宇宙で過ごす環境はどれほどハードルが高いのか。前回の記事では少女が日本人初の女性宇宙飛行士船長になるまでを描く人気漫画『ありす、宇宙までも』(小学館)から考察した。今回も『ありす、宇宙までも』の描写を中心に宇宙飛行士に求められる能力と難易度を考察していきたい。
宇宙関連の取材を専門としている宇宙ライターの井上榛香氏は自身の著書『宇宙を編む: はやぶさに憧れた高校生、宇宙ライターになる』で宇宙開発を取材するという行為の所感を下記のように記している。
「宇宙開発を取材して原稿を書くには、工学やサイエンスのほか、政治、国際関係、安全保障、歴史、法律、ビジネスなどの知識が求められ、まるで総合格闘技みたいだ。どれだけ勉強しても知らない専門用語や略語が湧いてくる」
取材する側がそれだけ多方面の知識に通じていなければならないということは、取材される側にはそれ以上の知識が求められるということだ。以下は2021年度のJAXA宇宙飛行士候補者募集要項の抜粋である。
評価する特性
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(1) 宇宙飛行士の職務に対して、明確な目的意識と達成意欲の強さ
(2) 宇宙飛行士に求められる任務・訓練に耐えうる健康状態
(3) STEM分野の知識や論理的思考力、円滑な意思の疎通が図れる英語能力とともに、教育や実務経験等の中で取り組んできたことにおける専門性
(4) ミッション遂行能力(自己管理、コミュニケーション、状況認識、リーダーシップ、問題解決、チームワーク、マルチタスク等)とともに、緊急事態にも迅速かつ的確に対処する能力
(5) 様々な業務環境及び技術や社会の急速な進歩・変化に適用するために、必要な身体能力及び精神心理的適応性・強靭性を有するとともに、未経験の知識や技量を速やかに習得する能力及び未経験の作業に対して自分の知識や技量を柔軟に活用して対応する能力
(6) 日本人としての誇りを持ち、人文科学・社会科学分野を含む広範な素養・知識を有し、並びに自分と異なる文化・伝統・価値観等を有する者に対する敬意を払う国際的なチームの一員にふさわしい態度
(7) 自らの体験や成果などを外部に伝える豊かな表現力と発信力
(8) 国内・国際社会で求められる高いコンプライアンス意識
かつて宇宙飛行士候補者の募集要項はもっと条件が厳しく「大学卒以上(自然科学系。理学部、工学部、医学部、歯学部、薬学部、農学部等)」「自然科学系分野における研究、設計、開発、製造、運用等に3年以上の実務経験」が必須だったが、その条項は最新の募集要項から削除された。その結果、2008年度の宇宙飛行士候補応募総数963人から最新の2021年度では応募総数4127人に激増した。最終的に選ばれたのは2人。その倍率、実に2000倍以上である。エリートぞろいのGoogleですら採用倍率は500倍程度である。単純計算すると宇宙飛行士候補生になるのはGoogleに就職する4倍難易度が高いのだ。加えて宇宙飛行士候補生はJAXAに採用されてから最低でも2年以上の訓練を受ける。
その後、宇宙飛行士としての活動に必ずアサインされるかというかそうではない。中には宇宙に行くこと無く終わってしまう候補生もいるのだ。その確率がどの程度かわからないが宇宙飛行士候補生になる倍率2000倍に加えて、候補生から宇宙飛行士になるのにもくぐらなければならない関門があるのである。これで宇宙飛行士なる難易度がいかに高いかはお判りいただけるだろう。
加えて『ありす、宇宙までも』主人公・朝日田ありすは第1話の冒頭で「史上初の日本人女性の船長(コマンダー)」に就任したと描写されていたが、その高倍率を勝ち抜いたエリートぞろいの宇宙飛行士の中でもコマンダーは特別な地位にある。JAXA有人宇宙環境利用ミッション本部 有人宇宙技術部 部長を務めていた柳川孝二(著)『宇宙飛行士という仕事 - 選抜試験からミッションの全容まで』によるとISS(国際宇宙ステーション)参加国間の取り決めである「ISS搭乗員の行動規範」にコマンダーについて「搭乗員全体の指揮者であり、統合されたチームを作り上げ、ミッションの準備・軌道上運用・成果の取得に責任を負う」との記述があるそうだ。さらに「通常の宇宙飛行士に求められる資質・能力より一段上のものがコマンダーに求められることが分かる」と柳川氏は見解を示している。宇宙飛行士になることがまず極めて難易度の高い目標だが、コマンダーはその中でも最難関であるというわけだ。
『ありす、宇宙までも』と同じく宇宙飛行士を題材としたマンガ『宇宙兄弟』の主人公・南波 六太(ムッタ)は最初から宇宙飛行士を目指しており、宇宙飛行士候補者に応募するために必要な経験をすでに積んでいた。『宇宙兄弟』の物語の舞台は一貫して宇宙開発業界であり、舞台を別のものに置き換えたら話は成り立たなかっただろう。
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それに対して『ありす、宇宙までも』のありすはまだ中学生で何者でもない。「宇宙飛行士でコマンダー」は「達成困難な目標の象徴」のようなもので、「総理大臣」や「ノーベル賞受賞」でも物語は成立しただろう。宇宙飛行士候補生になるのにまず倍率2000倍の競走を勝ち抜かなければならないが、イタリア出身の宇宙飛行士サマンサ・クリストフォレッティ氏が欧州出身女性として初めてコマンダーに就任したのがつい最近(2022年)のことである。歴代でも女性のコマンダーは数人にすぎず、「達成困難な目標の象徴」としてこれ以上にふさわしい例は存在しないのではないだろうか。
前置きが長くなったが宇宙飛行士になる難易度がどれほど高いのか、前述した要素を分解していこう。
・工学やサイエンスの知識
「工学やサイエンスの知識」をもっと短い言葉にまとめると「STEM分野の経験」である。ISSの定常運用時、宇宙飛行士の活動の主体は宇宙環境下における実験の実施である。具体的には宇宙科学、ライフサイエンス、微小重力科学、地球観測、宇宙観測などがその範囲である。そのため宇宙飛行士にはSTEM分野の実践的な知識が不可欠である。
最新の募集要項では「自然科学系の大学卒業以上」「自然科学系分野における実務経験3年以上」は省かれたが、新基準で採用された米田あゆ氏と諏訪理氏は二人とも東大卒でそれぞれ医学部と理学部で学んでいる。米田氏は医師として数年の経験を積んでからJAXAに応募し、2度目の応募で採用された諏訪氏は防災専門官の職務に従事していた。募集要項から省かれはしたもののSTEM分野の大卒以上の学歴と数年以上の実務経験は実質必須と考えた方がいいだろう。『宇宙兄弟』の主人公・ムッタは物語開始の時点で大学院修了・工学の分野で数年の実務経験があり応募するために必要な条件「STEM分野の経験」を満たしていたことがわかる。まだ何者でもない中学生のありすはこれからこの必要最低限の条件を満たさなければならないことになる。
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・政治、国際関係、安全保障、歴史、法律、ビジネスなどの知識
人間が行う活動であるため宇宙開発は政治、法律などの人間同士のしがらみに影響される。ロシアは宇宙開発において重要な役割をになっており、アメリカがスペースシャトルを退役させて以降、ISSへの宇宙飛行士の輸送はロシアのソユーズロケットに頼っている。2022年のウクライナ侵攻以降、ロシアからのソユーズロケットの提供が無くなってしまい現在の宇宙開発業界はロケットが不足している。宇宙に行き来する手段を補填するため、現在はSpaceXなども民間企業の「ビジネス」を利用し宇宙往還のシステムを複数確保する方向に向かっている。
宇宙はどこの国の領土でもないが、だからと言って各国が好き勝手をやっては宇宙開発の秩序が保たれなくなる。そのため「宇宙法」と通称される宇宙開発に関連する国際法が存在する。法律を学んだ『宇宙を編む』の井上氏によると「ロケットや人工衛星を打ち上げる際の許可制度やスペースデブリ(※宇宙ゴミ。地球の衛星軌道を周回する人工的な宇宙物体の総称)の発生を防止する規則や民間企業が月面で採掘した水や鉱物などの所有権を認める法律」などが具体的に該当するとのことだ。フィクションだが幸村誠(著)の漫画『プラネテス』(講談社)の主人公たちはスペースデブリ回収業者との設定だった。宇宙開発がさらに促進すれば宇宙法にスペースデブリ解体業者に関する項目も追加されるかもしれない。こういった事情から宇宙開発に従事する上で法律に無知は許されない。
国際関係の知識も重要である。ISSの居住空間は4LDKのマンションと同程度で、そこに6名ほどの宇宙飛行士がともに滞在することになる。現在まで19か国の出身者がISSに滞在している。嫌でも国際交流をしなければならなくなる。JAXAの募集要項にあった「国内・国際社会で求められる高いコンプライアンス意識」「日本人としての誇りを持ち、人文科学・社会科学分野を含む広範な素養・知識を有し、並びに自分と異なる文化・伝統・価値観等を有する者に対する敬意を払う国際的なチームの一員にふさわしい態度」はISSでのミッションに従事する際に必須であることが分かる。なお宇宙飛行士の公用語は英語とロシア語である。日常会話がこなせるレベルでは到底足りず、緊急時にも速やかに意志の疎通が図れるレベルの語学力が求められる。英語ならばわが国の義務教育でも学ぶし、大学まで行けば嫌でも受験レベルの英語は勉強するのでまだいいがロシア語はエリートぞろいの宇宙飛行士にとっても難物らしい。JAXAではまず基礎訓練段階で月に10時間をロシア語学習に費やし、最終的にモスクワの一般家庭に2か月ホームステイしてロシア語漬けになる没入訓練を行うとのことだ。スパルタな訓練だが結果は良好らしい。
・表現力と発信力
宇宙飛行士の業務に「普及啓発業務」がある。有人宇宙飛行を含む宇宙開発利用に対する国民の理解と継続的な支持を得るための広報活動を主とするものである。アプロ計画の立役者であるヴェルナー・フォン・ブラウンは報道関係者に向かって「一般に対するこの計画のわかりやすい報道がなければ成し遂げられなかった」と感謝の言葉を送っている。宇宙開発には国民の税金が使われている。JAXAのある宇宙飛行士は自らを「上野のパンダ」と評したようだが、客寄せパンダも国民の理解を得る上で必要な役割なのだ。『ありす、宇宙までも』に中学生の候補生たちが演劇を発表する描写があったが宇宙飛行士に広報活動を効果的に行うための表現力、発信力が求められることを考えると訓練の一環として納得がいくだろう。そういった事情もありNASAの基礎訓練項目にはメディア対応訓練が含まれる。
・人間力
宇宙飛行士の募集要項に「ミッション遂行能力(自己管理、コミュニケーション、状況認識、リーダーシップ、問題解決、チームワーク、マルチタスク等)」「精神心理的適応性・強靭性」との項目があるがこれを一言でまとめると恐らく「人間力が高い」ということになる。
『ありす、宇宙までも』劇中の宇宙飛行士選抜試験ワークショップでそれぞれ尖った能力を持つ中学生たちが尖った能力で本領を発揮する一方、ありすは「人にものを任せる」「適切に分担する」というSTEMの専門知識は必要ない分野で重要な能力を発揮した。のちにコマンダーとなるありすが「優れたリーダーシップ」という「人間力」を発揮した瞬間と言えるだろう。NASAの訓練プログラムには、リーダーを交代で務めさせながらロッキー山脈の過酷な自然環境で1日10kmの距離を10日間歩き続ける野外リーダーシップ訓練がある。これは会社における上司と部下の役割が固定された状況とは違う。その分野に秀でた者がリードする役割を担う役割分担の在り方を学ぶことが目的である。
問題解決には時に人の力を借りなければならないこともある。その時までに人脈を作っておく必要があるし、人脈を作るにはコミュニケーション能力が不可欠である。『ありす、宇宙までも』劇中描写でありすが種子島で宿を見つけるミッションに挑むが、ロケット打ち上げ時の種子島で宿を見つけるのは現実でも難題らしい。ロケット打ち上げがあるとJAXA職員をはじめとする宇宙開発関係者、報道関係者、ロケットファンが人口3万人足らずのこの島に押し寄せるため宿の確保は絶望的に難しくなる。ありすは人脈で問題を解決したが、『宇宙を編む』の作者・井上氏も取材時に同じミッションに挑んでいる。井上氏も人脈で問題を解決していた。コミュニケーション能力は人間力の基本と言っていいだろう。(実は筆者、井上氏とお会いする機会があり、『宇宙を編む』の存在はその時に知った。存在を知らなければこの原稿の内容は異なるものになっていたことだろう。これも人脈である)
・体力
宇宙飛行士として活動するには体力も必要だ。宇宙飛行士の募集要項に年齢制限は無いが過去の例を見るとJAXAが採用した宇宙飛行士候補者は一番上でも40代までである。2023年に採用された諏訪理氏は採用当時46歳だったが、これは現在までの採用時の最高齢である。同時に採用された米田あゆ氏は最年少(当時28歳)で好対照だった。宇宙飛行士の最高齢はジョン・グレン氏の77歳(※宇宙旅行の最高齢ではなく、公的機関の正式なミッションで航行した最高齢)だが、これは例外中の例外であり宇宙飛行士が活動するときの年齢の中央値は40歳から45歳である。『宇宙飛行士という仕事』にNASA長官が「NASA宇宙飛行士のフライト適合年齢は50歳まで」と語っていたとの記述もある。もちろん健康体である事も必須である。健康上の問題を理由に候補者になりながら結局宇宙飛行士になれなかった例も存在する。前項のとおり宇宙は行くのも滞在するのも過酷なので健康の維持は必須要件なのである。
「あらゆる質問に対応できる能力、かつテストパイロットであると同時に技術者と科学者としての資質も備える。この資質は海外諸国との和平を推進するうえで強力な武器となる」
恐らくは最も有名な宇宙飛行士であろうニール・アームストロングのことをアポロ計画の責任者はこう評している。まとめるなら「STEM分野への深い理解を大前提とした人間的な総合力の究極レベルに達した人」が宇宙飛行士である。そんな人材がそうそういるはずがない。採用倍率が2000倍を超えるのも当然である。『ありす、宇宙までも』のありすは最終的に宇宙に旅立つ未来が待っている。宇宙に行けるのならなばそれこそ宇宙(どこ)までもいけるだろう。「宇宙飛行士を目指す」とはそういうことなのである。
※主な参考書籍
リック・エドワーズ (著), マイケル・ブルックス (著), 藤崎 百合 (翻訳)『すごく科学的: SF映画で最新科学がわかる本』(草思社)
フランセス・アッシュクロフト (著),矢羽野 薫 (翻訳)『人間はどこまで耐えられるのか』(河出書房新社)
柳川 孝二 (著)『宇宙飛行士という仕事 - 選抜試験からミッションの全容まで』(中央公論新社)
井上 榛香 (著)『宇宙を編む: はやぶさに憧れた高校生、宇宙ライターになる』(小学館)
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