3000本のヒットよりも尊いもの 「国民的英雄」と呼ばれるロベルト・クレメンテの最後の旅

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2025年07月16日 10:20  webスポルティーバ

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ロベルト・クレメンテのDNA〜受け継がれる魂 (全10回/第1回)

 プエルトリコ出身の野球選手、ロベルト・クレメンテは、3000本安打という栄光の直後に、命をかけて救援に向かう途上で帰らぬ人となった。だがその精神はいまも世界中に息づいている。カリブ、中米、日本──。クレメンテの軌跡とそれに呼応する者たちの姿を、中日ドラゴンズで通訳を務める加藤潤氏が追った。

【野球界を揺るがした悲劇】

「彼は僕の国のナショナル・ヒーローだよ」

 2023年10月、ドミニカ共和国のサンフランシスコ・デ・マコリス球場で、ある同僚がふと口にした言葉が、この連載の出発点となった。

 この年、中日ドラゴンズはウインターリーグに選手を派遣していた。私も通訳として、ヒガンテスというチームに帯同していたが、そのロッカールームで隣に座っていたのが、ニカラグア出身のロナルド・メドラノだった。ダルビッシュ有を理想の投手像として敬愛する右腕が、その時に語った人物こそ、この連載のテーマの核心となるロベルト・クレメンテだ。

 プエルトリコ出身で、ピッツバーグ・パイレーツが誇る偉大なフランチャイズプレーヤーであるロベルト・クレメンテは、生涯で3000本ものヒットを積み重ねた。そして、その3000本目のヒットからわずか3カ月後、野球界を揺るがす悲劇が起きる。

 1972年12月23日、ニカラグアの首都マナグア近郊でマグニチュード6.3の地震が発生。耐震基準がほとんど存在しなかった同国の建物は次々と倒壊し、震央付近の断層も大きく裂け、約1万人もの犠牲者を出す大惨事となった。

 1964年、初めてニカラグアの地を踏んだクレメンテは、当初からこの国に深い愛着を抱いていたという。地震が発生するわずか3週間前には、マナグアで行なわれたインターコンチネンタル大会にプエルトリコの代表監督として参加していた。そして帰国して間もなく、地震が発生した。

 クレメンテは救援物資を送ったものの、腐敗した政権によって被災者のもとに届かないことを知り、憤慨。ついには自らチャーターした飛行機に支援物資とともに乗り込み、現地へ向かう決意を固めた。

 1972年12月31日深夜、ニカラグアに向けて飛び立つも、離陸直後、機体は漆黒の大西洋へと墜落し、その生涯に幕を下ろした。

 メジャーリーグは彼の勇気ある行動を称え、前年に創設された『コミッショナー賞』を、社会貢献活動に最も尽力した選手に贈る『ロベルト・クレメンテ賞』へと改称した。

 その献身から半世紀──。メドラノが教えてくれたように、2022年12月、ニカラグア政府はクレメンテを「国民的英雄」として公式に認定した。自らの出身国ではない異国で、英雄と称えられる。その事実は重く、そして限りなく尊い。

 クレメンテの生き様は、アメリカやカリブ海地域、中米の野球選手たちだけでなく、一般市民にまで大きな影響を与えた。そして多くは語られないものの、じつは日本の野球選手たちも、知らず知らずのうちに彼の影響を受けているのではないか。

 昨年、ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平が全国の小学校にグローブを寄贈し、大きなニュースとなった。その大谷の行動もまた、クレメンテの志の延長線上にあるような気がしてならない。

  昨年の冬、プエルトリコとニカラグアを巡り、クレメンテの足跡を辿る旅に出た。現地で出会った人々の言葉を、丁寧に紡いでいきたい。

 また、旅の前後には、私が所属するドラゴンズの選手たちにも話を聞いた。ある者は意識して、またある者は無意識のうちに、クレメンテの志と共鳴し、社会奉仕を行なっている。彼らの言葉を拾い、ひとつの線とすることが今回の目的だ。

【クレメンテと対戦した唯一の日本人】

 2024年12月初旬、出国を前にしてどうしても話を聞いておきたい人物とのアポが取れた。日本人メジャーリーガー第1号の村上雅則氏だ。

 なにしろ村上氏は、日本人選手として唯一、クレメンテと対戦し、グラウンドで言葉を交わした人物だ。さらに後述するが、引退後は多岐にわたるチャリティ活動にも精力的に取り組んでいる。その根底には、クレメンテとの出会いがある。

 都内某ホテル内のカフェで、村上氏に会った。

「最近はいろいろと立て込んでいてね。一昨日は仙台に行ってきたところなんだよ」

 齢80を過ぎているにもかかわらず、なんとも元気な姿で現れた。17年前に北海道日本ハムファイターズのOB会でお会いした時に受けた印象と変わらない。

「マーティ・キーナートのお別れ会に出てきてね。じつは(2001年に)"9・11"のテロがあったあと、被害に遭われた方へ義援金を送りたいと思って、チャリティゴルフをしたんだ。でも、どこを通せばいいのかわからなくて......それでマーティを頼ったんだ。彼を通して、MLB事務局にお金を送ったんだ」

 東北楽天イーグルスの初代ゼネラルマネジャーを務めたキーナート氏は、真の意味で野球を通じて日米の架け橋となった人物のひとりである。村上氏は、そのキーナート氏の協力を得て、テロの被害者に義援金を送ったという。

 お会いして早々、貴重なエピソードを聞かせてもらった。

 今回インタビューするにあたり、無理をお願いして、クレメンテの直筆サイン入りの色紙を持参していただいた。貴重なその色紙を、実際に目の前で見せていただくことができた。

「この色紙をね、ピッツバーグでオールスターがあった時に持って行ったんだよ。向こうの人に見せたら、はじめは人の名前が入っているから価値がないって言われたんだ。でも"ファーストジャパニーズピッチャーだよ"と言ったら、$4000の価値がある、なんて言われてさ。

 ほかにも中南米諸国の領事会に行ったことがあってね。ドミニカ共和国、キューバ、ベネズエラにメキシコ、そしてニカラグア。彼らにこの色紙を見せたんだ。するとニカラグア大使がこのサインを額から取り出して写真を撮りたいと。仕舞いには『オレの部屋に飾る』なんて言い出してね」

 このサイン色紙一枚を巡ってなんとも豪快なエピソードがあるものだ。このまま楽しい話を聞き続けていたい誘惑を抑え、本題に入る。クレメンテとの出会いの場面を振り返ってもらった。

つづく>>

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