん木の葉に変えられていく。しかも第4話「忍者と殺し屋の関係」では、この木の葉で焼き芋まで焼いたりする。このドライな繰り返しが、本作の序盤の基調をなしている。  

ギャグ、という言葉が指す範囲はとても広い。ここでは一旦、ギャグにおける「常識の破壊」という要素に注目したいと思う。「みんなが当たり前」と思っていることを、ぬけぬけと破壊すること。それはギャグの重要な要素のひとつといえる。この常識への攻撃性の高さがギャグとユーモアを分ける大きな要素なのだ。  

ただ難しいのはこの「破壊の対象」となる常識は、時と場合によって違うし、なんなら状況に合わせて変化していくものだということだ。  例えば「バナナの皮で滑って転ぶ紳士」が古典的なギャグとして成立していたのは、「紳士」にある種の権威があるという常識が世間に共有されているからだ。だからほかに権威のあるもの――例えば1970年代のマンガによく出てきたつり上がった眼鏡をかけた教育ママとか――でも成立する。  

ただそのギャグも繰り返されすぎるとクリシェとなり、それそのものが「常識」の一部を形成するようになってしまう。こうなると「クリシェ化していることを笑いに転化する」というメタな方向や、本来の前提である「権威」をオミットし「権威のない存在が転ぶ」ということを笑いとして表現する方向も出てくる。このように「常識」が更新されていく中で、いかに「常識を発見」し、いかに「破壊する」かということがギャグという運動を支えているのである。



例えば劇場版『僕とロボコ』は、平凡な少年ボンドとオーダーメイドロボのロボコが繰り広げるドタバタ作品の映画化。基本的に『ドラえもん』的なエブリデイ・マジックを扱う作品のパロディとして設定が組み立てられていることからもわかるとおり、本作はクリシェをメタ化する方向のギャグがその根幹にある。  

マルチバースからそれぞれが異なるバックボーンを持つロボコが集結する劇場版では、「ジャンプマンガ」を題材にした、細かなネタをハイスピードで積み上げていくことを徹底した。だからこそ、ジャンプネタの連打の中に、突然放り込まれた『サマーウォーズ』を題材にしたギャグも生きてくる。足を運んだ劇場では、この『サマーウォーズ』のパロディのところで目立って大きく笑い声が起きており、細田守監督作品がジャンプ人気マンガと同じぐらい「常識」の一部となっていることを実感した。  

しかし先述のとおり「常識」というのは非常に流動的で、だからこそギャグは難しさをはらんでいる。  

『サウスパーク』で知られるトレイ・パーカーとマット・ストーンがスーパーマリオネーションで制作した映画『チーム★アメリカ/ワールドポリス』は、あらゆる常識・良識が載ったテーブルをエイヤとひっくり返すような戦闘的な内容だった。  

正義の戦いに巻き込まれて次々と街は破壊され、さまざまな人が死ぬ。人形同士の長いベッドシーン。とまらない嘔吐。非常に攻撃的な作品なので、個人的には初見のときには「笑い」として受け取れず、あらゆるものの価値を否定するニヒリスティックな作品という印象のほうが「笑い」よりも上回ってしまった。そのあたりは、ふたりの前作である『サウスパーク/無修正映画版』(TVシリーズとキャスト変更をした吹替版は本当に困ったものだったが)とは対照的だった。  

もちろん『チーム★アメリカ/ワールドポリス』を大笑いできる人もいる。ただ、常識の破壊を追求すればするほど、ついてこられる人とそうでない人の差は大きくなる(このあたりはマンガに詳しい人なら赤塚不二夫の『天才バカボン』がラジカルになっていく過程を思い出していただいてもいいだろう)。ギャグ作品を作るとは、そのような隘路を進むということなのだ。



そう考えると『にんころ』の死体が次々と木の葉になっていく描写は、「命の軽さ」と「視聴者の倫理観をギリギリ刺激しすぎない」絶妙のバランスで成立していることがわかる。木の葉の軽さ、少しカラフルな色彩設計なども加わって、ちゃんと笑えるようになっている(もちろんたぶん笑いきれない人もいるだろう)。  

シリーズの少し雰囲気が変わるのは、第5話「ロボットと殺し屋のふたりぐらし」。このエピソードは、発明家の殺し屋のマリンが、さとこを奪うために、さとこに似せた(でも見た目はロボットそのものの)ロボ子を作って入れ替えるという内容。このはは、ロボ子に入れ替わってもまったく気付かず、なんなら、ロボ子のほうにこそ親しみを感じたりする。この人間とロボが転倒した状況はもちろんギャグとして展開されるのだが、これが最終的に独特の情緒に着地するところに第5話の味がある。  

アニメとしての遊びが多いのも第5話の特徴。ロボ子が目からビームを発するときなどに、『マジンガーZ』のようななタッチが入る。これは、でこぼした台の上に紙をおいて鉛筆の腹でこすってつけた独特のテクスチャー感があるもので、おそらくわざわざこの素材を作ったのだろう。第1話冒頭でも抜忍する様子をわざわざ『忍風カムイ外伝』のようなタッチで描いていたりしたので、その延長線上にあるギャグでもある。  

このほか、突然4:3のフレームでビデオ画質になったり、突如1カットだけペープサートになったり、実写を使ったカット(クロックムッシュ、怒ったネコ、殺害シーンにインサートされるキャベツの千切り動画など)のインサートされたりもある。このあたりストーリーの語りと深い関係があるわけではないので、ひたすら「おもしろく見せる」ためだけに、こういうアニメならではのお遊びがぶち込まれている。このあたりの遊び具合はいかにもシャフト作品らしいところでもある。  

そのほか第8話「忍者と殺し屋の大きなおうち」は、ホラー要素でドタバタする回なのだが、それだけにちょっと奇妙なアングルも多くて刺激が多い。  

キャラクターの魅力(特に女性キャラクター)を押し出すとどうしてもコメディ色が濃くなって、ギャグにはなりにくい。そこを考えると、ガンガン人が死んで、それがちゃんとギャグになってる『にんころ』はなかなかに貴重な作品だと思うのだ。





【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。

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