伊良部秀輝、松坂大輔、藤浪晋太郎... プエルトリコの地に残る日本人選手たちの記憶とクレメンテの面影

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2025年07月17日 10:10  webスポルティーバ

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ロベルト・クレメンテのDNA〜受け継がれる魂 (全10回/第4回)

 プエルトリコの町・カロリナ。そこはロベルト・クレメンテが育ち、数々の日本人選手が足跡を残してきた地でもある。中日ドラゴンズ通訳の加藤潤氏が、現地を歩き、人々の記憶に耳を傾けながら、災禍と希望、そして野球との絆を記す。

【カロリナの生き字引が語る日本人選手の思い出】

 カロリナとサントゥルセの一戦。この試合、カロリナの先発は福岡ソフトバンクホークスの大竹風雅。しかし味方の守備の乱れもあって、3回で降板した。その様子を一塁側スタンドで、ふたりの年配ファンとともに見守った。ベンジャミン・クルスさんとアルベルト・ゴンザレスさん。

 この地で育った彼らは、カロリナの生き字引だ。ふたりの口からは、過去にカロリナを訪れた日本と縁のある選手たちの名前が次々と出てくる。

「レオ・ゴメスにヒラム・ボカチカだろう。なんといっても、我々にとってのスターはペドロ・バルデスだよ。今年は藤浪(晋太郎)をはじめ3人の日本人がプレーしているけど、昔から日本人はけっこう来ているんだ。

 松井稼頭央、大家友和、そして松坂大輔もね。球場の関係者入口で待っていると、みんな気持ちよく野球カードにサインしてくれたよ。そうそう、伊良部秀樹も来たけど、彼はちょっと難しかったね。サインはもらえなかったよ(笑)」

 20年以上前の話を、まるで昨日のことのように笑顔で語るふたり。彼らの語り口にかかれば、クレメンテも偉人伝の主人公ではなく、身近なご近所さんのように感じられる。

「クレメンテも完全無欠だったわけじゃない。パイレーツ時代、後年になって同郷の選手から『なんだよ、オレたちラティーノとは遊ばずに白人とばかりつるみやがって』なんて言われたこともあったんだ。本人はそんなつもりはなかっただろうけどね。

 それに子どもの頃は、ロベルトよりも兄のマティーノのほうが、じつは野球がうまかったんだ。マティーノは今でもこの近くに住んでいるよ」

 饒舌なクルスさんの隣で、温和な笑みを浮かべるゴンザレスさん。彼は長年カロリナで少年たちの野球指導をしており、そのうちの3人がメジャーリーグにまで上り詰めたという。そんなゴンザレスさんが、特に忘れられない思い出を語ってくれた。

「一度、ニカラグアの子どもたちをこの球場に招いたことがある。まだ幼いのに、彼らは涙を流していたよ。クレメンテの生誕の地を踏んだことに感極まってね」

【災害の記憶を伝える球場の屋根】

 ピッツバーグだけでなく、ニカラグアの人々にとってもこの場所は聖地なのだろう。ふたりに次の目的地がニカラグアであること、クレメンテにゆかりのある場所や1972年の地震の遺構を訪れる予定だと伝えると、和やかなクルスさんが真顔になり、スタンドの屋根を指差した。

「ほら、球場の屋根を見てみな。真新しいだろう。7年前に骨組みを残して、すべて吹き飛んだからだよ。これは我々にとっての災害遺構と言えるね」

 1972年12月23日がニカラグアにとって国難の日であるならば、プエルトリコにとっては2017年9月20日がそれにあたる。この日、ハリケーン・マリアがカテゴリー4(日本の気象庁の基準では「非常に強い」とほぼ同義)の勢力でこの地を襲い、島を南東から北西へ縦断してインフラを破壊し尽くした。装いを新たにした屋根を支えるスタンドの骨組みは、当時を知る生き証人だ。

 この天災のあと、プエルトリコ人をはじめラテン系の選手たちはあらゆる手段で被災者を支え、クレメンテの意思を受け継いでいることを示した。加えて、サンファン市内にある屋内競技場、ロベルト・クレメンテ・コロシアムが被災者の避難所として機能した。藤浪晋太郎が触れた、彼の名を冠した施設のひとつである。クレメンテが残した有形無形の遺産を、はからずもハリケーンがあぶり出した。

 翌日、クルスさんに教えてもらったクレメンテの兄が住む地区を歩いてみた。しかし正確な住所を知らなかったため、道に迷ってしまった。すると、不意に私の横で一台の車が止まった。熱帯の強い日差しに吹き出た汗が、一気に冷たくなる。パワーウィンドウがスルスルと下がり、ドライバーが顔を出した。

「乗って行けよ」

 前日に顔見知りになった、カロリナの選手だった。

「気をつけろよ。ひとりで歩くのはやめておけ」

 この日の試合の相手はポンセ。昨年まで千葉ロッテマリーンズに在籍していた東條大樹が武者修行に来ており、談笑した。

 ひとつ心残りだったのは、昨シーズンまで中日ドラゴンズに在籍していた福谷浩司と入れ違いだったことだ。ポンセの投手陣に「コージに写真を送るから集まって!」と伝えると、ウォームアップ中にもかかわらず笑顔で集まってくれた。

 広島カープと横浜DeNAベイスターズで活躍したジオ・アルバラード投手コーチは、彼の英語について「まあまあだな」とニヤリ。横で聞いていたスティーブン・アローヨ投手コーチがすかさず「いやいや、オレよりうまいだろ」と突っ込んだ。元チームメイトについて語る彼らの表情からは、福谷が同僚たちと良好な関係を築いていたことが伝わってくる。彼が充実した時間を過ごせていたようでなによりだ。

【深夜の聖地巡礼が紡いだ絆】

 じつは球場からの帰り道に苦労していた。出国前にUberタクシーのアプリをダウンロードし忘れていたのだ。日が暮れ、暗闇の中をひとりで強盗の危険がある場所に歩いていく勇気はなかった。するとクルスさんが、ホテルまで車で送ってくれるという。

「君がカロリナに来た理由を聞いて、放っておけないよ。せっかくだから、クレメンテにまつわる場所に寄りながらホテルまで送るよ」

 なんとも有り難い申し出に頭が下がる。試合後、クレメンテにゆかりのある場所を巡るナイトツアーへと繰り出した。向かった先はビジャ・サンアントン地区。カロリナのなかでも特に貧しいエリアであり、決して治安がいいとは言えない。麻薬マフィア警戒の言葉が頭をよぎるが、クルスさんはそんな私の不安を察したようだ。

「あまり治安のいい地区とは言えないね。でも、ここの住民同士の結びつきは強いよ。ほら、この路地の奥が、クレメンテが子どもの頃に過ごした場所だよ。さっと車から降りて、写真を撮ってきな」

 クレメンテ自身がニカラグアを訪れた際に抱いた印象は、「30年前のプエルトリコ」だったそうだ。貧しくとも、人々は助け合いながら生きている。ここビジャ・サンアントンは、カロリナのなかでも昔ながらの生活が残っている数少ない地区なのだろう。

 翌日、早朝のサンファン空港を経て、経由地のパナマシティへ向けて飛び立つ。クレメンテを乗せた飛行機は、1972年12月31日の深夜、この場所で漆黒の海へと消えた。しかし、いま私の視界に映る水面は朝日に照らされ美しい。

 幼少期には弟・ロベルトよりも野球がうまかったという兄のマティーノは、今年3月に97歳で亡くなった。大往生だろう。朝日を浴びて輝く海原の光景は、まるで半世紀の時を越え、兄との再会を果たしたクレメンテの魂を映し出しているかのように神々しかった。

つづく>>

ロベルト・クレメンテ/1934年8月18日生まれ、プエルトリコ出身。55年にピッツバーグ・パイレーツでメジャーデビューを果たし、以降18年間同球団一筋でプレー。抜群の打撃技術と守備力を誇り、首位打者4回、ゴールドグラブ賞12回を受賞。71年にはワールドシリーズMVPにも輝いた。また社会貢献活動にも力を注ぎ、ラテン系や貧困層の若者への支援に積極的に取り組んだ。72年12月、ニカラグア地震の被災者を支援する物資を届けるため、チャーター機に乗っていたが、同機が墜落し、命を落とした

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