石ノ森章太郎の代表作、『サイボーグ009』が「誕生60周年」を迎えたのは昨年のことだが、今年に入ってからもさまざまなイベントや企画が展開されている。復刻本やカバー作品、トリビュート小説集など、関連書籍も多数出版されており、中でも、「天使編」と「神々との闘い編」という、2つの“未完の完結編”を収録した単行本――『サイボーグ009 天使編・神々との闘い編 特別編集版』(小学館クリエイティブ)は、順調に版を重ねているようだ(現在3刷)。
参考:【写真】ヒーロー、敵キャラ、スーパーメカ……貴重な写真がたっぷり入った『石ノ森章太郎 テレビヒーロー大全』誌面
※以下、『サイボーグ009』「天使編」および「神々との闘い編」のネタバレを含みます。両作を未読の方はご注意ください。(筆者)
■明確な「悪」がいない時代――サイボーグ戦士たちが闘う相手は「天使」!?
石ノ森章太郎の『サイボーグ009』は、“死の商人”「黒い幽霊団」(ブラック・ゴースト)に攫われ、身体をサイボーグにされた少年・島村ジョー(009)が、8人の仲間たちとともに正義のために立ち上がるSF漫画の金字塔である。
|
|
1964年、「週刊少年キング」にて連載が始まった同作は、「地下帝国“ヨミ”編」(「週刊少年マガジン」連載)においていったんは完結したものの、その後も掲載誌を「冒険王」に変え、連載は継続。あらためて作者によって、サイボーグ戦士たちの「長いすさまじい最後の戦い」として構想されたのが、「天使編」(1969年)であった。
物語は、雪山でスキーを楽しんでいる009と007が、偶然、「天使」とおぼしき存在と遭遇したことで幕を開ける(そのとき、007は天使に攫われてしまう)。のちに009と再び遭遇した天使の1人は、こんなことをいう。「オマエタチヲツクッタノハ ワレワレナノダ!/ダガ“収穫”ニキテミテ ガッカリシタ(中略)ダカラ ハジメカラ ヤリナオスコトニシタノダ」
「収穫」が何を意味しているのかは不明だが、「ハジメカラ ヤリナオス」というのは、世界のリセット――すなわち、「人類の殲滅」を意味しているのだろう。
むろん、天使(神?)がこれまでの敵とは次元の違う存在だということを、009たちは肌で感じ取っていた(たとえば、009の最大の武器である「加速装置」が、天使の前では封じられてしまう)。それでも彼らは、天使たちに抵抗することで、「人間は生きたいのだ」という意志を伝えようとする。そして、チームの精神的支柱である超能力ベイビーの001が、自分以外の8人に「新しい力」を授けようとする場面で、物語は未完のまま幕を閉じる(連載中断のおもな理由は、ストーリー面での「準備不足」だったようだ)。
凄い物語だ。果たして、「天使」とは何者なのか。人類の「造物主」であることに間違いはないだろうが、それを「神」(=攻撃の通じない絶対的な存在)と考えるか、「異星人」(=物理的に応戦可能な存在)と考えるかで、「抵抗」する側のスタンスは変わってくるだろう(009と004は後者の立場をとる)。
|
|
いずれにせよ、東西冷戦を背景に生まれた『サイボーグ009』という作品は、ここに来て、ジャン=フランソワ・リオタールのいう「大きな物語」の終わりを描こうとした、という見方もできなくはないのである。
つまり、「善」と「悪」の二項対立がはっきりしている冷戦下においては、倒すべき「敵」の存在はわかりやすいが、やがて、もっと曖昧で、もっと恐ろしい、“目に見えない何か”と戦わねばならない時代が来ることを、石ノ森は作家の勘で予見していたのではないだろうか。そして、その新しい時代の「敵」の象徴が、「天使」であり、「神々」であったのではないかと私は思っている。
■巨匠が再び挑んだ壮大な物語――「神々との闘い編」とは?
一方、「サイボーグ戦士対神々」という「天使編」の主題はそのままに、「続編」ではなく、別の世界線の物語としてリメイクされたのが、「神々との闘い編」だ (「COM」連載)。「天使編」の連載終了からおよそ4か月後に開始した本作も、結果的には未完に終わっている(作者は言葉を濁しているが、おそらくは打ち切りに近い形での中断だったと思われる)。
「神とはなにか…? 伝説とは……? 歴史とは? 文明とはなんだ? そして人間とは……? 生命(いのち)とは……? 死とは……? 肉体とは……? 精神(こころ)とは……? そして――そして神とはなんなんだ!?」という冒頭の009のモノローグ通り、作者はこの世の“すべて”を漫画(石ノ森が好んだ言葉を使えば「萬画」)に落とし込もうとしたのだろう。また、随所で見られる実験的なヴィジュアル表現も圧巻である。
|
|
しかし、「天使編」よりもさらに敵(=神々)の存在がわかりにくいストーリー展開に加え、回を重ねるごとに断片的なイメージカットの連なりが増えていき、これにはさすがの(実験的な漫画を読み慣れているはずの)「COM」読者たちもついてこられなかったものと思われる(作者によると、雑誌連載時はストーリーの流れを無視したバラバラのエピソードを掲載し、単行本の編集時にあらためて時系列順に組み直すつもりだったようだ)。
ちなみに、こちらの物語も、「天使編」と同じように、001が仲間たちを高次の存在へと導こうとするところで中断している(その後は、前述したように断片的なイメージカットが続いていく)。
■終わることができぬほど面白い物語
果たしてこの2作は、「失敗作」なのだろうか。私はそうは思わない。むしろ、「天使編」と「神々との闘い編」という物語は、未完であるがゆえに傑作になった、とさえ思っている。
たとえば、国枝史郎の伝奇小説『神州纐纈城』も未完の傑作だが、同作について、半村良はこんなことを書いている。
伝奇小説の面白さのひとつは、ストーリーが次々にふくれあがって行く面白さでもある。(中略)
したがって『蔦葛』や『纐纈城』が未完の形で残っていることを、私はさして残念に思わない。もし作者が未完であることを残念に思って逝かれたとしたら、そのことのほうを私は残念に思う。
国枝さんは遂に終ることができぬほど面白い伝奇小説をお書きになったのである。
〜国枝史郎『神州纐纈城』(講談社大衆文学館)所収・半村良「巻末エッセイ・無窮迷路の味」より〜
このことは、石ノ森章太郎の「天使編」と「神々との闘い編」についてもいえるのではないだろうか。少なくとも私は、この2作を「終ることができぬほど面白い」物語だと思っている。
■巨匠の遺志を受け継いだ作家たちによる『サイボーグ009』完結編
とはいえ、晩年の石ノ森章太郎は、自身の仕事の集大成として、『サイボーグ009』の(3度目の)「完結編」の構想を練っていたようだ。しかし、1998年1月、石ノ森章太郎逝去(享年60歳)。
その後――2012年から2014年にかけて、遺された数冊の構想ノートと小説原稿(※石ノ森は、『サイボーグ009』の「完結編」を、小説と漫画の形で発表しようとしていた)をもとに、小野寺丈(原作)、早瀬マサト・シュガー佐藤(漫画)らが制作したのが、『サイボーグ009 完結編 conclusion GOD’S WAR』である(早瀬・佐藤による漫画版は小学館より全5巻で刊行。小野寺による小説版[※]は、2012年、角川文庫より全3巻で刊行)。
※小説版の正式タイトルは、『サイボーグ009 完結編 2012 009 conclusion GOD’S WAR』。また、文庫の1巻に収録されている物語は、2006年に刊行されたハードカバー版のテキストに加筆・修正を施したもの。
むろん、石ノ森章太郎の手が入っていないこれらの作品を、正規の「完結編」として認めたくないというファンも少なくないだろう(※ただし、小説版では、石ノ森が書いたテキストが一部使われている)。だが、私としては、巨匠の頭の中にしか存在しなかった物語の全体像(および「神々」の正体)を垣間みることができただけでも充分であったし、小野寺、早瀬、佐藤という石ノ森の魂を受け継いだ3人だからこそ、やり遂げることのできた大仕事だったともいえるのである。
かつて、「天使編」の最後の1コマ――石ノ森章太郎による「読者の皆様へ」という一文を読んで悶々としたことがあるような方は、併せてこちらも読んでみるといいだろう。
※本稿は、『サイボーグ009 天使編・神々との闘い編 特別編集版』の巻末に掲載されている拙稿(解題)のテキストを一部流用しています。(筆者)
(文=島田一志)
|
|
|
|
Copyright(C) 2025 realsound.jp 記事・写真の無断転載を禁じます。
掲載情報の著作権は提供元企業に帰属します。