自身の戦争体験が記された冊子を持つ佐野睦子さん=5月22日、岩手県釜石市 岩手県釜石市は80年前の7月14日、本州で初めて連合軍の艦砲射撃を受けたとされる。翌月にも再び艦砲射撃を受け、大規模な製鉄所のある「鉄の町」には計5000発超の砲弾が撃ち込まれた。隣接する現在の同県遠野市に疎開していた佐野睦子さん(94)は「地鳴りをじっと聞いた。自然災害は防げないが戦争は防げる。若い人にも伝えたい」と話す。
1945年4月、14歳だった佐野さんは故郷の釜石から現在の遠野市にあった女学校に集団疎開した。釜石は終戦直前の同年7月14日と8月9日、米軍などによる艦砲射撃を受け、市民を中心に計782人が犠牲になったとされる。
砲撃は両日とも約2時間続いた。「ドシーンドシーン」。地鳴りは約30キロ離れた女学校の校庭でもはっきり聞こえた。
二度目の艦砲射撃の直後、釜石の女学校の同級生たちが疎開してきた。家族らを亡くし絶望した友人を、ただ抱き締めるしかなかった。
釜石には捕虜収容所があり、捕虜が隊列を組まされ、鉱山での採掘などに向かう姿をよく見た。終戦後、その捕虜が口笛を吹きながら街を歩き回っている光景を見て、日本の敗戦を思い知った。
しばらくして父と釜石に戻ったが、一面焼け野原で、町のシンボルだった釜石製鉄所の5本の大煙突は艦砲射撃で無残に折れ曲がり、見る影もなかった。釜石駅周辺には爆弾でできた大きな穴がいくつもあった。「地獄そのものだった。もっと早く戦争が終わっていれば」。涙が止まらず、唇をかんだ。
戦後80年、釜石に住み続け、故郷の盛衰を見守ってきた佐野さん。50年代以降、鉄鋼業や水産業の振興で活気を取り戻していった時代を知る一方で、2011年3月11日の東日本大震災では、津波で甚大な被害を受ける様子を目の当たりにした。「町は今も寂れたまま。どうしてまたこんな目に遭うのか」と声を落とす。
それでも戦時中の経験を冊子にまとめ、講演会で体験を語るなど証言活動に力を入れている。「人間は津波の前では無力だが、戦争なら防ぐことができる。戦争だけはしてはいけないね」。佐野さんは力を込めた。