火種を生んだ読売巨人軍(ジャイアンツ)のツイート
今年の父の日、読売ジャイアンツが「#父とジャイアンツ」のハッシュタグで「父と巨人」をめぐる思い出を募ったところ、ネガティブなエピソードばかりが寄せられ炎上する一幕があった。『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』の著書を持つ編集者・ライターの中野慧氏は、「我が物顔でのさばる巨人戦=野球はクソ」という感覚が日本の家庭内にあったと指摘、テレビ前で一方的に選手を批評するという「態度」が、こんにちでは批判的な視線に晒されていると論じる。
◆「巨人戦」へのトラウマを語る人々
今年の6月15日、プロ野球・読売ジャイアンツの公式Xが「#父とジャイアンツ」というハッシュタグで、「今日は、父の日。あなたのお父さんとジャイアンツの思い出はありますか。」と呼びかけた。
このポストには、夕方にテレビで巨人戦を観戦するサラリーマン風の「お父さん」のイラストに、「父のキゲンは、巨人が決めている。」というコピーが添えられている。
球団側には「お父さんとの楽しい思い出をシェアしてほしい」という意図があったと考えられるが、X上では「巨人が負けて機嫌の悪くなった父に暴力を振るわれた」「巨人戦のせいで好きなテレビ番組が見られなかった」など、ネガティブな思い出を語る反応が殺到。このポストは1か月あまりで5500万以上の閲覧数を獲得しており、日本スポーツ史に(ある意味で)刻まれる出来事になったと言ってもよいだろう。
筆者は’25年3月、日本の野球文化を歴史・メディア・身体などの視点から捉え直す『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書)という書籍を出版した。おかげさまで多くの新聞、ラジオ、雑誌、またSNSやYouTubeなどのプラットフォームでも話題にしていただいているが、本書は主に戦前の事象の分析に重きを置いたため、現代のメディア環境については書ききれなかった部分がある。
90年代から2000年代にかけて、一家にテレビが一台、録画といえばビデオテープという時代に青春期を過ごした人々にとって、「巨人戦」はある種のトラウマだったと言っても過言ではない。父が巨人ファンであれば、ゴールデンタイムのチャンネル権を握られ、子どもは観たいアニメやドラマをあきらめるしかなかった。筆者の父は巨人ファンではなかったものの、それでも巨人戦の放送で楽しみにしていた番組が潰れたり、中継延長で録画予約が台無しになったりすることは日常茶飯事であり、周囲からも同様の被害経験を聞くことがあった。
◆家庭で育まれてきた「野球はクソ」という感覚
拙著では、現代SNSでしばしば見られる「野球部はクソ」という見方を取り上げたが、SNS登場以前から当時の子ども世代のあいだで「我が物顔でのさばる巨人戦=野球はクソ」という感覚が、静かに共有されていたとも言える。いわば、プロ野球中継という戦後日本的「男らしさ」を象徴するコンテンツを好む「父」と、ドラマ・アニメ・バラエティ番組など必ずしも「男らしさ」にこだわらない新しいタイプの娯楽を求める――象徴的な意味での――「娘」の対立が、リビングルームの水面下で起こっていたのだ。
しかし2000年代後半以降、さまざまな外部環境の変化により「巨人戦」は以前のように我が物顔でメディア空間にのさばることがなくなった。娯楽の中心はテレビからインターネットへと移り、巨人戦の視聴率も低下、また多チャンネル化によって19〜21時の放送枠が守られ、中継が延長する場合はサブチャンネルに移行するなど、テレビ=マスメディアが見せつける「巨人戦の権力」は大きく衰退した。
’17年、野球の世界大会「WBC」の開催期間中、日本戦中継の大幅な延長により『カルテット』(坂元裕二脚本)というドラマの放映予定時刻が1時間以上繰り下げられる一幕があった。このときもドラマファンの激しい怨嗟の声がSNS上で吹き荒れた。今もWBCが開催されたり、メジャーリーグのポストシーズンに大谷翔平が出場したりと、大きな野球関係イベントがある際には「野球がテレビをジャックする」という状況が時折現れ、「家族間のトラウマ」が人々のあいだでフラッシュバックすることはある。しかし、その火種は20年前に比べ相当に小さくなっていると考えられる。
だが、まだ見過ごせない問題がある。「#父とジャイアンツ」への反応のなかでもとりわけ印象的だったのが、「父が巨人戦を観ながら、上から目線で選手を批評しているのが嫌だった」という声だ。こうした態度は、今なお野球ファンの間で珍しくない。
◆「観る」だけでなく、身体を用いてスポーツを捉え直す時代へ
たとえば、現在は多少衰えが見えるとはいえ、ジャイアンツの看板選手である坂本勇人のような華麗なグラブさばきや、豪快なホームランは、多くの人間にとっては到底真似できない身体的な技能の結晶だ。しかし、テレビの前や球場のスタンドにいる「父」は、ちょっとしたエラーや凡退に対して容赦ない罵声を浴びせる。自分は一度もプロの現場に立ったことがなくても、である。
しかもその姿は、ソファに寝そべり、ポテトチップスをつまみながら、リモコンを片手に“評価者”として振る舞うというものだ(なお、英語圏ではソファの一種であるカウチに寝そべりポテトチップスを頬張って受動的な娯楽に溺れる人々を、やや自嘲気味に「カウチポテト(couch potato)」と呼ぶ)。
そこには、ただテレビを“見ているだけ”だけにもかかわらず、家庭内で権力を振るうことができた「矮小な父」の姿が浮かび上がる。身体を使ってプレーをすることと、映像を通してそのプレーを消費し評価することのあいだに横たわる深い断絶――。それはテレビという“特権的メディア”が生みだしてきた構造である。
かつてテレビの前で選手をジャッジしていた「父」たちは、今やその権力を失いつつある。そして彼らの“上から目線”そのものへの批判的な眼差しもまた、社会の中で育ってきている。その一方で、私たちは、「観る」だけではなく「身体を用いてスポーツを捉え直す」という、新たな地点に立っているのかもしれない。
ランニング、ウェイトトレーニング、ヨガ、あるいはストリートスポーツを実践する人々、さらにはYouTubeやInstagramに現実の野球のプレー動画を投稿する人々もますます増えている。こうした 「実践者」たちの存在は、かつての“カウチポテト”的視線とは異なる新たなスポーツ文化の兆しだ。「観る」ことと「する」ことのあいだにある深い溝を見つめ直すこと。そうした実践の積み重ねの先に、スポーツという文化は新しいかたちで立ち上がっていくのではないだろうか。
【中野慧】
編集者・ライター。1986年、神奈川県生まれ。一橋大学社会学部社会学科卒、同大学院社会学研究科修士課程中退。批評誌「PLANETS」編集部、株式会社LIG広報を経て独立。2025年3月に初の著書となる『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書)を刊行。現在は「Tarzan」などで身体・文化に関する取材を行いつつ、企業PRにも携わる。クラブチームExodus Baseball Club代表。