「クレメンテと話さなければ、今の活動はなかった」 村上雅則が知った「社会のために生きる」という使命

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2025年07月16日 10:20  webスポルティーバ

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ロベルト・クレメンテのDNA〜受け継がれる魂 (全10回/第2回)

 1965年夏、ピッツバーグのフォーブス・フィールドで交わされた、ロベルト・クレメンテと村上雅則氏のたった一度の会話。その何気ない出会いは、時を超えて、日本人メジャーリーガー第1号となった男の人生を大きく動かしていくことになる。

【クレメンテと交わした会話】

 1965年の夏、現在のパイレーツの本拠地であるPNCパークの二世代前にあたるフォーブス・フィールドでのこと。試合前の練習を終え、暑さをしのごうとタオルを首に巻いて外で涼んでいたところ、マッシーこと村上雅則氏はロベルト・クレメンテから声をかけられたという。そこで交わされたふたりの会話は、どこかコミカルで、思わずクスッと笑ってしまうものだった。

「ヘイ、マッシー! オレはロベルト・クレメンテだ!」

「よくわからねぇな。知らねえよ」

「オレとメイズ、どっちが上だ?」

「そりゃメイズだよ」

 メイズとは、1960年代を代表する名選手、ウィリー・メイズのこと。走・攻・守すべてに優れたファイブツールプレーヤーとして、MLBの歴史上でも最上位に位置づけられる存在だ。村上氏とはサンフランシスコ・ジャイアンツの同僚であり、ふたりの会話が交わされた1965年には、メイズはキャリアハイとなる52本塁打を放っている。

 かたやクレメンテも負けてはいない。同じ年、首位打者に輝いている。にもかかわらず、村上氏は当時、クレメンテのことを知らなかったという。

「だって当時はメジャーの情報が日本に入ってきていなかったんだから。ハンク・アーロンでさえ知らなかったよ。それにね、オレたちの時代はスコアボードに名前が表示されないんだ。出ているのは守備位置と背番号だけ。これじゃ誰が誰だかわからないだろ?」

 余談だが、クレメンテはメジャーデビュー直前の1954年から55年にかけての冬、メイズとチームメイトだった。ふたりが所属したプエルトリコのサントゥルセは国内リーグを勝ち抜き、カリビアンシリーズに進出。見事優勝を果たし、ふたりはその喜びの美酒を共に味わっている。

 メイズは、かつてのチームメイトについての話を村上氏にしていなかったようだ。すでにリーグを代表する選手となっていたクレメンテは、アジアから来たぽっと出の若者に「知らねえよ」と言われても気にすることなく、次の言葉を村上氏に贈った。

「大きくなって、人生に余裕ができたら、おまえも社会貢献活動をやったらどうだ? オレはやっているんだよ」

 村上氏とクレメンテの対話はこの一度だけ。長い時間をかけて話し込んだわけでもない。それでもクレメンテから投げかけられた言葉は強く心に残っていた。

【50歳の節目に始めた社会貢献】

 50歳を迎えた時、夫人の友人の誘いがきっかけとなり、知的障害のある人たちのスポーツ参加を支援する「スペシャルオリンピックス」への寄付を始めた。その友人とは、細川護煕元首相の夫人・佳代子氏だというのだから、奥様も顔が広い。佳代子氏は、スペシャルオリンピックス日本の名誉会長だ。

 そしてチャリティはゴルフコンペという形で行なわれ、ラウンド後には著名人が寄付した品がオークションにかけられる。自らの趣味に社会的な意義を持たせることこそ、長く続けられる秘訣なのだろう。

 スペシャルオリンピックスへの支援を始めて10年の節目に、村上氏はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)協会へのサポートも開始した。一度始めた支援を中途半端に終わらせるわけにはいかないと、資金的な目途が立った段階で、同協会へ寄付を始めたのだ。以来、村上氏は両団体に対して、今日まで継続して支援を続けている。

 日米の文化の違いを肌で感じてきた村上氏は、日本における慈善活動への理解の浅さを嘆いている。その一例が、東日本大震災直後の出来事だ。

「震災のあと、最初に寄付を申し出た選手が誰だか知っているかい? 朴賛浩(パク・チャンホ)だよ」

 1990年代後半、野茂英雄とともにロサンゼルス・ドジャースのローテーションを支え、5年連続で二桁勝利を挙げた元メジャーリーガーの韓国人投手は、東日本大震災が起きた2011年、NPBのオリックス・バファローズに所属していた。その彼が、日本人選手に先駆けて義援金を寄付したのは、地震発生からわずか5日後の3月16日のことだった。

 朴が寄付をしたことをきっかけに、多くの日本人選手がまるで堰(せき)を切ったかのように続々と義援金を寄付した。村上氏は、母国で起こった災害に対し、最初に支援を表明した選手が日本人でなかったことを嘆いた。しかし、東日本大震災が日本人選手の意識を変えるひとつのきっかけとなったことは間違いないだろう。

「いまの選手がチャリティをすることに対して、彼らの親世代には『あの野郎、いい格好しやがって』なんて思う人は、まだ多いんじゃないかな。実際、自分が始めた頃は周囲から散々言われたからね。でも、ダルビッシュ(有)や大谷(翔平)のように、日本の選手たちもチャリティに取り組む人が増えてきたのはいいことだよね」

 社会貢献に対する意識の高い現役選手が増えている現状を喜びつつも、彼らの親世代の余計な干渉を懸念する村上氏は、選手にとって理解ある祖父母世代の代表とも言えるだろう。

【一度きりの会話が人生を変えた】

 このあと話は少し横道にそれ、盟友であったメイズとの関係や、なぜサンフランシスコ・ジャイアンツが田中賢介以降、日本人選手を獲得しようとしないのかといった、楽しい話が続いた。

「賢介には『37番は永久欠番だぞ!』なんて言ったことがあるね。あの番号はオレのものだったからね」

 なんとも愉快な脱線だ。インタビューの予定時間が終わりに近づくと、最後にひとつだけ質問をした。

「もしクレメンテの家族がここにいるとしたら、何と言葉をかけますか?」

 村上氏の答えは予想されたものだった。それでも本人の口から聞くことに意味がある。

「彼と会って話しをすることがなかったら、いま行なっている活動をすることはなかっただろうね」

 直接話したのは一度だけ。それでもクレメンテは村上氏の人生に多大な影響を与えた。

 クレメンテは享年38歳。40歳を目前に控えながらも、惑うことなく行動した。論語における40歳の「不惑」は広く知られているが、では50歳は何と言うのか──それが「知命」である。孔子の教えに従えば、村上氏は50歳の節目に自らの天命を知ったのだろう。慈善活動が今日まで続くライフワークとなっているのだから。

つづく

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