
連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第1回 本田武史 中編
2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会〜2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第1回は、日本男子フィギュアスケートの隆盛の礎を築いた本田武史(44歳)にインタビューを行なった。中編では、ライバルと切磋琢磨した「4回転時代」初期やソルトレイクシティ五輪の思い出を語ってもらった。
【プルシェンコやヤグディンと"遊び"ながら4回転習得】
ーー長野五輪後、練習拠点をカナダへ移し、4回転サルコウも跳ぶようになりました。ただ練習では他の4回転もやっていたそうですね。
本田武史(以下同) 5種類全部やって4回転アクセルにも挑戦していました。アクセル自体に恐怖心はなかったので、2000年くらいにはもう練習はしていましたね。当時からハーネスで引っ張ってもらって跳ぶというのはできた。5種類の4回転を跳べたのは20歳になる前だったけど、採点は6点満点なので遊びでやっていたという感じでした。
ーー世界の4回転時代には追いついていこうという思いもあった?
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そうではなく、なぜ跳び始めたかというと、アレクセイ・ヤグディン選手(ロシア)たちとアイスショーで一緒になるからです。「お前、これ跳べるか」と言って、「4回転+4回転を跳べるぞ」みたいなやりとりがあって。「じゃあ、俺は4回転+3回転+3回転をやるぞ」とか。「ループは跳べるか」と言われて、「次までに降りておくよ」と言い返したり。そういうところがすごく大きかったです。だから、遊びなんです。試合の点数にならないと思っているので、誰かが5種類を跳べると聞いたら、「じゃあ俺も」って感じでした。
ーー当時は個性的な選手が多く、エフゲニー・プルシェンコ(ロシア)も4回転トーループ+3回転トーループ+3回転ループを試合で跳んでいました。
今はトリプルアクセル+オイラー+3回転フリップの3連続をやっている選手が多いけど、あれは2002年ソルトレイク五輪の時にプルシェンコが跳んでいるんです。でも今みたいにジャンプひとつずつに点数がついているわけじゃないので、「これが自分の武器です」というものを出していく場だったと思います。
今のように「跳ばなければダメ」ではなく、好きなことができた。減点方式だったので失敗してはいけないけど、好きなものをやるから恐怖心はないんです。ただショートは3位以内に入らないと自力優勝がなくなるプレッシャーがあった。緊張するのは、そこだけでした。
ーー減点方式では4回転ジャンプもトーループとサルコウだけで十分だったでしょうが、もしも加点方式だったらもっと入れていましたか。
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どうですかね。ルールではなく内容で考えると、当時はフリーではジャンプが8本まで、スピンが3つ、ステップが2種類。ショートはジャンプ3本にスピン3つとステップ2種類を入れなければならないルールなので、要素としては今よりも多かったです。ステップをふたつやると30秒以上かかるので、ショートの2分半のなかで4回転をやってスピン3本と考えると本当にタイトだというのはあるし、フリーも4分半でジャンプを8本と考えていくと厳しかったと思います。
【「この選手のこの曲」が色濃かった時代】
ーー練習でジャンプに挑戦する楽しいスケートと、試合で緊張するスケート。そのふたつをワクワクしながらやっていたみたいですね。
そうですね。それに当時だと、「この選手のこの曲」というハイライトがあったと思います。たとえば、ヤグディンの『ウインター』のトゥステップで滑っていく部分とか。プルシェンコも『マイケル・ジャクソン メドレー』や『トスカ』や『カルメン』もあった。
今の選手たちは、「昨シーズン、何を滑っていたっけ?」というようなところがあるからもったいないなと思います。能力も高くて4回転もたくさん跳べるようになっているけど、この選手のこれがすごいと言うと......宇野昌磨の『トゥーランドット』や、羽生結弦の『SEIMEI』、ネイサン・チェンの『ロケットマン』は出てくるけど。昔に比べてあまり多くないのは、ちょっと寂しいなという感じはしますね。
ーー 一方で、6点制のリザルトを見ると技術点もプレゼンテーションも、今の感覚だとすごく狭い範囲で順番をつけている感じもしますが、納得はしていましたか。
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6点満点の時は一番滑走の選手が基準点になって、それより上か下かで始まっていくのでやっぱり難しかったですね。どこを高めればいいのかわからなかったし、本当に自分が6.0点から始まって減点されているかもわからない。9人のジャッジだと5対4で負けることもあるので、そのひとりで運命が変わる瞬間もある。
正直、ロシア選手が失敗して6点近い点数が出ている時は、6.3点から始まっているんじゃないかなと思ったりもしました。ただ、そこに追いつくためにどうしたらいいかというのはすごく考えたし、6点満点を出してみたいと思っていました。プログラムも「自分にはこのプログラム」というようなすごさを出さないといけないなと。
ーーわからない正解を探す感じですね。
だから2003年の四大陸選手権のフリーで6点を出した時は、シーズン最初に作ったプログラムで全然点数が出なかったので、全日本の直前に『リバーダンス』に変更していました。そういう意味では、音楽でも勝たなきゃいけないっていうところはありました。
【まさかの得点にメディアが急増して...】
ーー4位になった2002年ソルトレイク五輪の時は、ものすごくワクワクしながらスケートやっている時代でした。
長野五輪での失敗もあったので、ソルトレイク五輪の時は自分のなかでも対応ができて体も心も準備ができていた状態で、調子もすごくよかったです。でも、前年の世界選手権で5位だったというところで、表彰台争いにはギリギリ足りないかなという......。メダルを狙うのではなく、メダルに近づけたらいいなという気持ちで臨んだのがまずかったかなと思いますね。
ーーショートは4回転+3回転とトリプルアクセルを跳びノーミスで2位。技術点とプレゼンテーションはともに5.7点を出すジャッジも多かった。
僕の前が優勝したヤグディンで、あとにプルシェンコとティモシー・ゲーブル選手(アメリカ)が残っていた。ジャッジとしても高い得点を出せず、ヤグディンのほうが上だから1個ずつ下で全員が2位をつけた。でも、プルシェンコが残っているので5.9点は残しておかなければいけないという状況でした。
だからショート2位というのはまさかでした。あんなに点数が出ると思ってなくて。でもフリーまで中1日空いたことが不幸でした(笑)。
ーー不幸?
ショート前には記者が3〜4人だったのに、ショート後にはテレビも含めてメディアが一気に増えてしまったんです。コーチはメダリストを何人も出してきた方だからできるだけガードしてくれたけど、選手村でも「男子フィギュア初メダルだ」という雰囲気になってきたので、その場にいるのもイヤでした。
フリーで4回転トーループをステップアウトしてしまったのは本当につらかったですね。プルシェンコが上がってくるのはわかっていたので、「もう3位でいいや」という気持ちだったし、そのためにも4回転サルコウは跳ばずに、調子がいい4回転トーループ1本で行こうと決めた。フリーは練習からほとんどミスがなかったし、「行くしかない。勝負をかけよう」という時に、少し守りに入ってトーループを失敗。そのあとは、もう焦りしかなかったです。
ーーそのあとの世界選手権では後半にも4回転トーループを入れていましたが、そのくらいの攻めの気持ちがあれば結果は変わったかもしれませんね。
2位になったティモシー・ゲーブル選手がよかったのと、僕の滑走順が最終組の1番だったのもよくなかったですね。あとに5人残っているから点数は絶対抑えられる。だから失敗したところで、メダルはもうないだろうなと思っていました。
それでも楽しかったですよ。メダルが獲れなかった悔しさはもちろん引きずったけど、それまではメダル候補でもなかった。ショート2位でメダル候補になったものの、もともと4番手、5番手だったので、4位に入れたのはよかったかなと。そう考えて、長野の世界選手権でリベンジしようと切り替えができました。
(文中一部敬称略)
後編につづく(7月17日公開予定)
<プロフィール>
本田武史 ほんだ・たけし/1981年、福島県生まれ。現役時代は全日本選手権優勝6回。長野五輪、ソルトレイクシティ五輪出場。2002年、2003年世界選手権3位。現在はプロフィギュアスケーターとしてアイスショーに出演するかたわら、コーチや解説者として活動している。