サッカー日本代表の100年以上続く東アジアでの戦いの歴史 E-1サッカー選手権開幕

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2025年07月08日 07:20  webスポルティーバ

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連載第57回 
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 今回は7月7日よりスタートしたE-1サッカー選手権について。今から100年以上の前の試合から続いている、日本代表の東アジアでの戦いの歴史を紹介します。

【第1回E-1選手権は2003年に開催】

 日本代表は韓国開催の「EAFF E-1サッカー選手権」に臨む。東アジアサッカー連盟(EAFF)主催の大会だ。

 EAFFは2002年の日韓W杯直前に結成され、第1回「東アジア選手権」は翌2003年に開催された。その後、大会名は「EAFF東アジアカップ」を経て2017年の第7回大会から現在の「E-1選手権」となった(いずれ「E-2選手権」ができるのかと思ったが、そういうわけではなさそうだ)。

 第1回大会は当初2003年5〜6月に予定されていたが、東アジアでSARS(重症急性呼吸器症候群=コロナウイルスによる感染症の一種)が流行した影響で12月に延期された。

 僕は、ある雑誌の依頼でこの大会の予選を取材するために香港を訪れたが、香港ではSARSが大流行していて、バスの中でも咳をする人が大勢いたのでかなりの恐怖を感じたが、なんとか感染することなく帰国した。

 つまり、この大会は初回から波乱含みだったのだ。

 その後も、2020年代前半のコロナ禍を含めて様々なトラブルがあり、規約では「2年に一度」となっているが開催は不定期となっている。

 たとえば前回大会は、はじめは中国開催の予定だったが、中国が「ゼロコロナ政策」のために開催を断念。急遽、日本で大会が開催されたが、今回も3年ぶりの開催となった。

 また、日中韓の主要3カ国に劣らない力を持つ北朝鮮は政治的な理由で出場したり、出場しなかったりを繰り返している。今回の大会でも北朝鮮は男女ともに棄権してしまった(女子は予選大会で圧勝したものの、その後棄権。代わって予選2位のチャイニーズタイペイ=台湾が出場することになった)。

 そして、この大会のもうひとつの問題が、開催がFIFAの国際マッチデーではないところだ。おかげで、日本代表は海外組を招集できず、今ではこの大会は新戦力テストの場となっている。

 2002年に東アジアサッカー連盟(EAFF)が発足した頃には、これほど海外組が多くなるとは誰も予想できなかったのだが......。

 2003年の第1回大会(東アジア選手権)では、2006年ドイツW杯出場権獲得を目指すジーコ監督の日本代表が地元開催の大会で優勝を狙った。

 ところが、「勝てば優勝」という状況の最終韓国戦では、開始わずか18分で大久保嘉人が2枚目のイエローをもらって退場してしまう。その結果、ひとり少ない日本はスコアレスドローに終わって優勝を逃してしまったが、退場者が出た後も、攻撃的選手を投入したジーコ監督の積極的な采配は際立ったものだった。

 チーム作りでは不手際が目立ったジーコ監督だったが、こういうゲーム中の采配はさすがに修羅場をくぐってきた人らしい勝負勘を見せることがあった。

【戦前から始まっていた東アジアでの戦い】

 さて、EAFF発足前にも東アジア各国が争う大会は古くから存在した。そして、時代が古くなるほど日本チームの東アジア大会に向けての本気度は高かった。

 最も古いのは1913年に始まった「極東選手権大会」だ。

 日本、中国、フィリピンが参加する総合競技大会で、当時アメリカ領だったフィリピンはスポーツが盛んで、日本は陸上競技や水泳では強かったが、野球を除く球技では中国にもフィリピンにもなかなか勝利できなかった。

 実際、サッカー日本代表が初めて大会に挑んだ1917年の第3回大会(東京)では、日本最強の東京高等師範学校(筑波大学の前身)蹴球部が代表となったが、中国に0対5、フィリピンに2対15という信じられないスコアで大敗を喫した。

 そのため、1921年創立の大日本蹴球協会にとって、極東選手権での勝利が最大の目標となった。だが、初勝利は1927年上海大会でのフィリピン戦まで待たなければならなかった。

 そして迎えた1930年の東京大会では、協会は初めて全日本選抜チームを結成して参加した(それまでは、国内予選で優勝したチームが代表となっていた)。そして、「全日本」はフィリピンに勝利した後、明治神宮外苑競技場(国立競技場の前身)での最終戦で、中国と対戦。激しい点の取り合いの末に3対3で引き分けて同率優勝を飾った。

「同率」ではあったものの、これが日本サッカーにとって国際大会での初めてのタイトルとなった。

 政治的理由で極東選手権は1934年大会を最後に解体。その後、1936年のベルリン五輪で欧州の強豪スウェーデンを破るまで強化が進んだものの、第2次世界大戦後日本サッカーは弱体化。1960年代の東京、メキシコの両五輪を除いて、アジア予選の壁に跳ね返され続けた。

 とくに、第2次世界大戦後に独立した韓国は「宿敵」と呼ぶのがおこがましいほどで、1959年のローマ五輪予選で勝利した後(1勝1敗で得失点差で敗退)、15年間も勝つことができなかった。

 また、第2次大戦後は東西冷戦がアジア大陸にも波及。中国は1950年代末にはFIFAを脱退してしまい、中国や北朝鮮との交流が難しくなったため、東アジアの大会を開くことは不可能だった。

【日本サッカー飛躍のきっかけ ダイナスティカップ】

 だが、1980年代に入ると緊張緩和が進んだため、1990年には「ダイナスティカップ(中国語名「皇朝盃」)」という大会が始まり、合計4回開催された。日本、中国、韓国、北朝鮮が参加する大会だった。

 ところが、日本は第1回大会では3連敗、しかも3試合で無得点という惨敗に終わった。

 しかし、1992年の第2回大会では日本は優勝を果たした。そして、この優勝は日本サッカー史上でも大きな意味を持つものだった。

 この大会が開かれたのは、日本代表史上初の外国人監督ハンス・オフトが就任した直後だった。

 戦術的規律を求めるオフト監督とそれに反発するラモス瑠偉との確執が囁かれていたが、ダイナスティカップ優勝によってオフト監督の威信は確立され、同年秋の広島アジアカップでの優勝、さらに翌1993年のW杯最終予選進出につながっていったのだ(最後は「ドーハの悲劇」で幕を閉じたが)。

 前回に続いて北京で開かれた第2回大会。日本は初戦で韓国と引き分けた後、中国、北朝鮮に勝利してリーグ戦を首位で終え、2位の韓国との決勝戦に臨んだ。決勝戦は再び引き分けに終わったものの、PK戦で勝利して優勝した。日本が国際大会で優勝したのは、なんとあの1930年の極東選手権以来のことだった。

 1930年大会が「同位優勝」だったのと同じく、1990年の大会でも韓国との決勝は2対2の引き分けだったが、当時の感覚で言えば韓国との引き分けは「大健闘」と言わざるを得なかった。当時日本代表人気はそれほどでもなかったので実況中継はなく(後日、録画中継があった)、新聞記事も小さなものでしかなかったが、サッカーファンは「優勝」を伝える小さな記事を見て胸を躍らせたものだった。

 その後、日本は順調に強化を進め、ダイナスティカップでは第4回大会まで3連覇を飾った。

 第4回大会は1998年、つまりフランスW杯開幕の3カ月前に開かれた。当時の日本代表に「海外組」はおらず、岡田武史監督にとってはフルメンバーでの強化試合だった。

 岡田監督は、アルゼンチンやクロアチア相手に3バックで戦うのか、4バックにするのかまだ迷っていた。

 そこで、岡田監督は体の大きな中国との試合は守備のテスト、香港選抜戦は攻撃のテストといったように、試合毎にテーマを決めて戦うことを決心した(韓国戦は真剣勝負!)。

 横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)のこけら落としとなった初戦で韓国を破った日本は、香港にも5対1で大勝。だが、中国戦では開始9分で思いがけない失点を喫してしまう。

 リードした中国はその後守りに入ったので、日本は「守備のテスト」ができなくなってしまったが、それでも岡田監督は方針どおり守備的布陣で戦ったので、事情を知らないマスコミからは相当叩かれることになった。

 時代とともに持っている意味が変わってきた東アジアの大会。海外組が使えず、対戦相手の実力もまちまちな今回の大会を、日本は代表強化にどうつなげていくのか? 同じくソン・フンミンを初めとする海外組が不在の韓国との勝負も含めて見ていきたいと思う。

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