ネット中継というものが広く知られるようになったのは、2010年ぐらいのことだったと思う。当時Ustreamというサービスが大きくクローズアップされ、ソフトバンクの孫正義会長が渋谷に専用スタジオを作るとTwitter(現X)で発表し、大騒ぎとなった頃である。
【画像を見る】ローランドは無料アプリをスイッチャーのユーザに提供している
当時はWebカメラ1つでダラダラと現場の様子を流すようなものが主流だったが、潮目が変わったのは2011年の東日本大震災である。テレビが放送しない省庁会議やディスカッションがネットで中継され、動画メディアとしてテレビではできないことをやるという風潮が生まれた。
ローランドのミキサー/スイッチャー「VR-5」は、11年1月に発売されたが、当初はライブスイッチャーというより、SDカードへ収録して動画共有サイト向けコンテンツを作る機器という性格が強かった。ただ720pながらもUSB Video/Audio classへの出力を備えていたことから、3.11後にはネット中継用に大量購入されるに至った。思えばこれが、現在のローランドのプロフェッショナルAV機器の方向性を決定づけたといえる。
当時からすでにライブイベントや展示会などのステージに大型ディスプレイの採用が進んでいたが、これへの表示にプラスしてネット中継もやる、ということになると、ローランド製品の導入が増えていった。入力に対して信号を自動判別するというマルチフォーマット対応により、取りあえず線がつながりさえすれば絵が出るという作りは、大きな反響を得ることとなった。
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以降ローランド製品はスイッチャー/ミキサー一体型のVRシリーズと、映像中心のVシリーズに分かれていったのはご承知の方も多いだろう。逆に、業務用のミキサー専用機からは撤退していくことになった。
●生かせていなかった機能
ローランドのスイッチャーは、最初から放送用スイッチャーの仕様とは別の文脈で設計されている。11年当時から、アナログコンポジット入力がメインであったことからも、コンシューマー機器を接続するということが主眼に置かれていたことが分かる。のちにSDI入力を備えるモデルも出るが、SDIだけのモデルはなく、デジタル入力としてはHDMIを主力に据えている。これはコンシューマーのデジタルカメラやPCがこれを搭載しているからである。
一方で、放送用スイッチャー向けの機能として残されたのが、キーヤーの機能の一つ、エクスターナルキーである。これは合成用のフィル映像とマスク用のキー信号を別々の経路から入力できる機能で、入力数の多い放送用プロダクションスイッチャーには大抵装備されている機能である。
例えばテロップ送出などで外部テロッパーを使用する場合、合成用とマスク信号が別々に出力されていくるので、スイッチャー側はエクスターナルキー機能を利用してこれを合成する。昨今はスイッチャー内にも静止画がストアしておけるメモリ領域を持つものも増えており、これもPNGなどαチャンネル付きで保存できるファイルフォーマットの映像を合成すると、自動的にアルファチャンネルをキー信号に変換して合成する機能を有するものもある。
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一方で入力数がそれほどないスイッチャーでは、エクスターナルキーを使用すると入力チャンネルをキー信号用につぶすことになるので、あまり積極的に利用されてこなかった。ネット配信しかやったことがない人は、いまだ有効な使い方を知らないケースもある。
24年夏からローランドでは、自社スイッチャー向けに無料のテロッパーソフトウェアGraphics Presenterの配布を開始した。PC上でこのツールを使ってテロップを作成し、HDMIケーブルでスイッチャーに入力すると、エクスターナルキーを使って動きの付いたテロップやロゴを合成することができる。対応スイッチャーは、V-160HD、V-80HD、V-8HD、VR-120HD、VR-6HDとなっている。いずれも最新ファームアップが必要になる。
ポイントは、HDMIケーブル1本の接続で、フィル信号とキー信号の2系統を伝送することだ。SDI伝送では、4:4:4:4といったフォーマットが使えるので、フィル/キーを1本で伝送できる仕組みがあるが、HDMIにはなかった。コンシューマー用途ではそんなことをする必要がなかったからだ。
ローランドではこのあたりの技術仕様を公開していないが、汎用PC側のHDMI出力をカスタムでいじることはできないため、HDMI規格の中で工夫してやっているのだろう。HDMIは最大4:4:4で出力できるので、フィル信号を4:2:2か4:2:0で、キー信号を残る0:2:2か0:2:4に載せるといった方法だろうか。こうした信号の分解はスイッチャー側の仕事になるので、最新ファームの適用が必須というわけである。
Graphics Presenterでは多数のテンプレートが付属しており、凝ったテロップ、例えばスポーツやゲームの得点ボードのようなものも、プロがデザインしたものを利用できる。ユーザーは得点部分を書き替えるだけだ。
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またテロップの動きもプリセットされているので、アクション付きのテロップが簡単に作成できる。このあたりは静止画で作ったテロップを合成するだけでは得られない効果である。これもフィル/キー共に動画入力が可能なエクスターナルキーがあるから、できることである。
放送用のテロッパーツールはほぼ同等の機能を備えているが、放送用スイッチャーに入力するため、PCにSDIのフィルとキーが出力できるボードを装着する必要がある。一方Graphics Presenterは、こうした追加投資が必要ないこともポイントの一つである。
●オペレーションを解放する「VenuSet」
25年に入ってローランドは、もう一つのソフトウェアを市場投入した。「VenuSet」は現在iPad用が公開されているが、追ってWindows版とiOS版が投入される、スイッチャーコントロールソフトだ。
ネット中継用ツールには完全にソフトウェアだけのものもあり、こちらの方が慣れているという人も多い。ローランドのスイッチャー製品は、ハードウェアとコントロールパネルが一体となっているのが特徴だが、ハードウェアを使ったことがない人にはなかなか難しいものがある。
「VenuSet」は、ハードウェアスイッチャーのコントロールをソフトウェア上に移したもの、といえる。対応スイッチャーは、Graphics Presenter対応機種と同じだ。
スイッチャーとの接続は、USB、Bluetooth、LANのいずれかを使用する。ただしBluetooth接続の場合は、V-8HDのみ除外される。またUSB接続の場合は、入力チャンネルの実映像をVenuSet上でモニターできる。
興味深いのは、スイッチャーの制御コマンドにMIDIを使用しているところだ。以前からローランドスイッチャーはMIDIに対応してきたが、これといった使い道がなく、持て余してきた機能である。
従来スイッチャーの外部制御に用いられてきたのは、GPIである。ただGPIは単にタイミングでパルス波のトリガーを発するだけなので、ボタンを押す、切り替えるといった単純な機能しか制御できない。何かを連続で動かすには、スイッチャー上でマクロやタイムラインを組んで、それを番号でたたくといった方法だった。
一方MIDIはリアルタイム可変制御可能なバリュー値を持っており、GPIよりも柔軟な制御が可能になる。音量のアップダウンなどがVenuSetからコントロールできるのも、こうしたバリュー値が制御できるからだ。MIDI信号を受けるスイッチャーなど、もともと電子楽器屋さんであるローランドしか作っていないので、こちらも完全にローランドオリジナルの機能となる。
VenuSetの特徴は、スイッチャーの入力状況と関係なく、UI上で自由にカスタマイズできることである。例えばメインキャスターを捉えたカメラが3chに入力されていても、1番として画面上に割り付けることができる。入力の番号にこだわる必要がなく、コンテンツとしての重要性を考慮した画面構成ができる。
本番のオペレーションは、画面をタッチするだけだ。スイッチャーに仕込んであるマクロやシーケンスも名前を付けてボタン化できるので、ボタンの押し間違いによる壊滅的なミスも防止できる。
誰でも簡単にスイッチャーがオペレーションできるようになるというのは、本当だ。ただこれは、システム構築とオペレーションを分業するということでもある。配信システムのセットアップ自体はハードウェアスイッチャーに対して行わなければならず、それなりに知識と経験が求められる。またVenuSetへのボタン割り当ても、本来はシステム全体が分かっている人が行うべきだろう。
だがその一方で、イベントホールやプレゼンルームのように、システム全体が固定されている場合もある。この場合は、その場所をオペレーションする人が事前にVenuSetを使ってオペレーションメニューを作るということも考えられる。
VenuSetは、現場のオペレーションの効率化と高度化に貢献するとともに、操作自体もパフォーマンスの一部に組み入れることができる。つまり機材の位置とは別の場所で操作できることで、登壇者自らがスイッチング操作を行うという方向性が出てくる。
現時点では、配信システムの結線状況を把握していない演者がVenuSetでコントロール画面を作るというケースはあまり考えられない。配信システムを組んだものがコントロール画面を作り、演者に渡すという方向になるだろう。
これは最終的には、オペレーターとシステムを組む人が分業化していくことになる。課題は、こうした分業化が起こることで、「配信システムを組む」という仕事がちゃんと職業化できるのかということだ。テレビ業界は古くからこうした分業が行われているが、それはアナログ時代にシステムを組むのがものすごく大変で高い専門性が必要だったからである。
一方ネット配信では信号結線やシステムがデジタル化し、同期も自動引き込み、フォーマットも気にしなくていいという環境整備がなされた結果、専門性はそこまで必要ではなくなり、テレビ中継システムの経験がなくても、多くの人が参入できるようになった。
●誰に発注できるのか問題
ネット中継においては、放送からスタートした者と、ネット中継からスタートした者では、マインドが大きく違う。放送の根底は舞台演劇であり、仕込みの場面や舞台外を客に見せるということは、あってはならない。このため、スイッチャーやミキサーなどを使って表に見せるものと裏側はきっちり分けることを当然と考える。
一方ネット中継はPCの画面共有ができればいいといった考えが根底にあり、スイッチャーやミキサーといったハードウェアを使って、見せたくない部分を隠すというケースはまだまだ少ない。情報セキュリティ系の講演に行っても、登壇者のPCにつなぎ替える時にデスクトップ画面が丸見えになり、今抱えている案件名フォルダが中継画面に表示されたりしてこっちが驚くことがある。
最終的にはこうしたところに至るまで、きちんと機材が入って隠すものは隠すといった格好になるべきだと思う。ただこうした中継業務、あるいはシステム構築を請け負う業態の存在が不明確で、「ちゃんとしたプロ」というのがいるのかいないのか分からない、発注したくても窓口が見つからないといった課題がある。
機材の発展によってネット中継は1つの業態をなすようになったが、業界として組織化されたり方法論が標準化されているわけでもなく、それぞれの業者が自分のやり方でやっているという状況が続いている。
この業態を長く続けるためには、メーカーや事業者を含めた交流や情報交換できる仕組み、組織的な広報戦略が必要なのだろう。
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