バルセロナ五輪銀の森下広一、旭化成入社3年目で宗茂に言われた「おまえ、下の世代にも女子にも負けているぞ」

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2025年06月29日 07:10  webスポルティーバ

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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.5
森下広一さん(前編)

 陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。

 そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は1992年バルセロナ五輪で、日本男子マラソン史上2人目となる銀メダルを獲得した森下広一さん。輝かしい栄光を残した一方で、その後の競技生活は苦難の連続で、マラソン出場はわずかに3回、バルセロナが最後となった。

全3回のインタビュー前編では、旭化成に「仕方なく」入社した18歳の頃から、マラソンを本格的に走るようになるまで、その心情の変化について振り返ってもらった。

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶

【入社してから3年間は何の目標もなかった】

「私は、旭化成は中途採用なんですよ」

 森下広一は、苦笑交じりにそう言った。

 1985年、鳥取県の八頭高校卒業を控えた森下は地元の船岡町(現・八頭町)の町役場への就職を希望していた。ところが、地元開催の国体に向けて前年まで公務員採用を増やしていた反動で、その年は採用枠がなく、「5年待ってほしい」と言われた。どうしようかと途方に暮れていたところ、高校の陸上部の恩師と旭化成の廣島日出国監督が話をして、高校卒業後の4月30日に旭化成に入社することになった。

「(高校を卒業したら)働きたいと思っていたので、大学進学は考えていなかったです。箱根駅伝にも興味がありませんでした。ただ、旭化成に入社したものの、5年経ったら役場に入れるかなと思っていましたし、恩師の先生にも『(旭化成での競技生活が)ダメなら骨を拾ってやる』と言われていたので、競技で何がなんでも結果を出すとか、大きな目標もなかったんです」

 旭化成の陸上部に入った森下は、さっそくそのレベルの高さに面食らった。当時の陸上部は、宗(茂、猛)兄弟のいるマラソン組と、佐藤市雄コーチが指導するトラック&新人組に分かれていた。森下は佐藤コーチの指導を受けていたが、マラソン組の練習が自然と目に入ってきた。

「宗兄弟が引っ張っているんですけど、マラソンの練習がすごくハードで......。『こんな練習できないな』っていうのが正直な印象でした」

 森下は高校3年時の地元国体の少年A1500mで8位、同じく少年A10000mで6位など、トラック種目で結果を出していた。ただ、旭化成入社当初はまだ役場への就職希望が抜けきらず、何を目標にすべきかもいまひとつ定まらなかった。そうした環境のなかで、3年の月日が流れていった。

「入社してからそれまで何の目標もなくやってきたので、強くなるわけがない。それで3年目の秋に、高校の恩師に『そろそろ就職先を探してもらえませんか』と電話したんです。その時、『おまえは(すばらしい環境で)誰もやれないことをやっているんだから、もう少し頑張ってみろ』と言われたんです」

 さらに宗茂からのある言葉によって、あらためて陸上に向き合う決意を固めた。

「当時、入社1、2年目の後輩に負け始めたんです。女子の同期のメンバーとも比べられて、宗茂さんに『おまえ、下の世代にも女子にも負けているぞ』と言われたんです。あらためてそう言われると悔しさがこみ上げてきて。そこから競技に本気で取り組むようになりました」

【先輩の谷口浩美との練習で手に入れた自信】

 そこから3カ月間、ペース走や30km走などを織り交ぜた練習メニューをやり遂げた。苦手な30km走も、最初は途中から歩くなどして1時間55分近くかかっていたが、1時間40分くらいで走りきれるようになった。日々成長し、「妥協しない自分」を感じることができた。

「その3カ月を終えて4年目に入ったある日、(先輩の)谷口浩美さんと16kmの練習をしたんです。それまで(スピードとスタミナの両方を問われる)16kmの練習は全然ダメで走れなかったんですけど、この時は最後まで谷口さんについて走ることができて、苦しさの上にもうひとつかぶせるような練習ができた。脚の状態もよかったので、ようやくこれからトラックで結果が出せると思えました」

 迎えた1990年2月、金栗記念熊日30キロロードレースに出場する際、現役を引退してチームの指導にあたっていた宗兄弟からは、「成功したら次はマラソンに出よう」と言われていた。結果、森下はそのレースで見事優勝し、マラソンに本格的に取り組むことになった。

 翌1991年夏の東京世界陸上はマラソンではなくトラック種目での出場を目指すことに決め、その前の2月の別府大分毎日マラソンで初マラソンを経験し、翌1992年の東京国際マラソンでバルセロナ五輪の出場権を獲得するというアプローチを宗兄弟と確認した。

 日々の練習は、東京世界陸上のマラソンで優勝し、バルセロナ五輪の出場権を獲得することになる谷口と一緒にすることが以前よりも増えた。

「宗さんたちは(1984年)ロサンゼルス五輪に出場した際、練習をやりすぎて失敗した経験を持っていたので、いいところ取りで私と谷口さんに教えてくれたんです。宗兄弟の練習は"鬼練"とも言われていましたが、私たちの時はロスの経験からうまくメリハリをつけてくれていました。レースのスタートラインに立った時に『走りたい!』と思う自分をつくるのがテーマになっていたんです」

 1990年9月には北京アジア大会の10000mで金メダル、5000mで銀メダルを獲得し、スピード面の強化も順調に進んだ。ロードでは宗兄弟の指導を仰ぎ、谷口と切磋琢磨することで強さが磨かれていった。

【初マラソンの39km過ぎ、中山竹通に肩を叩かれた】

 そして計画どおり、1991年の別府大分毎日マラソンが森下にとってマラソンのデビュー戦になった。このレースには、1988年ソウル五輪マラソン4位の中山竹通(ダイエー)が急遽、出場した。

「スタートした時、中山さんに勝てば人生が変わると思っていました。私にとってラッキーだったのは、このレースから中山さんが最初から飛ばしていくレースではなく、集団についていくスタイルに変わったこと。正直、勝てるとは思っていなかったですけどね」

 30km手前で森下は、中山と三村徹(鐘紡)から少し離れ、50mほど差がついた。中山たちがペースを上げたからだったが、森下が自分のペースを守っていると、徐々に前が落ちてきた。30km以上は未知数で自分の体がもつのかという怖さはあったものの、まだ余裕があった。35km過ぎからは中山とマッチレースになったが、39kmあたりで突然、中山に肩を叩かれた。

「中山さんに『このまま行っていいよ』と、言われたんです。『どういうこと?』って思いましたね。中山さんはキツいのか、それとも、これは作戦で『俺はまだ余裕があるよ』ということなのか、いろいろ考えました。でも、『行け』というなら行ってみようと前に出たんです」

 中山の前に出てスパートすると、初めて「勝てるかも」と思った。ゴールが徐々に近づくにつれ、勝ちたいという欲が出てきた。最後の力を振り絞って逃げ、初マラソン日本最高記録(2時間08分53秒)で優勝を果たした。

「ゴールした時は、それまでの初マラソン日本記録が(旭化成の先輩の)米重(修一)さんの2時間12分00秒だったので、同じくらいかなと思いました。でも、8分台が出たので、びっくりでしたね。レースの10日前に20km走をやって60分ちょっとくらいで走っていたんですが、本番は2倍走らんといけんのかって思っていたので、走り終えるまで自信がなかった。タイムを意識せずに中山さんについて走っていたら、自然と(タイムが)ついてきたって感じでした。でも、走り終えてホッとしていましたね」

 30歳の中山から23歳の森下に世代交代――。

そう騒がれたが、中山の強さは一緒に走った森下が一番理解していた。ふたりの次のマラソンでの対決は、翌1992年2月の東京国際マラソンとなるが、その前に森下には東京世界陸上の10000mがあった。そこでは28分13秒14で10位という好タイムを残し、いよいよバルセロナ五輪のマラソン代表選考に挑むことになった。

(つづく。文中敬称略)

>>>中編を読む

森下広一(もりした・こういち)/1967年9月5日生まれ、鳥取県出身。八頭高校卒業後に旭化成に入社。宗(茂・猛)兄弟のもとで力をつけ、1991年に初マラソンの別府大分毎日マラソンで、初マラソン日本最高記録(2時間08分53秒)で優勝。翌1992年の東京国際マラソンでも優勝し、バルセロナ五輪の出場権を得ると、その五輪本番では銀メダルを獲得。その後はケガなどで低迷し、再びマラソンを走ることなく1997年に現役引退。1999年にトヨタ自動車九州の監督に就任し、現在まで後進の指導にあたっている。

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