中畑清×篠塚和典 スペシャル対談(4)
(対談3を読む:中畑清が篠塚和典との対談で明かした、DeNA三浦大輔監督に伝え続けていること 期待の若手は「我慢して使うべき」>>)
芸術的なバットコントロールと守備で活躍した篠塚和典氏と、「絶好調男」などの愛称で親しまれた中畑清氏。長きにわたって巨人で活躍したレジェンドOBふたりに、数々のエピソードを語ってもらった。
【中畑がショックを受けたドラフトでの出来事】
――おふたりは1975年の長嶋一次政権時のドラフトで同期入団されていますが、お互いの印象はいかがでしたか?
中畑清(以下:中畑) シノ(篠塚氏の愛称)の存在はまったく知らなかったんです。夏の甲子園で活躍し、銚子商(千葉)を優勝に導いたことも知りませんでした。当時、自分が巨人からドラフト1位の評価をされていることが報道されていたので、その気になっていたのですが、蓋を開けてみたらシノが1位指名されて......私の立場はなくなってしまうわけじゃないですか。
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自分とシノの関係はそういう状況からスタートしているんです。だから本当は、絶対に仲がよくならないはずなのですが、いいんだよな〜(笑)。シノは「超」がつくほど人間性が真面目で、とにかく野球が大好き。ひらすら練習をしていた印象があります。多摩川グラウンドでたくさん練習をした後、寮に帰ってきてからも練習していましたからね。
自分は練習が終わってすぐに麻雀卓に座っていたのですが、シノがティーバッティングをしている打球音が、私たちがいる部屋まで聞こえてきましたから。シノが首位打者を2度獲得する一方、自分は首位打者になれませんでしたが、その時の過ごし方の差だったと思っています。
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篠塚和典(以下:篠塚) 僕はプロの道へ進む予定はなかったですし、新聞もほとんど見ていませんでした。ドラフト会議の1週間前くらいだったと思いますが、巨人から話が来ていることを、当時の銚子商の斎藤一之監督から聞いたんです。それからですね、新聞を読むようになったのは。『スポーツ報知』にもドラフト当日、「(巨人は)中畑1位」と書かれていましたが、プレーを見たこともなかったですし、どういう選手かはわかりませんでした。
中畑 大人の世界を信用できなくなりますよね。その選手が巨人から1位で指名されるわけですから。ドラフト当日は本当にショックが大きかったですね。
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篠塚 でも、僕は喜べなかったんです。行くつもりはなかったですから。
中畑 ショックが大きくなってしまうから、その言い方はやめてくれよ(笑)。今の発言はちょっと撤回してくれない?
篠塚 わかりました。撤回します(笑)。でも行くつもりがなかったというのは、肋膜炎を患っていたのと、漫画『巨人の星』が流行っていて、そのなかで出ていたような巨人の厳しい練習に体力的についていけないのでは......という不安がありましたからね。
ノンプロの日本石油(現ENEOS)に行くことが決まっていて、ミスター(長嶋茂雄氏)がつけた背番号「3」をもらっていましたし、2年くらいはしっかりと体を作って、それからプロに挑戦するというイメージを描いていました。なので、巨人から指名された時はみんな喜んでくれましたが、自分は体に対する心配が一番にあってあまり喜べなかったんです。
【今のプロ野球の練習に感じること】
中畑 初めてシノに会った時は病弱な印象があったけど、実際はめちゃくちゃ体が強いんだよね。冗談じゃないよって(笑)。1時間くらいの特守(マンツーマンノック)でも全然へばらないし、長距離走も飄々(ひょうひょう)と走る。「どこが肋膜炎で入院した選手なんだ?」って思ったよ。
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篠塚 最初に中畑さんを見たときは体の大きさに驚かされましたし、「プロに入るような選手たちはやっぱり体格がすごいな」と。それと、中畑さんはやはり元気がいいので、気持ちだけは負けないようにと思っていましたね。
中畑 でも、あの時代があったからこそ、その後の人生があるわけだから。
篠塚 どの選手も、ユニフォームは真っ黒になっていましたよね。
中畑 練習量は多かったし、コーチが選手をだましてでも練習をさせるというか、そういう環境があったよな。それで一流になった選手が、コーチに感謝していた。今は決められた時間で決められたように練習し、淡々と終わってしまう。練習量も少ない。
私から見ると、「これではうまくなっていかないだろうな、ひと皮むけないだろうな」という環境。巨人もそうだし、いろいろな球団が「選手にケガをさせてはいけない」みたいなメニューを組んで練習している。強い選手というか、生き残る選手がなかなかいない。昔と比べて体は大型になっているけど、上っ面だけで中身が薄いというか、弱いっていうのかな。
篠塚 基本的に弱いですよね。三軍だとか環境は整っているんですけどね。やはり指導者には、ある程度の厳しさが必要だと思いますし、やらせなければうまくなりません。昔のいい部分もあるわけで、そこは伝統として継続してほしいですね。
【厳しくも感謝した伊東キャンプ】
――厳しい練習として真っ先に挙げられるのは、おふたりが参加された伊東キャンプです。
中畑 あれは別格ですけどね。ただ、私が巨人に入団した当初から、同じような練習メニューをファームで普段からやっていたような気はします。それを1カ月間に凝縮したのが伊東キャンプだったのかなと。
篠塚 ファームでの上下関係なんかもけっこう厳しかったですね。常に先輩の顔色をうかがうというか、そういうのは高校時代と同じでした。練習メニューもきつかったですしね。入団して3年間の厳しい練習を乗り越えてからの伊東キャンプでしたから、確かにきつかったですけど、3年間かけて作った体があったからこそ、みんなケガをしなかったんじゃないですか。
中畑 普段から厳しい練習メニューをこなしていなかったら、あの伊東キャンプはやり通すことはできなかったと思う。故障者が何人も出て、置いてけぼりになる選手が出ていたと思うな。
篠塚 ケガしたらどうしようとか、一切考えていなかったですよね。
中畑 考えなかったよな。ただ、朝起きるのが本当に嫌で、次の日を迎えたくなかった。
篠塚 早いんですよね、次の日が来るのが......寝たらもう朝という感じで。
中畑 門限は夜10時だったけど、起きている選手はいなかったよな。もうバタンキューだから。もう朝が嫌で嫌で、あんな日々を過ごしたのは後にも先にも伊東キャンプの1カ月間だけ。でも、それが我々の財産になったよな。キャンプに参加した選手はみんな、二軍で終わらずに成功しているんだから。
キャンプ前までは"一軍半"みたいな選手が半分くらいいたと思うけど、それが全員成功して、プロ野球の世界でいい思いをして終わっているわけだから、本当に感謝だよね。ところで、あの練習メニューを作ったのは誰だったんだ? シノか?
篠塚 考える暇もないですよ(笑)。
中畑 (当時ヘッドコーチの)青田昇さん?
篠塚 青田さんは後から合流しましたからね。土井正三さん(守備走塁コーチ)か与那嶺要さん(打撃コーチ)ですかね?
中畑 いや、ミスターだろうな。
篠塚 ミスターもやはり一緒に考えたでしょうね。
中畑 階段の昇り降りにしても、馬場の平(急勾配の坂道)でのランニングも。
篠塚 そういった場所はトレーニングコーチが見つけてきたんじゃないですか?
中畑 ミスターが事前に視察して準備したように思うけどな。そうでなければ、あれほど環境が整わないと思う。選手をしごくためにやってるんだから(笑)。
篠塚 いい思い出ですよね。
中畑 最高の野球人生を送らせてくれる原点を作ってくれたわけだから、ミスターに感謝だよな。参加した選手は皆が感謝していると思う。
【原辰徳の入団で内野陣が激変】
――中畑さんと篠塚さんを語るうえで欠かせないのが、原辰徳さんの巨人入団に伴うポジション争い(※)です。
(※)1980年ドラフト1位で原氏が入団。大学時代のポジションはサードだったが、巨人のサードには中畑氏がいた関係でセカンドを守ることに。前年の活躍でセカンドのレギュラーをつかみかけていた篠塚氏がレギュラーから外れた。その後、中畑氏がケガで離脱し、原氏がサード、篠塚氏がセカンドへ。篠塚氏が好成績を挙げて外せない選手になっていたため、復帰した中畑氏はファーストに入った。
中畑 私はファーストのイメージが強いと思いますが、もともとはサードですし、サードにいたかったんです(笑)。「原が入団してこなかったら、私の人生はどうなっていたんだろう」というくらいの影響がありました。自分にとって真のライバルは原でしょうね。私とシノの人生に大きく関わってくることにもなりましたし。
結局、私がケガをしたことですべてが丸くおさまったというか、磐石な内野陣を形成することにつながりました。だからシノは、「中畑さん、ケガしてくれてありがとう」って俺に感謝しているわけです(笑)。天が与えてくれたケガだと自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えて頑張っていましたよ。
篠塚 ファーストでゴールデングラブ賞を7年連続で獲りましたしね。
中畑 そこは強調して(笑)。でも、隣で守っている(セカンドの)シノの守備の邪魔をしてしまっていたかもしれない。
篠塚 まぁ、時々そういうことがありました(笑)。
中畑 「今の動きはシノにとって邪魔だった?」と聞くと、「いや、どんどん来てください」と言われたこともあった(笑)。シノは乗せるのがうまいんだよな。自分で言うのもなんだけど、いいコンビだったと思うよ。
(対談5を読む:中畑清が篠塚和典に涙で感謝した、1989年日本シリーズでの現役最終打席「ありがとう、シノ」>>)
■中畑清(なかはた・きよし)
1954年1月6日生まれ、福島県出身。駒澤大学を卒業後、1975年のドラフト3位で巨人に入団し4年目から一軍に定着した。通算打率.290の打撃、ファーストでゴールデングラブ賞を7回獲得した守備で勝利に貢献。長嶋監督から調子を聞かれ、試合に出るために「絶好調!」と答えて「絶好調男」としても人気を集めた。1989年に現役を引退。2012年から4年間、DeNAの監督を務めた。また、2004年のアテネ五輪ではヘッドコーチを務めていたが、チームを率いていた長嶋茂雄氏が脳梗塞を患って入院したあとに監督を引き継ぎ、チームを銅メダルに導いた。
■篠塚和典(しのづか・かずのり)
1957年7月16日生まれ、東京都出身、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年を最後に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。